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第11話

(みんなとの集合時間が日暮れ時で良かったな)

 帰宅途中の電車内で、陽希はそう思った。

 車内には席がちょうど埋まる程度に人がいて、陽希のようにドアの近くで立っている人影もちらほらと見られた。

 朝の満員電車に比べれば、随分と淋しく見える。

 外はとっぷりと暮れていて、窓ガラスの向こうでは、点々と灯る明かりが線を引くように通り過ぎていった。寄りかかるようにしていた窓ガラスには、くたびれた自分の姿が映っている。

 車内の白い照明のせいか、青白く生気がないように感じた。虚ろにじっと眺めていると、薄らと赤くなっていた目許に気づき、陽希は前髪で隠すように俯いた。

 みんなとの集合時間は、日が暮れた頃だったし、集まってすぐに学年主任の挨拶を聞いて解散だった。照明はあったが、あくまでも屋外の通路を照らす程度のもので、集まった生徒の周囲を照らしていたわけではない。

 誰かと個別に話すようなこともなかったので、きっと陽希が泣いたことには誰も気づいていないはずだ。

 帰り際には、遠目に飯山を見かけ、体調は大丈夫なのかと訊きたかったが、さすがに面と向かって話すとなると泣いた跡に気づかれてしまいそうで、怖くて声をかけられなかった。

 元気そうに見えたので、あのあと回復したのだと思う。

(青島くんは、あのあとどうしたかな……)

 迷子の少年を見送ったあと、逃げるように別れてからそれっきりだった。

 きっと多田たちと合流して楽しく過ごしたはずだ。そう分かっていても気にしてしまうのは、逃げる陽希の背中に届いた呼び声が、随分必死なものに聞こえたからだろうか。

 体力の限界まで走った陽希は、集合時間まで一人でふらりと園内を回っていた。そして、あてもなく歩いて無為に歩いていたか、座って周囲をぼんやり眺めていただけだった。

 一人で遊園地を楽しめるような気力は残っていなかったのだ。

 今だって、働かない頭で暗い外の景色を眺めているだけ。すると、不意に最寄り駅の名前が聞こえ、陽希は寄りかかったドアから慌てて一歩退いた。

 そう経たずに電車は速度を落としてホームに入った。ゆっくりと動きを止め、すぐに重たい動作音で扉が開いた。

 陽希は降車しつつ、周囲にさっと眼を配って見知った制服がないことを確認し、内心で安堵してからそそくさと改札を出た。

 無事に帰ってきた。見知った景色にほっと息を吐いて歩き出したとき。少し先を歩くスーツの男性から、ひらりとハンカチが落ちた。

 あっと思った陽希は、駆けよってハンカチを拾うと、慌てて男を追いかけた。

 すぐ先の信号で足止めされていた彼に、あの……と窺うように声をかけた。

「すみません、ハンカチ落とされましたよ」

 隣に立って呼びかける。すいと陽希に流れた瞳は胡乱げだったが、男は陽希の手元のハンカチを見ると、途端にあたふたして自分のポケットを漁り、「あっ」と声を漏らした。

「ありがとう。全然気づかなかったよ」

 ほっとしたように微笑んだ彼は、意外と若い人だった。成熟した落ち着いた雰囲気はあるものの、ハリのある肌や穏やかな笑みは若々しく溌剌として見えた。

 癖のある茶髪を軽く撫でつけた姿は、青島を彷彿とさせた。清潔感のある整った顔立ちや雰囲気も、少し似ていた。

 思わず陽希は、眼をしばたたく。すると、ハンカチを受け取った男性も、ふと視線を上げて陽希を見ると、驚愕した様子を見せた。

(どうしたんだろう……)

 まさかこの人のものではなかっただろうか? 不安になったが、彼は確かにハンカチを確認してから受け取ったはずだ。

「恵子さん……?」

 ほとんど吐息のような男の囁きは、陽希には届かなかった。

「あの、なにか?」

 あんまりにもじっくり見つめられるものだから、陽希は僅かな警戒と不安を混ぜて訊ねた。

 ハッとしたように男は我に返った。

「ああ、いや……ごめんね。知り合いに雰囲気が似てて驚いちゃって……ハンカチ、ありがとう」

 慌てていた男は、最後に再び微笑んで礼を言って去って行った。

 あの驚きようはなんだったんだろう。しばらくの間、男の背中を眺めていた陽希だが、どうせもう会うこともないだろうと深くは気にせず、自宅に向かった。

 明かりの点いた家を前に、深呼吸をして心を静めた。

 ゆっくりと玄関を開け、なにも言わないのも落ち着かず、「ただいま」と聞かせるつもりもなく呟いた。

 けれど、音で気づいたのか母がリビングから顔を出した。

 いつもならば形式的に「おかえり」と言ってすぐに引っ込んでしまうが、今日は陽希の顔を見るなりぎょっとして慌てた様子で駆け寄ってきた。

「今日遠足だったんでしょう? なにかあったの?」

 ここまで動揺を示すのも珍しい。あの祖父の嫌味を一切顔色を変えずに聞き流す母が、なにをそんなに狼狽えているのだろう。

 おろおろと泳いだ母の瞳は、陽希の目許を気にしている。そこで陽希は、ああと納得がいった。

(俺が泣いてるって気づいて驚いたのか)

 そういえば、最近は泣いてばかりだったけれど、陽希は子どもの頃からほとんど泣くことがなかった。ましてや、物心ついてから母の前で泣いたことなどない。

 そうなると、さすがの母も驚くわけか。と納得した心持ちだ。

 あたふたした眼差しでじっと見られると、なんだか心配でもされてるみたいで胸が疼いた。そわそわして、それが喜びとして陽希の心に浮き上がる前に、そっと眼を伏せながら靴を脱いで上がり込む。

「ジェットコースター初めて乗ったけど、意外と怖いんだね」

 これ以上は恥ずかしいから聞かないで。そう伝えるように苦笑すれば、母は肩から力が抜けて、そうなの……? と確認するように言うので、頷いた。

 情けないよね。そう笑えば、母の狼狽っぷりはすぐに表情の薄い仮面に覆われてしまった。

 不意に探るように見られて、冷や汗をかくような心地でドキリとした。が、結局母は興味もなさそうに「そう」とだけ言った。途端、落胆がじわりと広がって陽希は人知れず自分に苦笑した。

「今日は疲れたから部屋で休んでるね」

 すれ違い様に言えば、少し躊躇いがちに母は答えた。

「ええ……お風呂の準備ができたら呼ぶから」

「うん。わかった」

 逃げるように階段を上っている途中で、不意に陽希は振り返った。リビングに戻っていく母の背中に、つい手が伸びそうになった。

(ねえ、お母さん……)

 お母さんの中に、愛はあるの?

 胸のうちで、ふと陽希は呟いた。

 同時にもう一つの疑問が浮かぶ。

(もし、お母さんの中にも愛があるなら……それなら、なんで俺を……)

 そこまで考え、陽希は怖くなって足早に部屋に飛びこんだ。

 ◆

「あれ? 稲葉くん、また委員長の仕事?」

 通りかかった早波からの言葉に、陽希はぎくりと肩を竦めた。

 見ると、早波は心配そうに眉を寄せていた。

「もしよければ、私手伝おうか?」

 その申し出に、陽希は微笑んで首を振る。

「今日は課題やってから帰ろうかなって思ってただけなんだ。委員の仕事じゃないから大丈夫だよ」

「そっか……ならいいんだ」

 ほっとした早波だったが、まだいいたいことがあるように瞳を揺らし……けれどなにも言わずに「じゃあね」と手を振って帰って行った。

 彼女が廊下にでたことを確認してから、陽希は笑みを消して深いため息を落とした。

 放課後の教室はガランとしたもので、もう陽希の姿しか残っていない。

 自分以外の気配が消えた途端、じくじくと罪悪感のようなものが疼き始めた。陽希は開いたノートの上に項垂れ、もう一度「はあ~」と長く息を吐いた。

(ダメだなあ、俺……青島くんと顔を合わせづらいからって、こんな逃げるみたいに……)

 遠足は木曜日に決行されたので、翌日の金曜日――つまり今日は、通常通り授業があった。

 休み時間は教室に引きこもってしまえば、青島と会うことはない。だが、帰りのホームルームが終わる時間はどのクラスも大差がないので、顔を合わせる可能性がぐんと上がる。

 そのため、陽希は往生際悪く、こうして放課後も教室に居座って彼のことを避けてしまったのだ。

 振り払ってしまった手の痛みを思い出し、陽希の顔がその痛みに歪む。

 驚いた青島の表情が蘇ると、ズキズキと何度も胸が痛むのだ。

(謝らないといけないよね……)

 だって彼は、陽希のことを想ってああ言ってくれたのだ。なのに、陽希は手を振り払って拒んでしまった。

 悪いのは自分だ。分かっているのに、陽希はうじうじして青島の元に行くことが出来なかった。

 いつもだったら、こんなふうにぐだぐだと先送りにしたりはしない。赤い糸を結んでしまったときだって、陽希は自分から彼のもとにいけたのだ。

(それが出来ない……)

 本当は、ちゃんと分かっていた。

 自分はなにを嫌がっているのか――怖がっているのか。

 愛があると言ってくれた彼の言葉に向き合ったとき、どんな現実と直面しないといけないのか。

 そこにある答えに気づいているのに、陽希は必死に顔を背けているのだ。

「稲葉くん」

 考え込んでいると、不意に名前を呼ばれて驚く。さっき帰ったはずの早波が所在なく立っていた。

「早波さん? どうしたの?」

 てっきり帰ったと思った。いつのまに戻ってきたのだろう。

 疑問に思っていると、早波は緊張したように鞄の持ち手をぎゅっと両手で握った。

 俯きがちな彼女の黒い瞳が、うろうろと揺れていて、春樹は思わず心配になる。

 なにかあったの? そう陽希が言うよりも早く、彼女は意を決したように顔を上げ、意思の強い瞳で陽希を射抜いた。

「あ、あのさ、稲葉くん! 私も一緒に課題やってもいい? 不安なところがあって……」

 いつも物静かでひっそりと話す早波の大きな声に、陽希はきょとりとして驚いた。

 そして、一息で言い切った彼女の言葉に、なんだそんなことか、と笑って頷く。

「うん。もちろんいいよ」

 そんなに緊張しなくてもいいのになあ。早波は真面目な生徒なので、誰かと一緒にやるのは気が咎めたのかもしれない。

 誘ってもらえたことが嬉しくて、陽希はニコニコしながらすぐそばの机をくっつけて早波を呼んだ。

 早波はやっぱり、どこか緊張した様子でおずおずと椅子に座ると、ぎこちない動きで教科書を取り出した。

 今日課題として出されたのは、数学の問題だ。

 新しい単元に入ってからそう経ってもいないので、まだ基礎的なことが多く、難易度はそこまでじゃない。

 まずは自分たちで解いてみよう、と二人は黙々と教材に向かっていたが、あまり時間がかからずに終えてしまった。

 手を止め、陽希はそっと早波を窺い見た。彼女は考えるように顎に手を置いていて、まだ問題は解けていないようだ。

 ここで陽希がペンを置こうものなら、彼女は焦ってしまうだろう。

 どうせ時間はあるのだし、と陽希は適当にペンを動かしつつチラリと時計を見た。

 ホームルームが終わってから、まだ三十分も経っていない。

(青島くんは今日はバイトだし、もう帰ってるよね……)

 本当は図書室にも寄ろうかと思ったが、課題を終わらせたら帰ろうかな……と思う。昨日から心が忙しくて、今日はもう帰ってゆっくりしたい。

 ――って言っても、家に帰ったらお母さんがいるし、どっちにしろ休まらないか。

 苦い思いでふと顔を上げると、ちょうど早波と眼が合った。

 あっ……と、止まった自分の手に罰の悪さを覚えた。気を遣わせたかもと思った。けれど、彼女はどうしてか頬を赤くしてわたわたと慌て始めた。

「ご、ごめんね! じっと見たりして……稲葉くんはもう終わった?」

「うん。ちょうど問題解き終わったところ……早波さんは?」

「私、最後の問題だけ分かんなくて……教えてもらってもいい?」

 そろりと言われ、陽希は喜んでと笑みを浮かべた。

「いいよ。公式が合わさってるからちょっと複雑だよね」

 言いながら、教科書を開き、その問題で使用する公式のページを開いた。口頭で一つ二つ助言をすれば、早波はまるで知っていたかのようにスラスラと問題を解いて見せた。

(早波さん成績いいし、もうちょっと時間があれば自分でも答えられたんだろうな)

 俺がヘマしたから焦らせたかも、と内心で反省する。

「俺は数学終えたら帰ろうかなって思ってたんだけど……早波さんはどうする?」

「私ももう帰るよ。数学はちょっと不安だったから、稲葉くんと出来て良かった」

「役に立てるところでよかったよ」

 もう少し単元が進んで応用が入ってくると、陽希もすぐに答えを出すのは難しかったかもしれない。

 机を元の位置に戻し、そのまま二人で教室を出た。

 七月に入ろうという今、少しずつ気温は上がり続け、半袖の下でもじわりと汗をかいてしまう。

 階段を下り、下駄箱のある一階の廊下を歩いていると、不意に隣の早波が上擦った声で言った。

「きょ、去年もこうして二人で廊下歩いたことあるんだけど……お、覚えてる……?」

「去年?」

 急なことに、陽希は慌てて記憶を思い返す。

 一年生の頃も早波とは同じクラスだった。だが、交流が生まれたのは今年に入ってからで、一年生の時に彼女と関わった記憶はほとんどない。

 考え込んでしまった陽希に、早波は切なさの見える笑顔で手を振って謝った。

「ごめん。覚えてるわけないよね……一年前だし、私たちが話したのってあの時の一階きりだったから」

 だから気にしないで。そう言いつつ、彼女は落ち込んでいるように見えた。

 しずしずと進む早波の横顔に、申し訳ない思いが募った。

(女子と二人で……なんてほとんどないしなあ)

 仲が悪いわけではないが、積極的に絡むわけでもない。しかも、二人でとなると滅多にあることじゃない。

 委員会や係の仕事……または教師から言いつけられた雑用か。当たりをつけるとしたらそんなところだろう。

(そういえば、早波さんは去年もなにかの教科の係だった気がする……)

 もしかしてその仕事を手伝ったりしただろうか? だが、ハッキリとは思い出せない。

 もどかしい気持ちを抱えていると、ふと早波が思い出すように表情を柔らかくしてぽつぽつと話し始めた。

「去年ね、私が係の仕事でノートを運んでたんだけど、私ったら鈍くさくてさ……。ふらふらしてノート落としちゃったら稲葉くんが声かけてくれたんだよ」

 早波は、それがよほど嬉しかったのか頬を赤くして照れくさそうに微笑んだ。

 言われてみると、そんなこともあった気がする。同じような場面には何度も遭遇したことがあるので、その中にきっと早波もいたのだろう。

「私助けてもらったのに、鈍くさいとこ見られて恥ずかしくてさ……上手くお礼言えなかったから、ずっと言いたかったの」

 あの時はありがとう。稲葉くん。

 早波が礼を言って、陽希を見た。眼が合うと、彼女の頬にさらに赤みがさしてくすぐったそうにはにかんだ。

 ありがとう――その言葉は、いつだって陽希の胸に花を咲かせて、春の日のように鼓動を温かくする。

「あー、やっと言えた! 緊張したあ!」

「そんなに気にしなくてもよかったのに……大したことなんてしてないし」

「あのとき、高校入ったばっかで友達いなくて……誰にも頼れなくて一人でパニックになってたから。だから声かけてもらえてすっごく嬉しかったの」

 そうして早波は、

「そのときから稲葉くんは私の目標なんだ」

 と、照れ臭いと、しかしどこか誇らしげに笑う。

「俺が目標?」

「そうなの。稲葉くんて入学したてでも、委員長としてみんなと仲良くて頼られててかっこよくて……それに、あの青島くんと友達だもんね!」

 その名前を聞いた途端、ドキリと胸が高鳴った。

「青島くんとは、今年に入ってから仲良くしてもらってるんだ。青島くん女の子に人気だもんねえ」

 動揺を悟らせないように、どうにか陽希は口の端を上げて言った。けれど、早波は不思議そうに首を傾げて「あれ?」と呟く。

「去年からじゃなくて?」

「……え?」

 下駄箱に着き、靴を取り出していた陽希は思わず体を硬くさせた。ギギッと錆びたブリキ人形みたいなぎこちない動きで彼女見ると、早波もなぜだか驚いていた。

「いや、私の勘違いだったらごめんね。でも、二人でノート運んでたときに私がまたノートばらまけちゃってさ。そのとき青島くんがすぐに拾ってくれたんだけど、陽希くんのことじっと見てたし、知り合いなのかなって思ってた」

「……そうだったっけ」

「そうだよ。青島くんてかっこいいけど冷たいって噂だったし、だから私ビックリしちゃって……でも、青島くんてば稲葉くんのことしか眼に入ってないってなかったから、ああ友達だから拾ってくれたのかなって」

 ――あ、これ本人には内緒にしてね? 

 ハッとした顔で言われ、陽希は頭の追いつかないまま勢いに押されて頷いた。

 校舎を出ると、すぐに早波は「私はこっちなんだ」と駐輪場のほうを指さした。そこで二人は手を振って別れる。

 離れる直前、そういえば……と早波が思い出したように宙を見た。

「あの時の青島くん、なんかすっごくビックリした顔で稲葉くんのこと見てたかも」

 独り言みたいに言った後、彼女は手を振って行ってしまった。

 振り返していた手を、彼女の姿が見えなくなってからだらりと落とした。

 バクバクと、心臓がまるで追いかけられているような焦燥の混じった音を出す。自分でも名状しがたい不思議な予感めいたものが、ひしひしと背後に近づいている。そんな嫌な感じだ。

(青島くんと、会ってた……?)

 けれど、陽希の記憶に残っていない。

 ――一体どうして?

 陽希は青島の赤い糸に気づいてからは、いつだって彼のことが気になって仕方なかった。彼の気配には人一倍敏感だった自覚がある。

(なら、俺が糸に気づく前……?)

 それなら納得がいく。多分、ノートを拾ってもらっただけの短い時間では、糸に気づかなかったのだろう。

 ――すっごくビックリした顔で稲葉くんのこと……。

 早波の言葉が、耳の奥に返ってくる。

 もしや、と陽希の中に一つの仮定が浮かんだ。

(もしかして、青島くんはそのときに俺の赤い糸に気づいた……?)

 それなら、彼はそのときから陽希のことを知っていた?

 そう考えると、やけに陽希のことを知ったふうな青島や多田たちのことなど、いろいろと納得がいく。

 まだ部活の活動時間で、こんな中途半端な時間に帰る生徒は陽希以外には見えない。

 考えに耽りながらゆっくりと歩いて校門を出た陽希を、不意に女性の声が呼び止めた。

「あ、陽希くん!」

 聞こえた女性の声に、陽希は息を飲んだ。だっては、本来ならここにいるはずがない。

 そんなことあるわけない。そう思って振り向いたが、確かにそこには陽希が思い描いた女性の姿があった。

 明るい茶髪をまとめ上げ、仕事帰りなのかすっきりとスーツを着こなした女性――恵里は、いつもの愛嬌のある可愛らしい笑顔で陽希に駆け寄って来た。

「たまたまこっちに用事があってさ、恵子姉さんの顔でも見に行こうかなって思ったの……ちょうどここが通り道だったし、陽希くんそろそろ学校終わるかなって待ってた!」

 お茶でもしてから帰らない? 奢るよ?

 茶目っ気のある顔で片目を瞑った恵里に言われ、陽希は無下にも出来ず、おずおずと頷いた。

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