放課後、普段よりも遅い時間に校門を出て、陽希は少し急ぎ足で駅に向かった。
(思っていたより、遅くなっちゃった……)
学校から駅まで、ゆっくり歩いたとしても三十分程度だろうか。成山との待ち合わせにはギリギリ間に合うとは思うが、こちらから相談を持ちかけた手前、待たせるのは悪い。
これも掃除の時間が随分と長引いたせいだ。みんなの様子は普段と変わらなかった。いつも通り机を運んで床を掃いて――特別おざなりにしたつもりも、サボったつもりもない。
だが、太田がずっと眉間に皺を寄せていて、重箱の隅をつつくように小言を言うのだ。
隅のほうに埃が残ってる。黒板の拭きが甘い。机が数センチずれている……などと、一人一人丁寧に叱りつけて、もっときびきび動けと声を飛ばす。
生徒たちは内心でげんなりしつつも、少しでも逆らうと今以上に面倒なことになると分かっていたので、なにも言わずしずしずと言われたとおりに動いた。
そのおかげか、終わる頃には少しだけ気分が上がっていたように見えた。
(でも、日に日に機嫌悪くなってるんだよなあ……)
どうやら家族との関係は上手く修復出来ていないらしい。かといって、生徒にまで当たるのは教師としてどうなのだろうか。
さすがに陽希だって、毎日のようにピリピリした緊張感を漂わせられると参ってしまう。
飯山なんてもっと大変だろう。目の敵のように大きな声で廊下に呼びつけては、授業を聞け、寝るな、などと休み時間を全て費やしてぐちぐちと言っていた。
たしかに授業を聞かない飯山にも非はあるが、明らかにあれは太田の憂さ晴らしに付き合わされただけだ。
ハラハラして心配した陽希は、戻ってきた飯山が「災難な眼あった」とけろりとした顔で言ったので、肩から力を抜いたものだ。
せめて来週には機嫌も戻っていて欲しいなあ。
考えながら早足で駅に辿り着き、陽希はキョロキョロと当たりを見渡した。視界を一周させて、そして成山の姿がなかったので、柱に背中を預けてほっと息をついた。
汗ばんだ肌に不快感を覚えつつ、陽希はふと昼休みに話した多田のことを思い出した。
あのあとすぐに多田は教室に戻って行った。そのとき、踊り場で振り返った多田は、陽希を見上げながら最後に言ったのだ。
「あいつ、稲葉のこと見てるときすごく楽しそうで……それで、すごく切ない眼で見てたんだよ。このあとのことは、稲葉の好きなようにするべきだって分かってんだけどさ……もう一回だけ、俊也と話してやってくんねえかな」
不安そうな顔で、そして申し訳なさそうにおずおずと言った多田に、陽希はハッキリと頷いたのだ。
(大丈夫だよ、多田くん……俺もちゃんと話したいって思ってるから)
昼休みに思ったことを、また内心で呟いて陽希は決意を新たにした。
この気持ちを受け入れてくれる可能性が少しでもあるのなら、諦めたくない。なにより、青島が苦しんでいるのを知っていて放置したりなんてできない。
(成山さんとの話が、少しでも手がかりになればいいんだけどな……)
上下する肩を落ち着けて息が整ったころ、以前もみた覚えのあるスーツに身を包んだ成山が眼に入った。
光沢のあるスーツは、成山の細身な体のラインを浮き出しつつ上品に纏われていて、涼しげな彼の美貌をより際立たせている。
彼は急いできたのか、髪を撫でつけて露わになった額には、少し汗が浮かんでいた。
「ごめんね、遅れちゃって……結構待っただろう?」
「いえ! 俺も学校が長引いちゃってさっき着いたところなんです」
こちらこそ急に呼びつけてすみません。
恐縮して深々と頭を下げる陽希に、ハンカチで汗を拭いつつ成山が苦笑した。
「気にしないで。俺も君と話して見たかったからさ」
「俺と……?」
どうしてだろう、と見上げた。彼はそっと小指をたてて手を振った。すると、その指から伸びた短い赤い糸が、ひらひらと宙を揺れる。
「これ、見えてる人に会ったのって、初めてだったからさ」
お店に入ろうか、と言う成山のあとに着いていくと、こぢんまりとしたカフェに迎え入れられた。
駅のロータリーを出て一分と歩かずに着いた店舗は、カウンター席が五つ、そして二人がけと四人がけのテーブル席が四つずつ。席は半分ほど埋まっていたが、賑やかさはなく、店内に流れるクラシックのようなゆったりとした時間が流れていた。
同じ通りには敷地の広いチェーン店が並ぶなか――この前恵里と行ったのもそこだった――小さなこのお店は、なんだか別の世界に繋がるような不思議なときめきと魅力を感じた。
カウンターにいた年配の男性が店主なのだろう。成山と陽希に気づき、すぐに席に案内してくれた。
窓際の四人席は日当たりが良く、二人は向かい合うように腰掛けた。
手作りの温かさが見える手書きのメニュー表を開いた成山は、「なににする?」とすぐに陽希の方に向ける。
恵里のときもそうだったが、多分これは年下だから気を遣われているのだろう。
差し出されるまま慌ててメニューに眼を通したが、緊張のせいか眼が滑って全然頭に入ってこない。
結局見慣れたアイスティーをお願いし、成山はアイスコーヒーを注文した。
店主が遠ざかったのを横目に確認した成山は、「それで……」とさっそくとばかりに話を切り出す。
「これのことで、話があるんだよね?」
これ、と彼は机の上に置いた小指をそっとあげて存在を主張した。
「はい。……あの、成山さんは前から糸が見えるんですか?」
小さく頷いて答えた陽希に、成山は懐古する眼で窓の外を見た。
「そうだね、気づいたときには見えてたかな……しっかり記憶にあるのでも幼稚園ぐらいにはもう見えてたと思う。陽希くんは?」
「俺も、そうです……」
二人とも子どもの時からだ。それは意味があることなのだろうか。
緊張で喉に渇きを覚えた。暑いなか、駆け足でここまで来たせいもあるだろう。
と、ちょうどよく二人の飲み物が届いた。
乾いた口で、こくりとアイスティーを含む。ほのかな苦みとすっきりした味わいが広がり、やっと喉が潤ったからか気分も少しほぐれた。
「赤い糸って、なんなんでしょう……?」
俯き、透き通る赤茶の水面を眺めた陽希から不意に疑問が漏れる。成山はミルクを入れたアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、困ったように首を傾げた。
「相談に乗るって言った手前申し訳ないけど……俺もこれについて詳しく知ってるわけじゃないんだ。君より長く生きてるから、その分推測がいくつか立てられてるってだけでさ」
「……それじゃあ赤い糸が繋がったら、その人を好きになるっていうのはあり得ますか?」
これだけは訊いておきたい。と陽希が訊ねると、成山はストローを回していた手を止め、足を組み替えてから膝の上で両手を結んだ。
ふむ、と考えるように陽希を見た。
カランコロンと氷の触れ合う音が消えて、微かな緊張感が体を包んだ。
「俺が見ていた分には赤い糸のあるなしに限らず、人は誰かを好きになるよ。大学の頃、合コンで眼の前に赤い糸の相手がいるのに他の子と付き合い始めた友達もいたしね」
「……その人に、成山さんは言わなかったんですか?」
「あっちの子が運命の相手だよって?」
「はい」
思わず訊いてしまったが、頷きながら、自分でも言わないだろうな……と冷静に思った。
だって他の人には赤い糸なんて見えないのだから。親切心で言ったって、変な顔をされて終わりだ。不要なトラブルに発展するのも避けたい。
そう思っていると、やはり成山からも同じような言葉が返ってきて「ですよね」と同調するしかなかった。
「……陽希くんが浮かない顔をしているのは、その赤い糸のお相手が理由かな?」
ふと成山の瞳が陽希の手元に落ちた。こくりと、素直に頷く。この相談を持ちかけたときから、正直に打ち明けるつもりだった。
「最近好きだって気づいて、それを伝えたんです。でも、彼に……赤い糸のせいで好きなんだろうって、気持ちを信じてもらえませんでした」
思い出すとつらい。胸が詰まって、張り裂けそうだ。
でも、青島のあの悲痛な叫びを思い出すと、なんとかしてあげたいとそう思ってしまうのだ。
「相手も赤い糸が見えるんだね」
「はい……もともと、俺たちの糸はつながってなかったんです。二人とも、成山さんみたいにプツンと途切れて……」
「でも、繋がったんだ」
「はい。……おれが、つなげてしまったんです」
自分の浅はかな行為を思い出して、陽希の顔が曇る。
微笑ましげに見ていた成山が、ふとそこで怪訝そうに表情を変えた。机に肘を置いて、少し身を乗り出す。
「つなげた? 好き合って、勝手につながったんじゃなくて?」
「え? はい、違います。俺が二人の糸をつい結んでしまって……それでなぜか一本につながっちゃったんです」
それ以外になにかあるのだろうか?
きょとりと瞳を丸めた陽希の前で、「そのケースは初めて聞いたな……」と成山は難しい顔で珈琲を一口飲んだ。
今度は陽希が身を乗り出した。
「糸って、勝手に繋がることがあるんですか?」
「うん。勝手に切れたり、繋がったり……結構こいつらは自由なやつだよ」
「そう、なんですか……」
衝撃を受けて、陽希は愕然とした。脱力したように、背もたれに寄りかかる。
そんなことがあるのか……。うすうす気づいてはいたが、この赤い糸の先には、ドラマや小説のようにただ一人の運命の相手がいるわけではないらしい。
「赤い糸って言っても、俺はその人の気持ちを顕著に表してるだけだと思う。嫌いなら切れる、好きなら繋がる。糸のつながっていなかった恋人同士が、結婚を決めてお互いの糸が通じたなんてことも、眼の前で見たことある。もちろん、糸のつながった夫婦が、離婚を決めて糸が切れたところもね」
言いながら、成山の瞳に
「ちなみに、前者は陽希くんの近くの人だよ」
「え、俺の近く……?」
驚いて自分を指さしながら訊き返せば、成山は微笑んだまま頷いた。
陽希の交友関係なんて大して広くはなく、そのほとんどは親族か学校関係者だ。けれど、そんな夫婦はいただろうか。
答えあぐねる陽希の様子に、成山はおかしそうに笑って答えを開示した。
「恵里たちだよ。あの二人が付き合いだした頃に一度会ってるけど、その時は糸はつながってなかったんだ」
「えっ恵里さん達が……? だって、あんなに仲が良さそうなのに」
まるで、陽希の想像通りの運命の相手同士の結婚。そんな仲睦まじさと温かさを兼ね備えた二人の様子を思い返して驚愕した。
パーティー会場で見た二人は、赤い糸で繋がっていることが自然にも思える様子だった。なのに、その糸がつながっていなかったなんて……。
「それなら、結婚しても赤い糸がつながらないのは、お互いに好きじゃないから……ということなんでしょうか」
父と母を思い出し、嫌な予感を覚えつつ陽希は訊ねた。今も遠く離れた二つの赤い糸。決して交わらないあの糸は、二人の心の距離を表していたというのか。
「成山さんは知ってますよね? 俺の父と母の糸がつながってないって……やっぱり、二人は愛し合ってるわけじゃなかったんですね。分かってましたけど、なんだか淋しいです……母は、父の他に好きな人がいるんでしょうか? 糸のつながった誰かと、愛し合ってるんでしょうか?」
自分の子には向けられない愛情を、向ける相手がいるのだろうか。そう思うと、胸が張り裂けそうに痛い。
愛されなくたって愛せるだけでいい。そう思っても、幼いころから抱え続けた淋しさは傷のように陽希の心に残り、すぐには消えてはくれないみたいだ。
動揺を隠すように早口で言う陽希を、成山は強く握られた陽希の手をそっと包んで宥めた。
「落ち着いて、陽希くん」
おもむろに視線をあげると、成山の――穏やかな大人の男性の影に、若い頃の父が重なった。
――なあ陽希、
耳の奥に蘇った陽希を呼ぶ父の声に、ハッと喘ぐように短く呼吸が漏れた。
呼びかけた成山の声にも気づかず、ゆらゆらと瞳を震わせた陽希は、過去の記憶に押し出されるようにして疑問を吐いた。
「本当は、俺はお父さんの子じゃなくて……誰か、お母さんの赤い糸の相手の子じゃないんでしょうか」
頭の中がぐちゃぐちゃだった。ずっとずっと、考えずにいようと思っていたことが一気に陽希の頭に蘇ってきた。
父は口数は少ないが、物腰の柔らかい穏やかな人だ。陽希を大事にしてくれていると思う。怒られたこともないし、こうして衣食住に困らないのは父のおかげだ。けれど、一緒に遊んだ記憶も家族での団欒の記憶もないのだ。大事に、といってもどこか腫れ物に触るような恐々した手つきで抱きしめられているようなもので、そこに自分の子へ向ける愛情があるのかと訊かれれば、陽希は頷けなかった。
優しい父でも愛せないなにかが、陽希にはある。だから、陽希は愛して欲しいと思っちゃいけない。だから、せめて母だけには愛して欲しかったのに。
それなのに、母さえ陽希を愛してはくれていない。
「陽希くん」
静かな声と共に重なった手を揺らぶられて、ハッと我に返った。
呼吸が戻ってきて、真っ直ぐに自分を見てくる心配そうな瞳に、ああ、成山の前だったのだ……と水をかけられたように冷静になった。
「すみません……割りきったはずなのに、こんなに動揺して……」
「いいんだよ。きみはまだ子どもだし、大人になんでもさらけ出していいんだ。とくに、家族のこととなると陽希くんの心にも衝撃は大きいだろう? ……きみは溜め込んじゃうみたいだから、せっかくだし、今、全部出しちゃってもいいんじゃない? 大丈夫。恵里にも恵子さんにも言わないから」
「でも……」
そうは言っても、成山とこうしてちゃんと話をするのは今日が初めてだ。なのに、そんなこと話していいんだろうか。
悩む陽希を後目に、成山は重なっていた手を離し、背もたれに寄りかかると珈琲を口にした。
そのリラックスした姿は、陽希の話を急かすようなものではなくて、自分の好きなように動いていた。多分、あまりかしこまって話をすると、陽希が言いづらいと思って気を回してくれているのだ。
そこに大人の余裕を感じて、ほっと微かに肩から力が抜けた。
きっと成山は陽希がどれだけ悩もうと待っていてくれるだろうし、言わないと決めれば深入りもしてこない気がする。
(子どもなんだからって言われても……)
今まで自分の本音は隠すのが常だった。大人への甘え方も本音のさらけ出し方も、陽希には分からない。
どうしたらいいんだろう。本当に甘えて全部話してしまおうか。それとも、これはあくまで社交辞令で、本当は面倒に思われたりしないだろうか。
悩んでいるうちに、時計が一周してしまったような、そんな長い時間に思えた。
けれど、成山の手元のグラスはさほど減っていない。
チラリと上目遣いに盗み見ると、ふと視線をあげた彼とかち合った。
ギクリとしたのは一瞬で、成山がまるで小さな子どもの顔を窺うように「ん?」と首を傾げた。その眼差しの柔らかさに、さっきまではあんなに硬かった口からスルリと心の内が漏れ出た。陽希自身、誰かに吐き出したいと思っていたのかもしれない。
「……父に、一度だけ聞かれたことがあるんです。お母さんと一緒に、誰か男の人に会ってないかって。その時は質問の意味をよく分かってなかったので、素直に会ってないって言いました。父はほっとしつつも、やっぱりちょっと納得いかない顔してて……」
多分、初めて祖父母の家を訪ねたのと同じころだ。陽希が五歳になった頃合いだったろうか。
そのときは珍しく父と陽希だけが家にいて、困った顔で目線を合わせた父が、陽希の両肩にそっと手を置いて訊ねたのだ。
――なあ陽希、お母さんと誰か男の人に会いに行ったりしてないか?
それを言うまで、父は随分迷った様子だった。陽希にそんなことを訊くということをひどく気が咎めたのだろう。けれど、どうしても知っておきたいとばかりにそろりと訊いてきたとき、父は自分の不甲斐なさ嘆くように眉を落としていた。
当時は父がなぜそんなことを訊ねたのか真意が分からなかったが、今の陽希なら分かる。父は、陽希が母と他の男との子じゃないのか、と疑っていたのだ。
小さく囁くような告白に、成山は組んでいた足を解いた。
「それで、自分はお父さんの子じゃない……って?」
「父がそう思ったってことはそうなんじゃないかなって……父と母の仲はいいとは言えませんし……」
すると、成山は悩むように顎に手を当てた。それは、困ったことを聞いたとか、どうやって慰めようという気まずさからではなくて、強いて言うならどう言ったら分かりやすいかなあ、と言葉を選んでいるような気軽さがあった。
「俺は二人と会ったことがあるし、恵子さんのことは恵里を通して結構前から知ってる。そして、恵子さんが健一さんにプロポーズした現場も見てる」
「え?」
思わず声が出た。だって、どうしてプロポーズ現場に成山がいるんだろう。 しかも、両親の結婚のきっかけは母からだっのか、という驚きもあった。
「森本のなんかのパーティーに良川の家と一緒に招待されててね。まだ子どもだった俺たちも参加してたんだ。そのころ恵子さんは高校を卒業する頃で、会ったばかりの健一さんに結婚を申し込んでた」
あれにはビックリしたね。と真面目な顔で淡々と話す成山と対照的に、陽希はパチパチと眼をしばたたいて固まっていた。
「いやあ、大変だったよお? 森本のおじさんは顔真っ赤にして怒ってて、恵里は恵里で眼の前のプロポーズにキャーキャー騒いで、俺は秒速で敗れた良川の初恋を慰めてた……てっきり、恵子さんはおじさんからの見合い攻撃を逃げるために投げやりになったのかもと思ったけど、本当に結婚しちゃうんだからすごいよね。健一さんも勇気いったと思うな~」
「……もしかしたら、本当に投げやりになって誰でもよかったのかも」
「まあ、その可能性はゼロじゃないかもだけど……俺はないと思うな」
なんだか自分よりも両親について詳しいような口ぶりだ。やけに断言する成山に、陽希は内心面白くなくて、どうしてです? とジロリと眼を向けた。
と、成山は、両手を挙げて降参するようにしてから「恵里がそう言ってるからね」とつけ加えた。
「恵里さんの言葉なら信用できるんですか? 本当に?」
「陽希くんからすると面白くないだろうけど、親子と姉妹だったら、姉妹間の方がこういった話はしやすいだろう? 信頼してもいいとは思う」
そう言われて陽希は黙るしかなかった。理解は出来るが、それでも悔しい部分もある。
「それに森本のおじさんが怒ってたって言ったろ? もし、誰でも良かったのならおじさんが文句を言えないような役職の人を見つけた方がよっぽど楽だ。それでも、恵子さんは健一さんを選んだ。当てつけって場合もあるかもだけど……でも、健一さんもそんな面倒なおじさんがいる恵子さんを選んだ。愛してなきゃ、無理だと思うな……俺だったらあのおじさんにチクチク一生言われ続けるのは嫌だし、そう考えたらどんな素敵な相手でも森本の人とは結婚したくない」
きっと祖父がここにいれば顔を真っ赤にして怒っていることだろう。けろりとした顔で言う成山に、陽希もだんだん冷静になってきた。
言われた言葉を反芻していくうちに、もしかして……なんて期待が過る。トクトクと鼓動が逸って、慌てて期待するなと戒めた。
「糸がつながってなくてもさ、幸せそうにしている夫婦はいるだろ? そういう人の気持ちが足りない、て言うわけじゃないけど、糸がつながるには同じ
そこで成山は「ああ」となにか思い出したように声を上げた。
「そうだ。恵里が前に言ってたよ。あの二人はすれ違ってるだけだって……でも、怖がって話をしようとしないから困るってね」
「すれ違ってる……」
陽希も恵里自身の口から同じ言葉を聞いていた。
「どんなに相手のことを愛してたって、その人をを理解することは出来ないからね。知りたいなら話をしないと」
「……話をしたら、父と母の関係は修復するでしょうか」
縋るような声で言った陽希に、成山は微笑んだ。慰めるようでもあり、それは綺麗な世界しか知らない子どもを憐れむようにも見えた。
「話をした末に、別れることだってあるよ。俺の親は散々話し合ってたみたいだけど、結局離婚して糸も切れちゃったしね」
成山は陽希に寄り添ってはくれるが、優しい言葉だけをかけることはなかった。
ドキリ、と陽希の心臓が嫌な音を立てた。離ればなれになる家族を想像して、恐怖が湧きたつ。
青ざめた陽希を、困った子どもを見るような温かさで成山は見た。
「陽希くん、なにかを変えたいなら踏み出すしかないよ。今のままじゃ現状維持だけど、少なくとも話をすれば良いほうに向かう道も見える。まあ、君がご両親のことで必要以上に悩むこともないと思うけどね。割りきって生活するのも手だし……でも、そういう顔をするってことはお父さんのこともお母さんのことも好きなんだね」
ゆったりとした動きで、陽希は頷いた。
笑い声が溢れるような家庭ではないが、いつだって穏やかな時間だけは流れていた。
朝と晩のご飯は三人揃って――我が家にある唯一の暗黙のルール。食器の微かな音と、ときどき交わされる会話……と言っても、「学校はどうだ」など相手の状況を訊ねる本当に小さなことだけ。それでも、陽希は仕事に忙しい父も三人で揃うことの出来る時間が嫌いではなかった。
ただ、今までしてこなかったせいか、戸惑って思うように話が出来ないのはもどかしいと思う。だが、遠足以降、陽希が料理を手伝っているからか、その話題でぽつぽつと会話が続くようにもなった。
食べ始めるときに、まず父が「今日はどれを陽希が作ったんだ?」と楽しげに訊いてくれるぐらいには、習慣になりつつある。
――陽希が一歩踏み出したから、今があるのだ。
(そうだよね。やっぱりなにかを変えるには今いるところから一歩踏み出して外に出るしかないんだ)
窓の外で、チカチカと数回点滅しながら街灯が点いた。それに眼を奪われて外の薄暗さに気づくと、陽希の口から勝手に「……あ、夕ご飯」と口から漏れてしまった。
帰りが普段よりも遅れるとは伝えてあるが、きっと母は夕飯までには帰ってくると思ってるだろう。
(お母さんは、今日はなにを作ってるんだろう……)
もしかしたら、一緒に作ると思って準備を待っているかもしれない。急にソワソワして家に帰りたくなった。
そんな陽希の心を読んだように、成山はふっと吹き出すと「そろそろ出ようか?」と伝票を手に立ち上がる。
「あっ、でも、まだ訊きたいことが……」
「ああ。その糸の先の相手のことだよね?」
同じように立ち上がった陽希の手元を見た瞳が、すいと陽希の赤い糸をなぞっていった。そして、ふとなにかに気づいたように一瞬見開かれ、パチパチと眼が瞬いた。
どうしたのかと陽希も同じ方向を見ようとしたが、伝票で遮られてしまい、そのままやや強引に肩を抱かれてレジのほうに連れて行かれてしまった。
「どうしたんですか? 成山さん」
「……ううん。もう暗くなっちゃったなあと思って。陽希くんは高校生だし早く帰さなきゃいけなかったって反省中だよ」
「そんな……気にしないでください」
女子でもあるまいに、ある程度大きくなった男相手にそれは心配しすぎだろう。
そのまま成山が二人分をまとめて支払おうとしたので慌てて止めたが、「大人に見栄をはらせてね」とニッコリ言われてしまい、返答に困っている間にさっさと会計が済んでしまった。
「ごちそうさまです……今日はありがとうございました」
外に出て、店の前で陽希は丁寧に頭を下げた。
「俺も楽しかったからさ。気にしないで」
「……また、連絡してもいいですか?」
暗い空の隅で、真っ赤な陽がわずかに垣間見えた。学校を出たときはじっとり汗ばむ気候だったが、今は温い風が吹いて幾分も涼しく感じた。
肩をすくめて小さくなって窺う陽希に、成山は笑顔で頷こうとした。が、ふと陽希越しに店のほうに眼をやってなにかを見た。忘れ物かと陽希も振り向こうとしたが、それを遮るように成山が腕を伸ばして陽希を引き寄せた。
「わっ……!」
肩に腕を回され、突然のことに倒れ込みそうになった陽希は、成山の体にもたれるように受け入れられた。そのままくるりと反転して、陽希を隠すように成山は店のほうに背を向けた。
「な、成山さん……?」
戸惑いの声に、成山はぽつりと言う。
「糸があってもなくても、人は誰かを好きになれる。けど、人を愛することを諦めると糸はどこにもいけなくなっちゃうから……だから、自分の心に素直でいることが大事だよ」
「えっ」
顔を上げれば、思ったより近くに成山の綺麗な顔があって驚いた。大人の男性とここまで近づいたことはない。緊張や警戒で体が固まる。けれど、陽希を見る彼の瞳は、どこまでも幼い子どもを見るような温かさしかなくて、すぐにほっと力が抜けた。
腕の中で身を委ねる陽希に、成山はちょっと困った顔をしたが、ふいに首を傾げてコツンと額を合わせた。
「俺が知ってることなんてあんまりないけど、なにかあったら電話しておいで」
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
例え恵里の――自身の友人の親族に対してだとしても、あまりに親身すぎる気がした。
頼ったのは自分なくせに、今さらその親切さが自分には過分すぎる気がしてむず痒い。
陽希の問いに、成山は懐古するように眼を細めて静かに言葉を紡いだ。
「昔、俺が一人だったとき……こうして誰か大人に傍にいて欲しかったからかな……?」
自分でもよく分かっていないように、成山は頭を捻って絞り出した答えを言う。困り眉の下で笑う瞳には、淋しさや悲しみが一瞬揺らいだ気がした。
不意に陽希の胸に切なさが湧いた。
――人を愛することを諦めると糸はどこにもいけなくなっちゃうから。
思い出すのは、ついさっき成山が言ってくれた言葉だ。
(どうして成山さんは、それを知ってるんですか……)
肩に回った彼の手を見て、途切れた赤い糸に胸がきゅっと絞られた。
一人だったときというのは、あなたが人を愛することを諦めたときなんですか。
浮き上がった疑問は、言葉にすることは躊躇われた。しかし、素直に顔に出た陽希に、
「大丈夫だよ。お節介な幼なじみが傍にいたからさ」
と、成山は苦笑した。さっきまでの淋しさや悲しみが、その人への親愛で温かく塗りつぶされた。
その笑みに陽希もどこかほっとして頷いた。
「ほら、もう帰ろう。恵子さんたち、待ってるだろうから」
「はい」
電車で帰る成山とは喫茶店の前で別れ、陽希は駅から出てくる人の流れに乗って家に向かった。
帰宅したのは、陽が沈みきり、辺り一面が夜空に塗り変わってしばらく経ったころだ。
「ただいまー」
スリッパに履き替えながら声を上げれば、いつものように母がキッチンから顔を出す。
「おかえりなさい。もうすぐご飯出来るわよ」
「うん。すぐ行くね」
荷物を部屋に置いてから制服を着替えてキッチンに戻ると、すでに夕飯の準備は終わっていた。
もうすぐと言っていたので、少しぐらいは手伝えるかと思ったのに。ちょっぴり残念な気持ちになった。
料理の時間は、母と気兼ねなく過ごせる唯一の時間だから。
「お父さん、もう着くって連絡あったから」
「じゃあよそっちゃうね」
鍋を覗くと、そこには湯気の立ったクリームシチューだった。すでにダイニングテーブルにはサラダが用意されていたので、陽希は三人分のシチューを盛り付けた。
母は薄く切ったフランスパンを軽くトーストしてバターを塗っていた。
「……あの人、今日はガッカリするかもね」
「どうして?」
ふと口をついた母に、陽希は首を傾げた。こんなに美味しそうなのに、なにをガッカリするというのだろう。
(お父さんてシチュー嫌いだっけ……?)
しっかりした好みまで把握していないが、そんなにあからさまにガッカリするほど嫌いな食べ物はなかった気がする。
「最近、陽希はどれ作ったんだって訊くでしょう? 今日は全部私が作っちゃったから……残念かなって」
母にしては明るい口調だ。それがなんだか空元気のように思えた。チラリと見えた瞳が淋しそうな光を宿していたからだろうか。
「そんなことないと思うけど……」
陽希の言葉を、母は慰めとしか受け取らなかった。薄く笑って、そう? と首を傾げた。もどかしくて、でもそれを覆せるほど父のことを知っているわけでもなかったので、陽希は口を噤むしかない。
父はたしかに多くは語らないけれど、食事のときは必ず「美味しい」って母に伝えている。
今回だって、きっとそう言うはずだ。
そのあとすぐに父が帰宅して、三人で食卓についた。
すると、席について早々に父は「今日も陽希が手伝ったのか?」と訊ねた。
陽希が、今日は手伝えなかったと伝えれば、「そうだよな。学校だって忙しいもんな」と大きく頷いた。
労わりの言葉を述べてから、父は不意に顔を上げて、今度は俺が時間をみて作ってみようか、と笑った。
父の料理か……たしかに食べたことないかもしれない。
料理なんてしてるのは見たことないが、器用な人なので、意外と様になるんじゃないだろうか。
そうしたら、陽希も手伝って母には休んでいてもらうのもいいかも、と思った。
わくわくした期待を滲ませながら頷こうとしたが、母の硬い声で遮られてしまった。
「仕事忙しいでしょう? 家のことは私がやりますから」
「そうか……?」
母にそう窘められ、父は微苦笑して食事を続けた。少し、残念そうだ。
対する母のほうは焦ったような顔だった。まるで自分の仕事を取られることに危機感を覚えたような、そんな焦燥が滲んでいた。
そんな二人の様子を、陽希は食事をしつつ、チラチラと横目に見比べた。期待が膨らむように胸がソワソワし始めた。
(成山さんの話を聞いたからかな……なんか、二人とも遠慮してるみたい)
今までは、お互いを好きでないからギスギスしているのだと思っていた。だが、それは本当に陽希の勘違いだったかもしれない。
陽希の勝手な思い込みをなくしてよく見てみると、二人は一歩踏み込みきれないような歯がゆさを覚える。嫌いあっている、というよりは、相手に嫌われることを恐れて尻込みしているみたいだ。
もどかしくて、陽希はつい口を挟みたくなった。
(……でも、なんて言えばいいんだろう)
母に、父が陽希の出自を誤解していると告げて真実を話してもらう?
二人はちゃんとお互いを想っているのか直接訊いてみる?
もぐもぐと口を動かしながら、陽希はあれやこれやと考えた。けれど、結局なにも言えずに食事を終えてしまった。
陽希の期待した通りの答えが返ってくれば、確かに両親の誤解も解け、良い方向へと向かうだろう。だが、もし――もしも悪い方へいったら? もっと仲が険悪になるような、どうしようもない亀裂が走ったりしたらどうしよう。
そう思うと、二の足を踏んでなにも言えなかった。
食器を洗う母を手伝ってから、陽希は部屋に戻った。
宿題でも済ませようかと机に腰掛けたとき、ふいに帰り際の成山の言葉を思い出した。
帰ろうと言って、二人で店の前で別れたときのことだ。背中を向けて正反対の方向に足を向けてすぐのことだった。名前を呼ばれて陽希が振り返ると、成山も少し先で振り向いてこちらを見ていた。
――ややこしいことになったらごめんよ! なにかあったらすぐに連絡してね。
最後にそう言って、成山は手を振りながら帰って行った。ごめん、と謝っているにしては随分いい笑顔だった。
(ごめんってどういうことだったんだろ……)
謝られるようなことをされた覚えはなく、結局陽希は首を捻っただけで宿題に取り掛かった。