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第20話

 最後に母を交えて教師たちから状況の確認があった。

 けれど、すでに飯山や早波など周囲の生徒から話を伺っており、太田が他の教師から注意を受けていて危惧していた教師の声もあって話を疑われることもなく早々に解放されることとなった。

 呼ばれたときは、てっきりまだ青島がいるものだと思っていた陽希だったが、そこに生徒の姿はなく、訊けば彼は話を聞き終えたので先に帰宅したという。

「荷物を取りに行くって言ってたけど会わなかったかい?」

 呼びに来た新任の教師はそう言って首を傾げていた。

 なんでも帰る直前に、保健室に寄ってから行くと告げて教師とは途中で別れたらしい。

(青島くんあのあと戻ってこなかったけどな……)

 内心首を傾げていたが、すぐに席に座るよう促されてしまって、結局それ以上はなにも訊けなかった。

 教師たちは被害者となった陽希に対し、居心地が悪くなるぐらいの憐れみと気遣いを見せた。

 その場に太田はおらず、別室にいるらしい。太田が今後どうなるのかなど、詳しい処分などは追って連絡してくれるらしい。ひとまず陽希は怪我をしたので家に帰って休みなさいと。明日の登校なども様子を見て自宅療養でいいとも言われた。

 陽希がよろけて怪我をしたせいでなんだか大事になって申し訳ない気分もあったが、太田のここ最近の様子を見ていて、彼の教師としてのあり方に疑問を持っていたのでなにも言わず頷くだけにとどめた。

 ただ、話を聞いた母がぐっと顔を険しくして太田に会わせてください――なんて声を荒げたものだから、陽希はビックリしつつ慌てて宥めた。

 声を大きくする母を初めて見たのだ。

 祖父からどんな理不尽や嫌味を言われても、すべて涼しい顔で聞き流せるようなひとなのに。

 これも陽希が傷つけられたからだろうか。

 そう思うと、収まったはずの涙がぶり返しそうで、陽希は声に詰まりながら母の袖を引いたのだ。

 俯いて黙る陽希を、気分が優れないと思ったのか、母はあたふたしながら陽希を連れて学校を出た。病院に行こうと言われたけれど、すでに日が暮れ始めた今から行くのはなんだか億劫で、むしろ早く家に帰って母と話がしたいと、そう思った。

 空にはすっかり夜が広がっていて、夏場のじめっとした温い風がかすかにふいていた。

 泣いて赤く腫れた目許に風が当たり、少しひりつくような感覚がした。

 地平線の近くには薄らと名残を残した夕暮れが見え、夜と混ざった一部が紫色に染まっている。陽希はそれを遠目に眺めながらふと呟いた。

「お母さん、心配かけちゃって……ごめんね」

 緊張でドキドキしながら陽希は言った。ひとしきり泣いて落ち着いたからだろうか。

 あの時は昂っていてどこか夢見心地だったが、母が陽希を本当に愛してくれているのか不安になっていた。おっかなびっくり、だがハッキリと隣を歩く母に告げると、緩く首を振って「いいのよ」と答えた。

 薄暗くなった空気では表情は分かりづらい。だが、その声が温かいのは分かった。

 心配したと。それを否定されなかった。

 ああ、やっぱりあれは夢じゃなかったんだ。と、体が震えるような喜びと幸福で言葉が詰まった。

「……陽希があんなふうに泣くの、初めて見たからビックリした。よく考えたら、小さい頃から全然泣かなかったもんね」

 ――いつも部屋の隅で一人で小さくなってた。

 呟き、不意に母は足を止めた。一歩進んだところで、訝しんだ陽希が首を傾げながら振り返った。

 すぐそばの街灯の光が、母の瞳に映り込んで潤んだように見せた。泣くのを耐えたような切ない感情を宿した瞳は、陽希を見るとぽっと明かりが灯ったように温かさが浮かんだ。

「こんなに大きくなるまで、私、なにしてたんだろうね……。分からないからって怖がってろくに話もしないで……自分の子どもの泣いた顔も知らないなんて……」

 自分よりも少し高い位置にある陽希と眼を合わせていた母が、こみ上げる涙を隠したように瞼を落とした。

 ごめんね、陽希……。

 と、掠れた母の言葉が夜の風に乗って、そっと陽希の鼓膜をすり抜ける。

「……お母さんは、俺が怖かったの?」

「あの人に、父みたいになりたくなかったの。自分の都合を子どもに押しつけて、不自由な思いさせたくなかった。私のことなんて気にせず自由にして欲しかった……でも、この言い方じゃ気にするかな、あれはだめかな、これじゃあダメかなって気にすればするほど分かんなくなってきちゃって……」

 悔やむように唇を噛んだ母が薄暗闇の向こうに見え、咄嗟に陽希は訊いていた。

「俺のこと、嫌いじゃないの?」

「そんなことあるわけないでしょ!」

 言葉尻を攫うような即答だった。まるで恐ろしいものでも見たような顔で、母は強く否定した。

 陽希にはそれで十分だった。それ以上はなにもいらなかった。

「俺もね、ずうっと昔からお母さんとお父さんのこと大好きだよ」

 微笑むと、母が泣きたそうに鼻を赤くした。

 帰ろうと声をかけると、母は少しもたつきながら陽希と並んだ。

 よく考えれば、こうして二人で並んで歩くことだってほとんどなかった。

 月に照らされる影は陽希の方が少し大きくて、随分長くかかっちゃったね、と内心で独りごちた。

(……俺が一言、好き? って訊いてれば済む話だったね)

 でも、それは今だからこそ言えるのだ。こうなる前の陽希には、その一言が途方もなく重たくて、怖いものだった。

 ようやく家につくと、なぜか明かりが漏れていた。

 父が帰ってくるにはまだ早い。けれど、陽希も母もここにいる。

 母が電気もつけっぱで飛び出てきたのかな?

 不思議がる陽希とは違い、母には見当がついたらしい。

「お父さんよ。連絡したから早く帰ってきてくれたのね」

 立ち止まった陽希を通り過ぎ、母は玄関を開けた。すると音で気づいたのか、いつも穏やかな父らしからぬ騒々しさでバタバタとリビングから駆けてきた。

「怪我したって聞いたけど、陽希、大丈夫か?」

 あわあわした様子で、陽希を上から下までぐるぐる見渡した。その仕草が、母とそっくりでつい陽希の口から笑いが漏れた。

 たいしたことないよ、と告げれば、父はあからさまにホッとして肩を落とした。その瞳の中には母が向けてくれたものと同じ温かい感情が見て取れて、陽希の胸が詰まる。

 安堵した父だったが、陽希のこめかみの絆創膏を見ると、痛ましそうに顔を歪めたのだ。

「せっかく母さんに似た綺麗な顔なのに……跡は残らないのか?」

「大丈夫だよ。本当に小っちゃい傷だもん」

 傷に触れないように前髪を掻き上げる父の手があんまり優しいから、陽希はこそばゆくて肩を揺らした。

 そんな二人を見ていた母が不意に、

「陽希が綺麗な顔をしているのはあなたに似たからですよ」

 とぽつりと言った。独り言みたいな小さな声だったけれど、すぐそばにいた陽希たちには十分届いた。

 ギクリ、と嫌な話題を出されたように父が一瞬だけ動きを止めた。だが、そんなこと母にも陽希にも気取らせないようにいつもの笑顔で中に促してくる。陽希だって話題が出た瞬間に、咄嗟に父を見なければ気づかなかっただろう。

 それぐらい父が動揺を表したのは刹那のことだった。

「さっき帰ってくるって連絡もらってな、出前取ったんだ。さっき届いたばかりだからちょうど良かったよ」

 そそくさとリビングに向かう父。その背中は気まずい空気に逃げているようだ。

 そうとは知らずに礼を言って跡に続く母。二人の背中を見つめながら、陽希はそっと胸元で手を結んだ。

 両親の中に本当は陽希への愛は存在していた。

 それがこんなに嬉しいのに、心の奥の深いところにはどうしても見逃せない重しがつっかえていた。

「ねえ、お父さんお母さん……」

 そろりと呼びかければ、リビングに足を踏み入れた二人は振り返って心配そうに首を傾げた。

 二人の眼が自分を見ている。さっきまでは嬉しかったのに、今は見られていると怖くて仕方がない。それだけで喉がぎゅっと絞られて、告げる言葉がぐるぐると胸の内を駆け回った。

 そうして陽希は、俯きがちにおずおずと問いかけた。

「俺ってさ、二人の子ども……だよね?」

 きょとりと瞬く母とは対照的に、父はサッと顔を白くしていた。

「なに当たり前なこと言ってるの。私たちの子じゃなければ、なんだって言うの?」

 冗談でも聞いたように一人のほほんと答える母は、どこか切羽詰まった陽希と父の顔を見て、ことの重大さに気づいたようだ。

 戸惑ったように「え?」と呟く母の声が廊下にひっそりと響いた。

 ダイニングテーブルで三人並ぶのは食事以外では初めてだ。母が先導する形でダイニングテーブルにつくと、まず口火を切ったのは母だった。

「陽希、どうしてそんなこと訊くの?」

 難しい顔で、けれど陽希に威圧感を持たせないように母はそろりと声を静めて言った。

 陽希はちらりと父を見てから、言葉に詰まりながらも昔父に訊かれた言葉を答えた。

 すると、母は一瞬息をのんだ。ドキドキした二人が母の動向を窺っていると、母はゆっくりと深呼吸をした。

 そして陽希に少しの間部屋に戻るように言った。

 戸惑った陽希が、立ち上がりつつも心配で尻込みしていると母は微笑んで「あとでちゃんと話すから」と言われてリビングを出た。

 階段を上ろうとしてふと振り返った。

 リビングに繋がるドアは磨りガラスがはめられていて向こうの様子は見えない。けれど、声は微かに届く。

 いけないことだと分かりつつも、陽希は階段から足をおろして壁沿いに座り込んだ。扉のすぐ隣なので、静かな家の中では父と母の声がよく聞こえた。

 暗くなったと言っても、夏真っ盛りの今の季節は気温が高い。その中でも背中を預けた壁は生ぬるくて、けれどその中にはひんやりした感触もあった。

 耳をすませてからそう経たないうちに、「どういうことなの?」と母が固い声で言った。

 父も父で、ここまで来たからにはとばかりに今までの疑問を問い返した。

「きみが、陽希がうまれてから様子が変だったのはどうしてなんだ」

 父はずっと、母が実家を出たいがために父と結婚したと思っていたと言った。そして、いざ家を出てから、自分と結婚したことを後悔してるんじゃないかと。

「……後悔してるのはあなたのほうじゃないの」

 私は後悔したことなんてない。

 囁くような母の声は、かろうじて陽希に聞こえた。

 母は絞るような声で辛そうにぽつぽつと語った。

 父は優しかったから、家に縛られる母を惨めに思って断れなかったのではないか――? 

 そのことを母はずっと気にとめていたらしい。だからこそ、陽希を産んだことで、今度こそ父の人生を縛り付けてしまったと思い、顔が見れなかったと言う。

 どうやらその母の様子を父が誤解して、そんな父が距離を取ったことで母も自分の思っていたことは事実なんだと思い込む悪循環だった。

 聞いている陽希は、思わず顔を覆って深く息をした。

(本当に二人はただすれ違ってただけなんだ……)

 恵里が言っていたことは正しかったのだと、今になって実感した。

 両親はしまいには、

「健一さんは優しいから私を見捨てられなかった」

「きみは若くて美人だから、年上の俺なんかと勢いで結婚して嫌になったんだろう」

 と、惚気なのか喧嘩なのか分からない言葉の応酬が続く。

 聞いているこっちがもどかしくなるほど二人は想い合っていて、そして相手のことが好きだからこそ、今まで一度だってお互いに真実を訊ねることが出来なかったのだ。

(たしか結婚したのってお母さんが高校生のころだっけ……)

 そのとき父は二十半ばあたりだろうか。たしかに、相手が学生となると不安にもなるのかな……、と話を聞きながら陽希は思った。

 今の陽希にとって二十代の恵里や成山がすごく大人びて見えるように、あの頃の母から見ても父は大人で遠い所の存在に見えたのかもしれない。

 しばらく言い合っていた二人だが、言いたいことは粗方言い切ったのか不意に沈黙が落ちた。

 ふと母が、静かな声で「あの日……」と口を開いた。

 そろそろ部屋に戻ろうかと腰を上げた陽希は、足を止めてつい明かりの漏れる扉を振り返った。

 あの日、というのは母がプロポーズしたというパーティー会場でのことだろうか。

「ずっと父みたいな男の人にしか会ったことなかった。みんな同じことばっかり言うのよ。尊志が生まれたんだから、見合いして結婚して、これで解放されるねって。女の子なのに後継者の勉強なんて大変だったでしょうって。善意の顔で私の人生を否定してくる」

 母の声は、怒りとやるせなさに満ちていた。それがふと、柔らかくなった。

「あなただけだった。高校生なんだから、恋だってまだまだだよね? って……父じゃなくて、私の眼を見て言ってくれたのは。父の顔色じゃなくて、私のことを気にかけてくれたのはあなただけだった……だから、あなたが良かったの」

 母の弱気な言葉に、陽希の胸が切なくなった。

 なんでもない顔で祖父と相対できるこの人は、本当はずっと辛くて苦しい思いを抱えていたんだ。恵里から聞いて察してはいても、こうして母自身の言葉で聞くと泣きたくなった。

 陽希と同じ年頃だった母は、どれだけ絶望してその細い体で抱え込んでいたのだろう。

「俺だって、同情で人生かけられるほどお人好しじゃないよ。あのあと、なんどもきみと話をして、きみを見て、その上で決めたんだ……」

 父の低く穏やかな声は、母の苦悩を丸ごと包むような温かいものだった。

 それにね――、と内緒話でもするような囁き声で、少し照れの混じった父が言う。

「あのパーティー会場で、自分のスカートが汚れるのも気にせずに転んだ子どもを抱き起こすきみを見て、素敵な子だなって思ったんだよ」

 交わされる二人の言葉は、星が瞬くような夜空の静けさと心地よさを思わせた。

(……なんだ、お父さんもお母さんもお互いのこと大好きじゃないか)

 父や母のような大人でも、面と向かって話をすることは怖いんだな。そう思うと、陽希が特別弱い人間というわけでもなかったのかもしれない。

 一時期の自分の苦悩を思い出して、陽希の心が少し楽になった。

 そうしているうちに話を終えた父と母が、陽希を呼びにリビングから出てこようとする気配がした。すっかり部屋に戻ることを忘れていた陽希は我に返り、足音を消して慌てて二階の自室に駆け込んだ。

 ノックをして母に声をかけられたときは、ずっと部屋にいてなにも知りません、とけろりとした顔を作るのが大変だった。

 だが、呼ばれた下りていったリビングで、両親の赤い糸が真っ直ぐに互いの指に伸びているのを見たとき、やっぱり陽希は泣いてしまったのだ。

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