目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第10話

 あれから夏生は、毎日のように弁当を二つ持って和佳のもとに向かった。

 回数が続くと恐縮したように和佳が「受け取れない」と騒ぐので、代金と交換になった。

 和佳は学校の食堂に特別にお願いして、自分の分の弁当を用意してもらい、保健室まで運んでもらっていたらしいのだ。その弁当の料金を代わりに渡すと言われたのだが、あまりに金額が大きかったので、母に相談し、ほんとうに少しばかりの小銭だけ受け取っている。

 ――驚くことに、和佳は教室ではなく保健室に登校し、一日中そこで勉強や課題を済ませて単位を取得しているというのだ。

 これも全て、和佳の体を心配した両親が学校との交渉の末に取り付けたものらしく、登下校もお手伝いさんの送迎があるため、移動以外では外に出ることはない。

 そのことを不憫に思ったのか、養護教諭が両親に内緒でこうして昼休みの間だけでも、と外に出させてくれているらしい。

 それを聞いた時、夏生はますます和佳が不憫に思えた。二年近くの受験勉強の引きこもりだけでも鬱々とした気持ちを抱えていた夏生としては、生まれてからずっと屋内でのみの生活、というのは想像するだけで肩が凝る。

 和佳は音楽を聴いたり、本を読むのは楽しいからと笑っていたが、彼女が意外と外のものに興味が深いことを夏生はこの短い時間でも知っていた。

 ぼんやりと木々の動きや花を眺めているときはリラックスして見えるし、鳥が近くで鳴いていると「なんの鳥かしら」と周囲を探している。

 夏生が持ってくる弁当だって、毎日楽しみにしていることを知っているのだ。

 弁当を渡すようになって一ヶ月。六月に入り、衣替えを経て、制服も夏らしく半袖のブラウスになった。真っ白なブラウスは、和佳の柔和な雰囲気によく似合う。

 五月の下旬には中間試験があり、試験期間は全て午前で学校が終わるので、会うことがなかった。試験期間が終わり、久方ぶりに弁当を持って現れた夏生を見て、和佳はほっと安堵していた。

 その頃には、夏生自身も弁当でどれだけ和佳を驚かせるか、と母と頭を悩ませながらも楽しんでいたので、来なくなると思ってたの? とそんな和佳の態度にもどかしさを覚えたものだ。

 負けた気がする、と半ばやけになって勢いで始まった二人の逢瀬だが、いつしか夏生は和佳を笑わせるためにあのベンチに通っていることに気づく。

 代桜女に入り、勝手に失望してぼんやりと過ごしていた入学当初とは違い、和佳との時間を経て、学校生活が楽しく待ち遠しいものになっていた。

 それは、はたから見ても分かるものなのか、週半ばにあるその日の最後の授業――LHRの時間に、朝川から声をかけられた。

「最近、楽しそうですわね、夏生さん」

「え、そうかな?」

 見て分かるほどに? と思いつつ訊き返すと、朝川は微笑ましそうに頷く。

 今日のHRは、二週間後にある遠足に関する話し合いだ。

 教師は教壇の椅子に座って見守り態勢で、生徒たちはそれぞれ自由に話をしているので朝川がこうして話しかけてきても悪目立ちすることはない。

「ちょっとね……その、学校に来る楽しみが増えたからさ……」

「良いことですわ。楽しいことが多いと毎日も充実しますものね」

 おっとりと微笑む朝川は、夏生がわざとぼかした言い方をしていると気づきつつも、深堀りはしてこない。そういうところが、朝川が学級委員としてみんなから慕われる所以なのだろう。人との距離感を保つのが上手なのだ。

 無遠慮につつき過ぎず、しかし相手に無関心なわけではなく、むしろよく見ている。

(すごいなあ……)

 純粋に感嘆としていれば、ふいに前の席の生徒がくるりと振り向き、朝川と夏生に「ねえ?」と呼びかける。

「遠足、二人はもう決めた?」

 きょろきょろと、彼女――岩瀬芽依いわせめいの愛嬌のあるつり目が二人を交互にみやる。岩瀬も、入学当初から席が近いからと、朝川とともに夏生を気にかけてくれている一人である。

 明るい茶髪をいつも高い位置で二つに結っていて、こめかみからは二本の緑色の枝が伸びている。

 副種族は『アオモジ』という植物で、出会った頃――春先には枝いっぱいに小ぶりな淡黄色の花を咲かせていた。

 今は花は咲ききってしまい、緑の鮮やかな葉が揺れている。アオモジは精油になるぐらい香りが良く、岩瀬の傍によるとレモンのような香りが鼻につく。

 今だって振り向いたときの動きで、ほんのりと爽やかな匂いが夏生や朝川に届けられた。

「私は上野公園にしようかと……灯里あかりちゃんと一緒に博物館巡りをしますの」

 灯里とは、いくつかクラスの離れた朝川の幼なじみの名だ。夢心地な朝川の声に、岩瀬は「いいね! 幼なじみだっけ」と返し、今度は夏生に目を向けた。

「夏生ちゃんは? もう決めた?」

「いや、私はまだ……もう少し考えようかなって」

「そっか~……まあ希望地の提出は今週いっぱいだし、たくさん考えて決めた方がいいよね!」

 ぐっと親指を立て岩瀬は笑う。

「ちなみに、私は浅草巡りしようと思ってる! なんだかんだ行ったことなかったしさ~」

「まあ、そちらも楽しそうですわね」

 にこやかに会話をする二人の横で、夏生は(遠足か……)とぼんやり黒板を見た。

 大きく書かれた「遠足」の文字。その下には、二週間後の日付と「上野公園」「浅草」「東京スカイツリー」の三つが書かれている。

 代桜女は中間試験を終えた六月半ばに遠足があるが、その行き先は毎年違う。今年は黒板に書かれた三つの見学場所から生徒それぞれが希望を出し、どこか一つに向かうというもの。そして、三学年合同だ。

 東京散策、と聞いて(代桜女生のほとんどは地元じゃ……?)と思ったが、岩瀬のいうように、地元だからこそ行ったことがないということもあり得るのだ。

 ちなみに、夏生は電車通学者の隣接県出身のため、その三つにはもちろん行ったことはない。

(片桐先輩ってどこにするんだろ……)

 どうせだったら一緒に回りたいと思った。ずっと保健室登校みたいだし、もしかしたら一緒に回る人はいないかもしれない。それなら、夏生と一緒にいられる。

 机の上には、希望地を書くプリントと教師が参考になればと渡してくれた薄いパンフレットたち。

 それを一つにまとめ、夏生は明日確認しよう、と決めたのだ。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?