陽希の朝は、まず電話をかけるところから始まる。
アラーム音ですんなり起きると、そのまま布団の上で膝を抱えて陽希は携帯の通話ボタンを押した。
冬になると布団からなかなか抜け出せないと聞くが、今のところ陽希は一度ですっきり眼が覚めている。起きるのに苦労するという思いをしたことがなかった。それに今は、起きてすぐに嬉しいことがある。
ベッドの上で座ったままカーテンをめくってみると、窓は朝の冷えた空気のせいか結露して濡れていた。
耳元で呼び出し音が長く鳴って、そろそろ切れちゃうかなと不安に思ったところで通話中に切り替わった。
――もしもし……稲葉?
気だるげな声に名前を呼ばれ、「おはよう、青島くん」と挨拶すると、再び滑舌の危うい声が「おはよう」と同じように返ってきた。
今日はまだ目覚めが良いほうだ、と陽希は思った。
たまにもっと寝起きの悪いときだと、「うん」しか返ってこないときもある。睡眠にほとんど支配されて頷くしかない青島も子どもみたいで可愛いが、やっぱり朝から声が聞けるのは嬉しい。
「朝ご飯ちゃんと食べてから学校来てね?」
――わかってる。
「俺はこれから着替えてお弁当作ってくるよ」
――うん。
あ、返事がちょっと危うくなってきたかも。自分の小指の赤い糸を眺めながら陽希は、もしかしたら今日は二度寝コースかな、とふふと声を潜めて笑った。
「じゃあ、また学校で」
――うん。
最後の言葉にもやっぱり頷きしか返ってこなかった。
通話が終了して真っ暗になった画面を見て、陽希はふふと笑って弾む気持ちでベッドを降りて制服を引っ張り出した。
一階に行けば、キッチンにでは父と母が並んで立っていた。二人は陽希に気づくと顔を上げたが、父は「フライパン」とすかさず母に言われて慌てて視線を戻した。
ダイニングテーブルに用意されていたお弁当箱には、まだ白米しか詰められていない。今日も父は白いシャツの上から母のエプロンをかけていて、ずいぶんと可愛らしい装いになっている。
山吹色のエプロンの胸元には、デフォルメされたミツバチのワッペンがついている。
母のを借りている――と父は思っているが、実はあれは父のために母が買ってきたものだと陽希は知っていた。
ちょうど母が買い物に行った日だったのだろう。リビングのソファの上に買い物袋が置かれていて、そこに入っていたのを見てしまったのだ。
母が来ているのをみたことはないし、温かく穏やかな山吹色は父のイメージにぴったりで、母があれを選んだ気持ちがよく分かった。
卵焼きを完成させた父が、陽希が用意した皿の上に卵焼きを転がした。それは焼き目こそついているが綺麗に丸まっていて、「おお!」と父と陽希は揃って感嘆の声が漏れてしまった。
父の力作卵焼きは、陽希と父の弁当に半分ずつ詰められ、そこに母が作り置きしていたピーマンの肉詰めが添えられる。
最後に陽希がふりかけを散らしたら完成だ。
そのまま三人での朝食を終え、父は仕事に。陽希は学校に向けて家を出た。母は二人の見送り係だ。
少し前だったら考えられない日常に、改めて陽希の胸が熱くなった。
こうして三人で朝の時間を過ごすようになってもう半年近く経つのに、まだ夢じゃないかと怖くなるときがある。その度に、家に帰るとすでに当たり前となった幸せな景色が広がっていて陽希は泣きたくなるほど幸せを感じるのだ。
朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで吐き出す。
深呼吸をしながらまだ人通りがさほど多くない道を抜けて、陽希は今日も一番に教室に辿り着いた。
教科書を机に収めてから、窓際の自席で頬杖をつくように外を眺める。陽希の席からは駐輪場がよく見えた。
まだ少ない自転車の列を見て、チラリと時計に眼をやった。
(今日は青島くんどっちだろう……)
黒板に書かれているのは火曜日だ。
だから青島のバイトはない。一緒に帰る日なので、彼は歩いて登校するから本当は駐輪場を見ていたってしょうがないのだが、稀にある二度寝コースだと、歩いていては遅刻するから自転車で来る時もあるのだ。
だが、朝は自転車で登校したって帰るときは陽希に合わせて徒歩で帰るのだ。
青島は未だに自分の嘘が陽希にバレていないと思っているし、陽希も青島にわざわざ言ったりはしていない。
(だって、一緒に帰りたいもんね……)
少しでも青島の負担になっていたらやめるように言おうと思っているが、今のところ青島はけろりとしているので平気だと思う。
それにアルバイトで忙しい中、青島が頑張って陽希との時間を作ろうとしてくれているのがなにより嬉しいのだ。
視界の隅で、赤い糸が大きく揺れ始めた。彼との距離が近づいている証拠だ。
時間は、と再び時計を見るとホームルームにはまだ早い。
クラスメイトだって半分ほどしかいなかった。
(二度寝コースじゃなかったや)
陽希は予想が外れちゃったなと机の下で足をぶらつかせた。
少しずつ増えるクラスメイトの顔ぶれ。それに混じって、ミルクティー色のふわふわしたくせ毛を揺らした青島が顔を覗かせた。
荷物はすでに自分の教室に置いてきたのだろう。彼は身軽な様子で、気にかけた様子もなく陽希のクラスに我が物で入ってきた。
最初のうちはどよどよとざわめいていたクラスメイトたちだったが、今じゃいつものこととでもいうように青島が来たって大した反応もない。
「おはよう稲葉」
「おはよう、青島くん」
見上げて微笑むと、青島も顔を綻ばせた。瞳にはどことなく眠気が残っているような気がしたが、陽希のところにくるために早起きしてくれてるんだもんね、と思うと心臓がきゅんとときめく。
机上に置かれた陽希の手の横に、不意に青島も手を添える。
朝の清々しい空気の中で、ひっそりと愛情を交わすように二人の瞳が交わった。
お互いの小指が、赤い糸を辿るようにそっとキスをしたが、それに気づいた人はいない。
誰も知らない、二人だけの朝の始まりの合図だ。