次の日、陽希は心配する両親を笑って宥め、通常どおりに登校した。
大した怪我でもないし、休むほどでもないと思っただけだ。
あの時は掃除班のメンバーしかいなかったが、やはり中々にショックな出来事だったからか、登校してきたクラスメイトの大半はすでに太田と陽希のこと知っていた。
クラスメイトたちは口々に陽希に「大丈夫か?」と声をかけてくれたし、早波はけろりとした陽希の顔をみると、安心して泣き出すほどだった。
飯山はわざわざ席の離れた陽希のところまで来て顔色を気にしてくれた。
陽希が被害者で、みんな太田への鬱憤が溜まっていた……というのもあるだろうが、こうも来る日と来る人に心配されると、申し訳ないと思う反面、もしかしたら自分で思っていたよりもずっと、陽希はクラスの中に溶け込めていたのかもしれないと思った。
ずっと表面的な交流だけを重ねていたと思っていた。けれど、想像していたよりももっとみんなは自分と近い場所にいたのかもしれない。
太田は、処分が決まるまでは自宅謹慎となったらしく、陽希たちのクラスは副担任だった新任の男性教師が担当してくれることになった。
あんなことがあってもクラスの日常はほとんど変化はなくて、陽希の世界だけが劇的に変わっていた。
昼休みに入るチャイムの音が鳴り終わる前に、陽希はいそいそと弁当を開けて顔をゆるませた。
いの一番に表面が焦げた卵焼きを箸で取り、ふふと笑ってしまう。
「ふふ、俺のよりも焦げてる」
食べれば、だしの風味のほかに焦げた苦みがほんのり広がった。
そして、起きたときに見たキッチンで並ぶ両親の姿を思い出し、胸がぽかぽかした。
父と母は今まですれ違って離れていた分を取り戻すように、少しずつ一緒にいる時間を増やすようだ。
今朝は父が母に見守られながら自分と陽希のお弁当を作っていた。
なんでも器用にこなしそうな父だが、今まで料理とは縁がなかったせいか、焦げた卵焼きを前にしょんぼりしていた。
それを母が慌てて慰めていて、二人のやり取りは少しぎこちないながらも、たしかに愛情が見て取れるもので、陽希からするとくすぐったい。
焦げた卵焼きは、父が自分で食べると朝食の席に持って行こうとしたのだが、陽希が「これがいい」と駄々をこねて弁当に入れてもらったのだ。
父のほうの弁当には、陽希が作った形が不格好な卵焼きが入っている。たぶん、そろそろ食べていると頃合いだろうと思う。
いつも以上にウキウキした気分で弁当を完食し、綺麗にしまいながらふいに陽希は赤い糸に眼を落とした。
(……そういえば今日、青島くん学校来てないのかな?)
本来なら隣のクラスに向かって伸びるはずの赤い糸が、今日は窓ガラスの向こうに消えているのだ。
つまり、青島はこの校舎内にはいないということ。
なにかあったのだろうか。
楽しかった気分が、たちまち心配で埋め尽くされた。朝からひっきりなしにクラスメイトが声をかけてきてくれていたので、なかなかタイミングがつかめずに教室を出られなかったが、今ならいけそうだ。
時計を見ても、まだ十分に時間が残っている。
よし、と意気込んだ陽希は立ち上がった。そのまま廊下に向かおうとしたが、ちょうど扉から見知った顔が教室内をのぞいたのではたと立ち止まる。
「幸基くん?」
キョロキョロと室内を見渡した多田は、ふと陽希と眼が合うと顔を明るくして手招きをしてきた。
廊下に出ると、待ち構えていた多田は開口一番「昨日は災難だったな!」とカラリと笑った。
「五組の子も知ってるんだね……」
「まあ、数学の担当変わってたし、二年には広がってんじゃねーか?」
「そうだよね……」
とうことは、合わせて陽希のことも広がっている可能性が高いわけだ。
(どうりで廊下にいるとちらちらと視線を感じるわけだ)
学年集会などで他のクラスの委員長と交代で司会をやったりしているし、顔は知られている。
しょうがないことか、陽希は諦めた。
「俺になにか用事だった? 俺は幸基くんに訊きたいことがあったんだけど」
「俊也のことだろ?」
気を取り直して訊ねた陽希だったが、びしっと指をさされて即答されて驚いた。
まさにそれを訊きたかったのだ。
なんで分かったんだろうと驚いたが、なんてことはない。多田も青島のことで陽希に話があったらしいのだ。
「あいつ、熱が出たらしくて今日の学校休んでんだよ」
ほら、とみせられた携帯の画面には、「熱」と一文字だけが入力されていた。
「これだけじゃわかんねーし、あいつのお袋さんに連絡したら、なんか気が抜けたみたいだってよく分かんねー答えが返ってきたんだよなあ」
昼休みで教師の眼がないからか、多田は堂々と携帯を操作して次の画面に進めた。
「そんで次の来たのがこれ」
ずいと出されたのは、これまた余白の目立つメール画面だった。
文面には「稲葉、どうだ?」と書いてある。不意に現れた自分の名前に、ドキリと胸が高鳴った。
携帯を手元に戻した多田は、画面を見て呆れていた。
「気になるなら自分で訊けって言ったんだけどよお、お前たち連絡先交換してないってマジ?」
「ま、まじ……」
釣られるように同じ言葉を返すと、多田はきょとりと眼を見開いて驚いていた。
たしかに一緒に帰るようになったって待ち合わせは決めていたし、わざわざ連絡を取るようなこともなかったのですっかり忘れていた。
「……あいつが自分で訊きにくいから、知らないって嘘言ってんだと思った」
なんでも明るく笑って済ませてしまいそうな多田には珍しく、呆れと驚きが混じった表情だったので、「ごめんなさい」と反射的に謝ってしまった。
すると、今度こそ多田はカラカラと笑ってなに謝ってんだよ! と肩を叩いた。
「それでさ、稲葉って放課後に時間あるか?」
これが本題だったらしく、多田はキラキラ輝いた眼で問いかけた。
「放課後はテスト勉強ぐらいしかすることないし、時間はあるけど……」
意図が理解できずとも素直に答えると、途端に多田は顔色を明るくしたと思えば、ガシッと陽希と肩を組んだ。
とたんに多田は顔色を明るくして、陽希と肩を組む。
「ならさ! 俊也のとこにお見舞い行ってこないか?」
突然の提案に、思わず顔を見つめ返す。
「え、俺が?」
「そうそう。あいつは稲葉の様子が気になるし、稲葉だって俊也のことが心配だろ?」
「それは、そうだけど……」
でも、急に陽希が訪ねていっていいものだろうか?
青島だって、体調の悪いときに他人が家に来ては休まらないのでは?
グルグル考えて悩む陽希の背中を押すように、多田はこれまた大きく口の端をあげた。
「熱はある程度落ち着いたらしいし、話は出来ると思うぞ」
だから心配するな。と、言われてしまい、気になっていたのは本当なので、陽希は「それなら……」と青島の住所を教えてもらった。
帰りのホームルームが終わって早々に、陽希は教室を後にして青島の家へと向かった。
いつも一緒に帰っていた精肉店までは真っ直ぐに歩いて行って地図を見る。
すると、ちょうど店先に出てきた店主の女性が陽希に気づいた。
「あらあら久しぶりじゃない?」
ニッコリ皺の寄った顔で、淋しかったわよお? なんて言われてしまうと、心苦しい。
遠足や試験で忙しくて……なんて誤魔化し、不意にこれから青島の見舞いに行くことを口走った。
女性店主は驚くと、なにやら慌ただしく動き始め、
「これ食べて元気になってって伝えてくれる?」
と、コロッケの詰まったパックを半ば無理矢理のごとく渡された。お金を払うと陽希が焦って言うと、今度は笑顔で聞こえぬふりをされ、観念した。
しかしそれでは陽希の気も収まらないので、見舞い用とは別に自宅にお土産としてコロッケを買った。
結果、温かいコロッケの詰まったパックを二個も持って青島の家に向かうことになってしまった。
(お母さんに連絡しておかなきゃ)
出来れば夕飯を作り始める前がいい、と横断歩道で止まったときにメッセージを送った。
送信画面から顔を上げ、そもそも病人への見舞いがコロッケで良いのだろうか。と思い直す。
横断歩道を渡りきってから少し悩み、途中のコンビニでゼリーやスポーツ飲料も買った。
重くなった荷物をどうにか片手に収め、多田が送ってくれた青島の住所を見やる。
(……あ、このアパートだ)
黒を基調としたモダンな雰囲気のアパートだ。それなりに新しく見え、こういうところに入るのが初めてな陽希はドキドキしながら建物に入り、部屋番号を再度確認してから、階段を上った。
最上階の三階。その突き当たりの部屋の前で立ち止まり、陽希は念のため表札を確認しようとしたところで突然扉が開いた。
ビックリして思わず後じさる。
「俊也、あんたちゃんと寝てなきゃだめだからねー? 熱ぶり返しても大変なんだからあ」
部屋の中に声をかけながら出てきたのは、茶色のショートヘアーの女性だ。陽希の母と同じぐらいの年に見えた。
毛先は少し癖があるその髪の毛や、切れ長の目許など、陽希は一目で青島の母だと気づいた。
扉を閉めかけたところで、彼女は立ち尽くす陽希に気づいた。
「あら、お客さん?」
「は、初めまして……! 俊也くんと同じ学校の稲葉陽希と言います。あの、お見舞いに来たんですが……」
そう言って買い物袋をみせると、陽希の顔をじっと見ていた青島の母の眼がそちらに移る。しかし、またすぐに陽希の顔に戻ってきた。
穴が空くほどまじまじと見られ、陽希は緊張で心臓がバクバクした。
「……いなば。いなば、はるきくん……まさかあの稲葉くん!」
なにかに気づいた彼女は、わっと身を乗り出すようにして陽希の手を取り、「会いたかったの!」と満面の笑みを浮かべた。
随分と好感的に出迎えられたことに、陽希は訳が分からず眼を白黒させていた。
「俊也がね、初めて自分から友達の名前をだしたのよ! 稲葉くんてどんな子なんだろうって気になってて……本当は昨日学校に行ったときに会えれば良かったんだけど、仕事のせいで随分遅くなっちゃって」
しょんぼりした彼女は、すぐにコロリと表情を変えて「でも会えて良かった」と嬉しそうに言う。
どうやら陽希の母が呼ばれたように、青島の母も学校から連絡が来ていたらしい。仕事終わりに学校に寄って事情を聞いたので、すでに青島も陽希たちも帰ってしまった後だったらしい。
はしゃいだように若い反応を見せていたが、不意に切なさの垣間見える薄い笑みでぽつりと言った。
「あの子、私が夫と別れてから全然友達の話なんてしなくなっちゃって……周りの子とも距離取ってるみたいだから、ずっと悪いことしたかなって気にしてたの……」
賑やかな雰囲気から一転、子を思う母の顔を見せた彼女はゆっくりと陽希に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう、稲葉くん。あなたのおかげだって、俊也言ってたから」
「え、あの止めて下さい! 俺、なにもしてないです! いつも助けてもらってるのは俺のほうで……」
あたふたして恐縮しきった陽希を、青島の母は微笑ましく思うようにクスリと笑みをこぼす。
「そんなことないわ。あの子とちゃんと話をしたのなんて、一体いつぶりだったかしら……」
「え……?」
感慨深そうに呟く彼女に、一瞬陽希はポカンとした。
(話をしたって、もしかして……)
頭に過ったことはあった。しかし、青島が母にその話題を持ち出すだろうか。だって陽希が提案したとき、彼はとことんはねつけていたじゃないか。
けれど、青島の母の口ぶりとしては、そんな軽い話題でもなさそうだ。
どうして急に心変わりしたのだろう。一体なにがあったのか。
いや、もしかしたら陽希が思っていることとはまた別の話をしたんじゃなか。
色んな疑問が降っては消えていき、ぐるぐるした頭で思わず問いかけようとしたが、それを遮るように玄関の扉が内側から開いた。
「母さん、外でなに騒いでんだよ。時間やべーんだろ……って稲葉?」
部屋着であろう上下揃ったグレーのスウェット姿の青島は、陽希を認めるときょとりと眼をしばたたいた。その姿はさっきの彼女とそっくりで、親子なんだなあと新鮮に思っていると、青島の母は腕時計を見た途端に顔色を変えた。
「稲葉くん、ゆっくりしていってね!」
と、彼女が元気に走り去っていったあと。残された二人の間には、なんともいえない気まずい雰囲気が流れた。
急に来て怒ってないかな。面倒だって思われてないかな。
不安になりつつも、沈黙に耐えられなかった陽希は、おずおずと手元の袋を上げて「お見舞いに来ちゃった」と伝えた。
青島は、そこいる陽希の存在を疑うようにまじまじとその全身を見つめてから、ハッとしたように後ろに下がって道を開けた。
「入れよ」
「お、お邪魔しまーす」
青島に続いて廊下を進むと、手前の一つの扉に通された。ベッドと机、そして本棚だけが置かれたシンプルな部屋は、青島の自室らしい。
壁には陽希と同じ制服がかかっていた。
(ここが青島くんの部屋……)
ドキドキした心臓を隠すように、陽希は平静を装ってそれとなく部屋を見渡した。
机の上には開きっぱなしの教科書とノートがあった。もしかしたら、宿題をしていたのかもしれない。
(そういえばお昼のときに幸基くんが熱は落ち着いたって行ってたっけ……)
昨日の今日で一体なにがあったのかと思っていたが、そこまで重症というわけでもなさそうで一安心だ。
「今、お茶持ってくるから……あ、ペットボトルのお茶でいいか?」
「う、うん! お構いなく……」
青島は今日は髪をセットしていないのか、いつもよりふわふわしたミルクティー色の髪が可愛らしく思えた。
部屋を出るときにくるりと反転すると、後頭部に一房だけちょこんと跳ねた髪があって、なんだか喉がきゅっと優しく締めつけられた。
未知のときめきに頭がいっぱいになっていると、不意にハッと我に返る。
(よく考えたら、青島くんは病人なんだし動いてたらダメなんじゃない?)
カーペットに腰を下ろしていた陽希は慌てて立ち上がった。かといって、他人の家を勝手に出歩くのも戸惑われてどうしたらいいのかとその場で考え込んだ。
そうしているうちに、グラスを二つ持った青島が部屋に戻ってきて、立ち尽くす陽希を見るやいなや訝しそうに首を傾げた。
「……なにしてんだ?」
驚いた彼の様子に、陽希は恥ずかしくなってサッと正座し直した。
「ごめんね。体調悪いのに、お茶まで出してもらっちゃって……」
お見舞いです。――と、かしこまったようにゼリーやらスポーツ飲料の入った袋を差しだすと、これまた青島もぺこりと頭を下げて「どうも」と受け取る。
ふと袋の中に眼を落とした青島は、コロッケの入ったパックを見つけるとふきだすように笑った。
「見舞いにコロッケ? 稲葉のチョイスっぽくないな」
「そ、それは! いつものお店の人が、持って行きなさいってサービスしてくれて……」
「それで申し訳なくて自分の分も買ったのか?」
くすくす笑う青島の眼は、陽希の横に置かれたもう一つの袋に向かっていて、あっと思った陽希は咄嗟に背中に隠した。
「……な、なんで分かったの?」
まるで見てきたように言い当てられてちょっぴり悔しい気持ちで言い返した。すると、青島は当然とでも言うような、どこか誇らしさすら感じさせる顔で「ずっと、見てたからな」と言ったのだ。
微笑む青島の姿に、陽希はつい見惚れるようにじっと視線を向けてしまった。
今日の青島は今まで見たことがないほど
自宅だから心置きなく、というわけでもなさそうだ。ただリラックスしているだけではない。もっと彼の心の深いところで重石が溶けたような、そんな心境の変化を感じた。
(やっぱり、なにかあったのかな……)
玄関先での彼の母の言葉が蘇った。話をしたというのは、やっぱり
考え込む陽希の横顔を、青島は温かな眼差しで捉えると、ふいにぽつりと呟いた。
「母さんと、話をしたんだ」
「そうなんだね」
やっぱり、と心で思う。同時に、どうして急に、とも思うのだ。
まさか陽希の言葉が変にプレッシャーをかけたのか……? 顔を青くする陽希に見透かしたような青島が「違うからな?」と釘を刺す。
「俺が自分で聞きたいと思ったんだ。稲葉が言ってみたいに、俺の前にもうそこへ行くための道が出来てて、あとは自分の好きなときに踏み出すだけって言うなら、俺は今がいいなって思った。お前が傍にいてくれている今がいいなって思ったんだ」
そこで青島が、罰が悪そうに眼を泳がせた。
「保健室で、お前とお母さんの声が聞こえてて……羨ましかったんだ。俺も母さんが離婚してからどことなく距離を取ってたから、あんなふうにまた本音で話がしたかった」
盗み聞きしてゴメン。とガバリと頭が下がった。それを陽希が宥めてあげさせる。
「大丈夫だよ。大泣きしてるの聞かれたのは恥ずかしいけど、それで青島くんが踏み出すきっかけになったなら良かった」
「赤い糸が見えるってところから話したんだ。初めは笑って聞いてたけど、母さんと父さんのことが俺のせいだって言ったら、すごい怒られてさ。……父さんが浮気してたのが悪いんだから俊也のせいじゃない! って」
「浮気、だったんだ……」
これは自分が聞いていい話なのかと陽希は身を硬くした。青島は気にした様子もなく、むしろ晴れ晴れしく笑っていた。
「そこからは母さんの愚痴大会だったよ。仲がいいと思ってたのに、実は喧嘩ばっかだったてのは驚いたな。俺の前では必死に隠してたらしい……でも吹っ切れたのか父さんのどこが腹立った、ここが最低だったって……それ聞いてたら、なーんか肩の荷が下りた」
背もたれにしていたベッドに後頭部を埋もれさせ、青島は天井を見た。
青島のせいじゃない。そう分かっては欲しかったけれど、両親のそんな話を聞いて本当に大丈夫なのだろうか。
心配になった陽希がじっと観察するように見ていたが、青島はなにかを隠しているわけでも取り繕っているわけでもなさそうだ。そこでやっと、陽希もほっと肩から力が抜けた。
「こんだけ悩んでて、いざ聞いてみたら拍子抜けって言うかよお。なんであんなに迷ってたんだよって思っちまったわ」
「俺もそうだよ。こっちは人生の一大事を聞いてるのに、当たり前でしょって簡単に言われるし」
即答だった母の言葉を思い出したら、また泣きそうになってくる。それだけ陽希にとっては衝撃で、そして幸せだった。
「……っふふ」
顔を見合わせた二人が、まるでタイミングでも計ったように揃って笑い出す。言葉もないのに、屈託なく笑い合っている間はなんだか通じ合っているような心地よさだった。
ひとしきり笑って落ち着いた頃、そっと青島の手が陽希に重なった。
体を起こした彼は、普段よりもだらしなく寝癖もついた頭なのに、今まで見たことないほど真剣で切実な眼をしていた。
「あのさ、俺まだ間に合うかな」
「……なにが?」
「まだ、俺のこと好きでいてくれてるか?」
不安で揺れる彼の瞳に、陽希は当たり前でしょと大きく頷いた。
それだけで青島は、まるで天にも昇るような陶然とした表情で安堵した。
「母さんに、自分のために生きろって言われたんだ。親なんて子どもために多かれ少なかれ苦労するんだからって。……それでも俺は、これからも母さんの苦労を減らせるように生きていくと思う。けど、そのために周囲との関係を切ったりしない」
重なった青島の手は汗ばんでいて少し震えていた。熱が下がったなんて嘘じゃないのかな、って思う熱くて、けれど真っ赤に熱を持っていたのは陽希も一緒だ。
赤い糸の伸びる小指をそっと撫でられて、くすぐったさにクスクスと笑った陽希がかすかに身をよじった。そんな陽希を青島は細めた瞳でやきつけるように見つめていた。
「俺の糸がつながってないのは罪を犯したからだと思ってた。でも、稲葉のことを見てるとそうは思えなくて……もしかしたら途切れた糸には違う意味があるんじゃないかって。そう期待する自分が嫌だった」
――でも、今ならはっきり分かる。
青島は決意した眼差しで愛おしげに陽希の小指に触れ、その指の背にキスを落とした。
遠足の日、二人きりの観覧車で触れられたような曖昧な接触じゃなくて、陽希の中に青島を刻み込むようなそんな丁寧で、けれど熱を移すようなしっかりした触れあいだ。
「あの日、お前が糸を紡いでくれるのをきっと俺は待ってたんだ……。淋しいって泣いたお前はきっと昔の俺だった。母さんのためにって押し殺して、見えなくなってた俺の心だ。それを稲葉の言葉で思い出した。自分が淋しかったことを……本当は誰かに傍にいて欲しかったことを……」
赤い糸を見下ろしていた青島は、陽希の手を握って額に押し当てると、不意に懇願するようにこぼした。
「今は誰かじゃダメなんだ……稲葉がいい。稲葉に傍にいて欲しい。俺の糸の先には、稲葉がいて欲しいんだ」
顔が熱くて、その熱のせいで頭も視界もぐらぐらと目眩みたいに揺れていた。熱くなった頬を冷やすようにほろりと涙が一粒だけ落ち、それを合図にしたように陽希は握り返した手を引き寄せ、青島の小指に唇を寄せて応えた。
「俺ね、赤い糸って愛情が通るための道を示してるのかもって思ったの。だから誰かと繋がったり切れたりもする。きっと最初は神さまが歩きやすい道を教えてくれてるのかなって思った。……それで、その人が望んだところに、選んだところに新しく道が引かれる」
陽希も青島も、長い間ずっと迷子になっていたんだ。愛せない愛されないって思い込んで諦めて。本当はあるはずの道が見えなくなっていた。
そして放課後の教室で出会ったあの日、もう一度道を歩きたいと思ったから――誰かを愛したいと思って手を伸ばしたから、糸の先が示された。
「俺だってこの赤い糸の先には、青島くんがいて欲しいなって思ってるよ」
ふと彼の手が、陽希の頬の濡れた後を拭った。
「……この前はごめんな。背中痛かっただろ」
この前。背中――というキーワードで、あの校舎の外でのことが思い出された。付随してあれやこれやとどんどん湧き上がる記憶に、さらに顔が赤くなった。それを隠すように俯いて「痛くなかったよ」と呟いた。
けれど、すぐに顎をすくわれて間近で見つめられてしまった。
すぐそばで瞬く薄茶の虹彩にじわじわと熱が昇っていく。そんな瞳で見つめられるだけで、この前の息も出来ないキスを思い出してしまって、ふるりと体が震えた。
「キス、してもいいか? 稲葉に触りたい」
吐息が唇を撫でる距離で言われ、答えるよりも前に陽希の瞼が自然と閉じる。
「いいよ。いいけど……」
「けど……?」
鼻先が触れ合うような距離で青島が続きを促す。待てをする犬のようなつぶらな瞳で――けれどその奥に映るのは可愛らしいものでもなく、暴力的にも見える熱い欲望だ。
すぐにでも呑み込まれそうなその雰囲気に抗いつつ、陽希はそっと懇願した。
「好きって、言って欲しい……」
いろいろと言葉を尽くして彼は気持ちを伝えてくれた。けれど、決定的で一番直接的な言葉はまだ聞いていなかった。
青島は虚を突かれたように瞳を丸め、すぐにたまらないとばかりに陽希を抱きしめてそのまま柔らかなベッドに押し倒した。
「好き。稲葉が好きだ……好きだよ、誰よりも好きだよ」
出会った時からお前は俺の特別なんだ。
耳元で囁かれた言葉に酔いしれていると、今度は唇が合わさって、頬を撫でられた。
「俺も、青島くんが好き」
指先が耳朶に触れ、そのこそばゆさに震えながら、陽希もやっと同じ言葉を返した。