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第2話

 小川夏生おがわなつきが、都内の代桜山たおやま女子高等学校――通称代桜女たおじょに入学したのは、一ヶ月前の四月の頭のことだ。

 すでに散り始めていた桜を淋しく思いながら、夏生は入学式のために正門をくぐった。

 代桜女は、数年前に創立百周年を迎えた伝統ある女子高で、初等部から大学までエスカレーター式に進学することが可能だ。

 夏生は高等部からの数少ない外部進学生――外進生の一人だった。

 一学年の生徒数はおよそ二百五十名。そのうちの四十名前後が、中等部もしくは高等部からの外部入学者だ。

 所属するほとんどの生徒が初等部からの持ち上がりで、またそんな幼少期から、馬鹿にならない学費を払い続けられる――経済力のある親をもつ生徒が大半となるため、代桜女はいわゆる「お嬢様学校」としてもよく知られていた。

 初めはどんな令嬢たちが優雅な学生生活を送っているのかと、恐々としていた夏生だったが、入ってみれば確かにみな穏やかで品のある生徒が多いものの、気後れするほどの格式の高さなどを強く感じることはなかった。

(意外と普通なんだ……)

 と、入学早々のクラスでの自己紹介時に思ったことは内緒である。

 しかし、歴史あるはずなのに綺麗で真新しい校舎や、整った設備などをみるとやはりお金がかかっているものだな、と思うのだ。

 都内にあるにも関わらず広大な敷地を有しており、中等部と高等部は同じ敷地内に――初等部は同じ地区の少し外れたところに構えていた。都内に二つのキャンパスを有する大学だけが、離れたところに点在していた。

 中・高等部入り口である正門には、守衛室が完備されていて、生徒や教職員以外はまずそこで記帳を済ませねば敷地に入ることを許されない。

 正門は、車でもくぐれるほどに大きく、そこからまっすぐに道が流れている。進むと、噴水を中心にロータリーがあり、車で送迎される生徒はそこで乗降する。駅から少し歩くこともあり、最寄り駅から通学バスも出ているため、ロータリーにはバス停も備え付けられていた。

 夏生も、駅からはこの通学バスを使っていた。

 ロータリーで降りると正面には事務室や食堂が併設された本校舎があって、隣には五階建ての大きな図書館がある。西に向かえば中等部。東に向かえば高等部の校舎があった。どちらも五階建ての大きな建物だ。

 敷地内の通路の多くは石畳で、その脇を低木の常緑樹が並ぶ。

 そして、イチョウやクスノキなどの大木が伸びてほどよく影を作り、木漏れ日で鮮やかになる自然をより印象的に見せていた。

 学校の敷地内……とは思えないほどに自然が多く、学校見学の際に夏生がまず目を引かれたのは緑の多さにだった。

 花壇も多く、季節ごとに様々な花が緑の多い敷地に色を添える。

 その景観を楽しむためにか、校内の至る所にベンチが置かれているし、購買と併設されているカフェテリアには、テラス席もある。

 体育の授業を終えて教室に戻る道中、夏生は周囲の景色を眺めながら(やっぱ学校じゃないよな……)なんて思ってしまうのだ。

 すでに一ヶ月はここで過ごしているくせに、やはりまだ、庶民の自分には慣れないものだと実感する。

 グラウンドから、夏生たち高等部学生の校舎までは、移動だけでも時間がかかる。そこから制服に着替え、教室に戻って次の授業の準備やら……と過ごすとあっという間に休み時間など終わってしまう。

 校舎に入って、一階にある更衣室に向かった。教室の各自に割り当てられたロッカーとは違い、更衣室のロッカーはその都度空いているものを使う。

 一クラスの生徒数がまるまる入るし、他学年と重なることもあるため、更衣室といっても教室と同じくらいには広いものだ。

「夏生さん、五十メートル走すごく速かったですわね」

 隣で微笑みながら言ったのは、クラスメイトの朝川詩乃あさかわしのだ。真っ黒の長髪に添えられた明るい色のカチューシャがはっと目を引く。目尻の垂れた瞳のせいか、それともお淑やかなその言動のせいか、ほわほわした雰囲気をもつ小柄な生徒だ。

 彼女自身は初等部からの内部進学生――内進生だが、席が夏生と隣だったこともあり、こうして仲良くしてくれている。慣れないことも多く、親切な彼女の気遣いはありがたいものだが、その話題は出来れば触れないで欲しかった、と思ってしまった。

「速いって言っても、動物の副種族持ちには敵わないし……そこまででもないよ」

「そうでしょうか? 私は動くのは苦手ですから十分だと思いますけれど」

「ないない。私レベルじゃ速いなんて言えないよ」

 笑いながら、このまま終わってくれないかなと話を流す。朝川は、ちょっと不服そうに口を噤んだものの、「そうですのね」と言った。

 多分、夏生がこの話を避けたがっていると察してくれたんだろう。

 穏やかで大人しそうに見える彼女だが、長年学級委員を務めているせいか人の先頭に立つことが多く、察しが良くて賢い。

 ほっと小さく肩を落とした夏生を横目に、朝川はロッカーから取り出した霧吹きで体を湿らせ始めた。

 そんな朝川のことを、ブラウスを羽織りながら夏生は盗み見る。

 彼女の腕には薄らと鱗状に白い線が浮き上がっており、それが水を得るとするりと肌に溶け込むように消えていった。

「……あ、ごめんなさい。お水かかりましたか?」

 じっと見ていたせいか、朝川が申し訳なさそうに後ずさった。夏生は手を振って「違うの!」と弁明する。

「ごめんね、私、無種族だからなんだか珍しくてじっと見ちゃって……ごめん」

「あら、そうでしたの? ふふ、気になさらないで大丈夫ですよ? 濡れてしまったわけじゃないなら良かったです」

 胸をなで下ろすように小さく笑むので、なんだか夏生の方が罪悪感に駆られる。それを誤魔化すように、着替えを進めながら

「朝川さんて魚の副種族だっけ」

 と、なんとなしに訊ねてしまい、はっと口を噤んだ。

 副種族はプライベート情報。見た目で判別が出来る場合も多く、ほとんどの人はあまり気にしないが、人によっては特大の地雷が潜んでいる場合もあるデリケートな話題だ。

 ひやりとしたものの、朝川は気にした様子もなく頷いた。

「ステージは「Ⅰ」なので、大したことはないのですが、どうしても乾燥したり陽に長く晒されると鱗状に肌が切れてしまいますから……耳もひりつきますし」

 そっと朝川は自分の耳に手を添える。

 耳と言っても、夏生と同じような丸い柔らかな耳ではなく、全体的に半透明で、先端に行くにつれて青みがかった魚のヒレのような形をしたものだ。

 困り顔の朝川に、「大変なんだね」と夏生は労りの声をかけ、着替えの最後に胸元で深緑色のタイを結んだ。

 ロッカー扉の内側に備え付けられた鏡で簡単に身だしなみを確認する。肩にギリギリとどかない髪の毛は、外に跳ねているがそれ以外は問題なさそうだ。本当は朝川のように真っ直ぐ伸ばしたいものだが、毎朝どれだけ時間をかけても一向に直らないので、最近は諦めている。

(ずっと伸ばしたことなんてなかったからな……まさか自分の髪にこんな癖があるとは……)

 小学校から中学にかけて、夏生は陸上をしていた。専門は短距離走。中には髪を伸ばしている生徒もいたが、夏生はいつも走るときに邪魔だからと短く切りそろえていたのだ。

 部活を辞め、良い機会だから髪を伸ばそうと思ったものの、早々に心が折れてしまった。

 髪を手櫛で整えながら、夏生は鏡を覗く。

 日焼けした肌は以前よりは落ち着いたものの、朝川のような真っ白な肌と比べれば黒いだろう。

 瞳はつり目がちで、黙っていると怒っているように見られる。しかも、百七十ある身長のせいで、余計に威圧感を覚えるのか、怖いという印象を持たれることも多かった。

 部活一筋であまり交友関係を重視してこなかったため、友達だってほとんどいない。親交があるのは、近所の幼なじみぐらいだったが、それも今は絶たれている。

 しかし、朝川のように耳が魚のヒレみたいになってはいないし、肌だって滑らかな表面を保っている。他の生徒のように尻尾が生えていたり、花が咲いていたりもしない。いたってなにもない、平凡な人間の形をしている。

 自分の姿をじっと鏡越しに睨み、夏生はため息を吐きながら鏡から逃げるように扉を閉じた。

 いくら見つめたって自分の容姿が変わることはないし、副種族が突然芽生えることはない。

 一時期は副種族を持たないことにどん底まで落ち込んだものの、少し前まではそんなことを気にする余裕もなかった。

 それは単にこの代桜女に入学するという目標があり受験勉強に忙しかったからで、ここに入れば、なにも持たない自分でも、自分だけの特別なものが得られると思っていた。

 しかし、入学して一ヶ月――夏生は想像していたような輝いた学校生活を送っていたわけではなかった。

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