この世界には、さまざまな人種が存在する。
遙か昔は、皮膚の色や毛髪、骨格といった体の形態的特徴で大まかに分類されていたそうだが、現在ではそれらは更に細分化されている。
人類は、人間以外の種族の特徴も併発して生まれてくるようになったのだ。ベースとなる人の形は大きくは変わらず、そこに他の生物の特徴を併せ持つことになった。
下地となる人間以外の種族のことを、「
保険証や身分証など個人を示すものには、氏名などの他にこのカテゴリーナンバーが必ず明記されており、さらに詳細な情報が必要となる病院のカルテなどには、その個人のもつ副種族の特徴とそのステージが記載されている。
――ステージとは、個人に対して、副種族の特徴がどの程度発現しているか、を示す割合のことだ。Ⅰ~Ⅲの三つに分かれ、朝川のように表面的に軽微な特徴の発露がある場合は「Ⅰ」。そこから人体への浸食具合を見て、日常生活を送るのに支障がある、または命にかかるような重度のものは「Ⅲ」に割り当てられる。
副種族は個人差が大きく、同じ魚の副種族を持つ者がいたとしても、一人は肌に鱗があるだけもう一人は水に入らねば息苦しさを覚える、というようにどんな特徴が出るかは個人によって大きく異なる。
副種族をもつことが当たり前になったこの社会で、全く同じ特徴をもつ人間は存在しないとされる。
しかし……、と夏生は思うのだ。
自分のように副種族を持たずに生まれた人間を、自分だと証明できるものはなんなのか、と。
小川夏生の保険証や身分証には、総じてカテゴリー欄には無種族を表す「No.0」が記載されている。個人差が大きいために医療行為の際に大きな障害ともなる副種族がない、というと医師からは大変喜ばれる。
夏生が副種族を意識したことなど、ときおり風邪を引いて医者にかかったとき以外にはなかった。
小学校の頃から近所の陸上クラブに通っていて、その練習に明け暮れていたので気にする余裕もなかったというのが正しいかもしれない。
しかし、それも高学年になるまでのことで、成長を伴いみんなの体が大きくなって副種族の性質も引き伸ばされていくごとに、言い知れない焦りのようなものを感じるようになっていた。
きっと無意識下では自分でも気づいていたのだと思う。無種族と、副種族をもつみんなは違うんだと。
学年が上がるに連れて競技人口も増え、いつの間にか副種族が競技結果に影響を与える者とそうでない者たちとでレースが分かれるようになった。
それでも、夏生は地元の中学に進学してからも陸上部に入って走り続けた。しかし、走れば走るだけ、どんどん息が苦しくなっていく。体が、走ることを拒否するように重くなっていった。
きっと、幼なじみが同じように短距離選手だったというのも起因していると思う。
彼女は、豹の副種族を持っていた。夏生とは違って頭上にふさふさの耳がついていて、頬からはピンとヒゲが真っ直ぐ伸びている。
幼いころはさほど変わらなかったタイムも、中学に上がる頃には到底夏生が追いつけない次元にいた。
同じように二本の足で立っていたって、その皮膚の下に覆われた筋肉は、夏生とは比べものにならないほど発達しているのだ。
彼女の副種族を強く感じるようになってから初めて、夏生は陸上の競技人口のおよそ七割以上が動物の副種族を持つ者だと気づいた。
それは陸上競技に限った話ではない。さまざまなスポーツ競技において、それをするに適した副種族を持つ者が占める人口の割合というのはひどく高い。
それに気づいたとき、夏生は愕然とした。
そして、中学二年の夏の大会で、崖淵に立っていた夏生を後押しするように、ある観客の言葉が耳に飛び込んで来た。
――第二部のレースの子、速かったな~。
――やっぱ見るなら種族有りの方だよな。迫力が違うし。
――第一部の子も速かったけど、どうしても見劣りするんだよな。
――まあ、どうせ前座のレースだからな。しょうがねーよ。よく走ってる方だと思うよ。
言った相手の顔なんて覚えてもいない。多分、夏生は衝撃に俯くだけでその人たちの顔すら見ていないと思う。
「前座……」
なんだそれ……。
吐き捨てた言葉は、音にはならずただ夏生の喉で掠れて消えた。
心の内ではぐるぐると色んな感情がない混ぜになって、溢れかえっていたのに、ただそれだけしか言葉が浮かばなかった。
何様だ、とか。怒りが沸いたのは一瞬で、そのあとは自分の心は不思議なほど静かだった。
「夏生―! お疲れ! 私も一番だったよ!」 二部のレース――午後の種族有りの部で、見事一位になった幼なじみの彼女が、メダル片手に駆け寄ってくる。
体毛で覆われた耳がひくひくと嬉しそうに揺れていて、メダルを持った手を見せびらかすように大きく掲げていた。
夏生の手にも、同じメダルがあった。
雲一つない夏の空は、距離感が分からなくなるような――吸い込まれるような錯覚を覚えるほどに真っ青で、それを背に駆ける幼なじみの姿を見たとき、夏生は自分の心がポッキリ折れる音を聞いた。
その日、どうやって自分が帰ったのかは薄ぼんやりとだが覚えている。
なんとか表情を取り繕って、一緒に帰ろうと言う幼なじみと別れて電車で一人帰宅した。乗り換えの車両を待つ最中、後ろに並んでいた女子高生たちのひそひそ話がずいぶんと大きく聞こえたのだ。
――見て、代桜女の人だ。綺麗~……
――やっぱ制服可愛いよね~。しかもさすがお嬢様、品があるわ……
――でもお金もあって頭も良くないと行けないし……夢のまた夢ね
――別世界って感じだもんね~
そろりと視線をずらせば、少し離れた列に一人の女子生徒が立っていた。ピンと張った背筋と静かな佇まいが、彼女の凜とした美しさを助長させている。
リボンで結わいた長い髪がふわりと風で揺れ、甘い匂いが飛んできたような……そんな幻覚を見た。
黒でカッチリとまとめられたボレロとジャンパースカート。しかし、真っ白な丸襟のブラウスとソックスがほどよく柔らかさを出し、胸元の真っ赤なタイが目を引いた。
どこか異世界のような別次元の美しさに思わず目を奪われる……そんな上品な美しさをもつ姿に、夏生の心臓はドキドキと音を立て始めた。
(代桜女……私でも知ってる、有名なところだ……)
確か初等部からの繰り上がり制で、中学と高校時には少数だが外部からの進学も受け入れていたはず。
虚ろだった心の内にぽっと明かりが灯った。
(もし、こんな学校に行けたら……私だって、副種族の代わりになにかを手に入れられるかも……)
サラリーマンや学生たちがまばらに待つ駅のホームで、その少女の姿だけが特別きらきらして輝いて見えた。
夏生は翌週には部活をやめ、代桜女を目指して受験勉強に取り組み始めた。