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第12話

 次に和佳から遠足の話を切り出されたのは、週が明けてすぐのことだった。

 その日はあいにくの雨で、傘をさしていつもの待ち合わせ場所に行ったものの、案の定ベンチはびしょ濡れだった。

 梅雨入りしたと、朝のニュース番組でお天気お姉さんが言っていた。しばらくは雨模様が続きそうだ。

(うーん……代わりの場所探さなきゃだよね……)

 三年生の和佳に、夏生の教室に来てもらうわけにも行かないし、逆も然り。そもそも和佳は教室で生活していないけれど――。

 そうなると、屋内で考えれば食堂やカフェテリア、または校舎一階にあるラウンジスペースぐらいになってしまう。しかし、どこも昼休みは人が集まっている場所だ。

 どうしようかと夏生が悩んでいると、和佳が控えめに申し出た。

「あの、もし良かったら……保健室に行く?」

「それって、先輩がいつもいる?」

「うん、そう」

 保健室で弁当を食べてもいいんだろうか。刹那、そう思ったが、よく考えれば和佳は夏生とこうやって一緒にいるまでは、保健室で昼食も食べていたんだっけと思い直す。

 しかし、そんな夏生の一瞬の迷いを、嫌がっていると思ったのか和佳が慌てて付け加えた。

「あのね、保健室って言っても部屋が区切ってあるから利用者がいても顔を合わせないし、依岡先生も小川さんに会ってみたいって言ってて……良い機会かなって……」

 言葉尻になるにつれて声が萎んでいく。

「ごめんなさい……こんなに雨が降ってたら梅雨の間はお弁当なしかしら……?」

 和佳はしゅんと肩を落としながら、傘の持ち手を両手で握り込んだ。不安そうに、細い指をすりあわせている。

 とたんに、ぬるま湯のような温かさが夏生の胸に広がった。

(嬉しい……そんな顔してくれるぐらい、気に入っててくれたんだ)

 傘の影で和佳の顔が隠れてしまい、もどかしくなって指で押し上げた。上目遣いに見てくる瞳に自分が映っていて(嬉しそうな顔してる……)と他人事みたいに思った。

「行ってもいいの? 邪魔になんないかな」

 私、無駄にでかいし。とちゃかしてみると、和佳は大真面目に首をぶんぶんと振って「そんなことないよ」と言った。おかしくなって夏生は笑いながら「じゃあ行こう」と和佳の手をとった。

「あれ? 保健室って中等部のほうなんだ?」

 和佳の足並みに合わせて歩いていたが、和佳はいつものベンチがある中庭横を出ると、すぐ眼の前にあった中等部の建物沿いに進んだ。

 夏生の疑問に、こくりと頷いて返す。

「高等部のほうにも簡易的な処置ができるものが職員室脇にあるけれど、養護教諭の先生がいるのは中等部のほうなの。こっちはちゃんとベッドとかも並んでるのよ」

「へ~」

 保健室なんて、これまでの人生でお世話になることがなかった夏生としては、少しばかりドキドキしてしまう。

 まっすぐ進み、グラウンド側の校舎の隅で和佳は軒下に入って傘を畳んだ。

 保健室は外からでも出入りが出来るようで、ガラスのはまった引き戸の前には小さな玄関マットと傘立てが置いてあった。

 綺麗に畳んだ傘を入れ、和佳は慣れた様子で扉を開けて中に入っていく。

「失礼します。依岡先生―?」

 内側に置いてあったのは和佳の上履きのようだ。それを履いて、奥に向かって呼びかける。夏生は体を小さく丸めて「失礼しまーす」と小声で囁き、無造作に置いてあったスリッパを拝借した。

 外玄関は、ちょうど廊下側の扉と向かい合うように設置されていて、中央には長方形のテーブルと丸椅子が並んでいる。そして、壁沿いには真っ白な寝具が眩しいベッドが五つ並んでいた。その脇にはデスクが一つ。

 ベッドが並ぶ反対側の隅には、入り口からは見えないようにパーテーションで仕切られた区域があり、そこから、丸眼鏡をかけた穏やかな雰囲気の女性が顔を出した。

「あらあら和佳ちゃん。今日はずいぶん早く帰ってきて」

「雨でベンチが使えなくて……ここで食べてもいいですか? 小川さんも一緒に」

 和佳は、背後で静かにしていた夏生の手を取り、そっと存在をアピールする。養護教諭――依岡は、垂れた瞳をまんまるにして夏生をみると、ぱっと表情を華やかにした。眼鏡の奥で、目元に柔らかな皺が寄る。

「まあまあ、あなたが小川さんね」

 パーテーションの向こうからパタパタと白衣を揺らしながら依岡が現れる。和佳よりも小柄でふくよかな女性だ。そのせいか、余計に雰囲気が柔らかく見える。

「和佳ちゃんがよく話してくれるのよ。今日のお弁当の中身とか小川さんのお話とかたくさんね」

 和佳ちゃんたちだもの特別よ、と依岡に背中を押されてパーテーションの奥に押し込められる。

 そこにも長方形のテーブルがあり、今度は背もたれつきの椅子が四つはまっている。

 壁際には本棚が置いてあって、資料などが置かれていた。そのうちの一段に、高校三年生の教材がしまってあることに気づき、

(片桐先輩はいつもここで生活してるんだな~)

 と感慨深く思った。

 二人は向かいあうように座り、いつもみたいに弁当を広げる。そうして食事を始めてすぐに、和佳が遠足のことを切り出したのだ。

「……あの、来週……私も一緒に行ってもいいかしら?」

 外の雨音ぐらいに小さな声でいうものだから、夏生はあやうく聞き逃すところだった。

「行けるの!?」

 身を乗り出して興奮して言うと、和佳の頭が小さく頷く。

「母はダメよって……心配してくれてたんだけど、父がね、最後なんだから行ってきなさいって。珍しく佐々山さんも後押ししてくれて……」

 母に最後まで反対されていたことが気がかりなのか、和佳の表情にはどこか影がある。しかし、言葉の節々からは嬉しいと言うことが伝わってきた。

 普段、無表情で感情のつかみにくいお手伝いの佐々山が味方してくれた、というのもあるのかもしれない。

「やったあ……楽しみだね」

 でもそっか……。先輩は最後なんだ。

夏生はまだ入学したてだが、よく考えれば和佳は今年が高校生活最後の一年なのだ。例え同じ系列の大学に進むとしても、大学生と高校生では生活が異なる。遠足やらと学校行事に励めるのは高校生が最後だろう。

(……そっか。来年は片桐先輩いないんだ)

 一年ほど先のことなのに、そう思うだけで胸が切なくなった。淋しいなと思ってしまう。

 たった一ヶ月で、和佳の存在は夏生の随分と深いところまで入ってきているのだと実感する。

「あれ、そういえば先週の金曜が締め切りだったけど……」

 今からでも間に合うのだろうか。心配になって、夏生の嬉しさがとたんにしゅるしゅると萎んでいく。

「あっ、それなら学年主任の空谷先生にお願いして保留にしてもらってて……今日、これから伝えてこようかなって」

 空谷とは、数学担当の四十代の女性教諭だ。夏生のクラスの担当もしているのでよく知っている。

 パーマをかけたような緩いくせ毛の茶髪と垂れ目で、一見穏やかそうな印象を受ける。常ににこやかに笑っていて、目元に薄ら皺が寄ると、余計にその印象を強めた。実際、口調も柔和で優しそうに見えるが、夏生からするとなにを考えているのか分かりにくくて、苦手だ。

 依岡のような人は純粋に優しく見えるのだが、空谷は裏がありそうなのだ。

 それに、夏生と同じぐらいに背が高く、背中には副種族である猛禽類の大きな羽根を携えているので、不思議な威圧感を感じてしまう。

(そういえば、三年生の学年主任だったんだっけ……)

 教師に話を通してあるなら大丈夫か、と夏生の気持ちはまた上を向く。

 和佳は遠足への参加は認めてもらえたものの、屋内でかつ無理をしないという条件付きだと話した。

「なら、スカイツリーかな? あそこ基本的に屋内だし」

 上野公園も博物館やらに入ってしまえば屋内だが、建物間の移動は外だ。何日か前に目を通したパンフレットの情報を思い返しながら夏生が言えば、

「十年ぐらい前に建設された電波塔よね?」

 と和佳が言う。

「うん。電波塔のスカイツリーと商業施設のソラマチ、オフィス施設のイーストタワーがまとまってるんだって。スカイツリーは展望デッキとか展望回廊があるし、ソラマチには色んなお店が入ってるっぽいの。そのほかに水族館とかプラネタリウムもあるって」

「水族館?」

 長い睫毛で縁取られた瞳が、興味があるようにぱちぱちと瞬いた。

「そう。水族館も入ってるの。行ってみる?」

 訊くと、ちょっと迷ったように視線を揺らしてから和佳は頷く。

「じゃあ、希望地はスカイツリーってことで!」

「ええ」

 ニッコリと笑い、和佳がしっかりとした声で返す。そんな二人の声を聞きながら、依岡は朗らかに笑って仕事に取り掛かり始めた。

 夏生は内心でほっと肩をなで下ろした。

 和佳は教師に話してこうして保留期間をもらえていたが、夏生はそうはいかなかった。先週の金曜には締め切りがあり、悩んだ末に、もし和佳が来られなくてもとりあえず適当にショッピングでもしてようかな、とスカイツリーを選んだのだが、それが功を成した。

(あやうく先生に頼み込んで場所を変えてもらう羽目になってたわ。危ない危ない)

 一緒に行けたらいいと思ってた。けれど、和佳が両親の意見をはね除けるのは無理だろうな、とも思っていた。

 だが、結果として和佳が時間はかかったもののこうして夏生と過ごす時間を設けてくれた。

(この人の中で、ちょっとは私の占める割合が増えてたりするのかな……)

 そうだったらいいな、と空の弁当箱を閉めながら夏生はそんなことを思った。

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