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第10話

 飯山と乗ったような絶叫アトラクションなら、この鬱々とした思いも全部吹き飛ぶかも。そう思ったが、青島について行った先にあったのは観覧車だった。

 さすがに今の沈んだ気分のまま、青島と二人きりになるのは気まずい。

 どうにか他の場所に誘導できないかとも考えたが、観覧車は他のアトラクションに比べて待ち時間が随分と短かった。思案しているうちに、あっという間にスタッフに促されてゴンドラの中に押し込まれてしまった。

 向かい合うように陽希たちが座ったのを見て、スタッフの女性は「行ってらっしゃーい」とにこやかに手を振った。

 彼女の明るい声の余韻が、余計に静かな二人の時間を居心地悪く思わせた。

 ゴンドラは少しずつ上昇していく。陽希は俯いて時間つぶしになる話題を探した。けれど、なにも思い浮かばない。

(青島くんはいつもどんな話をしてくれてたっけ……)

 いつも二人でいるときは、彼のほうから話を振ってくれていた。チラリと上目遣いに見ると、彼は窓枠に肘をかけて頬杖をついて外を見ていた。

 陽希もつられて同じように外に眼を向ける。

 ちょうど正午を回った陽光は高い位置にあり、随分と目映く世界を照らしている。けれど、二人のいるゴンドラの中は屋根で陽差しが遮られ、どこか暗く思えた。

 窓ガラスの外にはカラフルな建築物やアトラクションが並び、それを楽しむ人々がいた。音が聞こえなくても賑やかだと分かるその景色は、次第に遠のいていく。少しずつ、少しずつ距離が開いていき、陽希は世界から切り離されていくような心地に陥った。

 さっき感じた疎外感を、現実としてまざまざと見せつけられている。そう思った。

 心細さのような恐怖で胸が震えた。

 ふと縋るように手元の赤い糸に眼を落とした。眼の前の青島と陽希とを繋ぐ橋のように、淡く光る赤い糸がたゆんでいる。いつもなら、その光景だけで満足なはずだ。

 誰かと繋がっている。それが視認できただけで、満たされるはずだ。――それなのに。

(この糸だって、本当は空っぽなんだ……)

 見せかけだけの、中身の伴わない赤い糸。ただ事故で繋がってしまったものでしかない。

 分かっていたはずなのに、陽希は分かってなかった。青島がごっこ遊びでも陽希と関係を続けてくれているから、ついつい勘違いしてしまった。

 でも、もう大丈夫だ。ちゃんと分かっている。青島や多田たち――四人のやり取りを見て、認識を改めた。

「そういや……女子が、観覧車の頂上でキスすると、そのカップルは別れないって言ってたな」

 ふいに青島が、窓の外を見たまま呟いた。

「……キス、する?」

 回らない頭で、陽希はそう答えた。ちょうど屋上につくところだし、自分たちは一応恋人同士と言うことになっている。

 それに、多分割りきった心の奥で、陽希は誰かとの繋がりを求めていた。それが、口をついて出てしまった。

 キスじゃなくてもいい。ただ青島に言われたことなら、なんだって受け入れて実践できる気がした。それで彼が離れていかないというなら。

 陽希の言葉に、青島は頬杖から自分の顎を滑り落として動揺を露わにした。体勢を崩したと思えば、ガバリと勢いよく身を起こす。彼の瞳は、信じられないと見開かれ、頬はわずかに赤く染まっていた。

「は!? お、お前なに言ってんだよ!」

「えっ、ごめん……!」

 ああ、なんだ。青島はやろうと提案したわけじゃないらしい。陽希が誤解したようだ。

 そもそも青島がごっこ遊びとはいえ、陽希なんかとキスをしようとするはずがない。

 今さらそんなことに思い至って、恥ずかしくてたまらなくなった。逃げ出したいけど逃げられない。

 今二人がいるのは、地上と遠く離れたゴンドラの中なのだから。陽希は顔を真っ赤にして隠すように俯いた。

 青島は動揺を静めようと長く息を吐いた。そしてもう一度頬杖をついた姿勢に戻る。

 だが、陽希のことを気にしたようにチラチラと視線を向けていた。

「……お前、ごっこ遊びで誰とでもキスできんのかよ」

「そういうわけじゃ、」

 そうじゃない。否定しようとして、言葉に詰まった。だって自分は、ついさっきしようとしたではないか。

 自分自身に、失望するような気持ちだった。

 そこまで陽希は、誰かとの繋がりを必死に求めているのか――。

 いくらみんなから受け取っていた刹那的な愛情が偽物だったとしても。青島と本当の絆をもつことが出来ないと分かっていても。

 自分は今まで、一人で生きてきたじゃないか。しょうがないと全部諦めて生きてこられたじゃないか。

 弱い自分に、腹立たしいとさえ思った。

(俺って、こんなに弱い人間だったっけ……)

 きっと青島も、空っぽの赤い糸を命綱みたいにして必死に縋る陽希に、失望したはずだ。

 惨めだ。陽希はそう思う。

 誰からも愛されることも、誰かを愛することもないと分かっているくせに、その淋しさに耐えることも出来ない弱い自分が、ひどく惨めだ。

 自分に腹が立って泣きたくなった。じわじわと瞳が潤んでいくのが分かる。でもそんな姿を青島に見せたくなくて、唇を噛みしめて耐えていると、ふいに彼がそっと陽希の左手をとった。

 自分の手を追うようにゆっくりと眼を向ければ、どうしてか彼は、陽希の小指――赤い糸の根元にそっと唇を寄せた。

 ほんの刹那。眼を瞑っていれば分からないような、そんなかすかな熱が皮膚を撫でた。

 驚きで見開いた瞳がゆらゆらと涙で揺れる。そのうち、瞬きとともに睫毛で弾かれるようにほろりと涙が零れた。

「どうして……?」

 なんでキスなんかしたの。そう思うと、まるで責めるような声が出た。だって陽希は、そうしないとみっともなく泣き崩れて彼に寄りかかってしまいそうだった。

 ただ指に唇が触れただけなのに。陽希は、惨めだと打ちのめされる自分にキスしてもらえたように思ってしまったのだ。

 慰めるように、彼がキスをしてくれた。そんなふうに勘違いしてしまう。

「……嫌だったらごめん」

 泣き出した陽希に、青島は怯むように視線を逸らした。慌てて陽希が首を振ると、ほっと安堵の息をつく。

 そんな彼の言動すら、陽希は自分にとって優しい想像しか出来なくて、このままじゃダメだともう一度同じ言葉を訊ねた。

「どうして、キスなんか」

 ハッキリと彼の口から、自分のこんな思いは勘違いだと言ってもらわなくてはいけない。

 そう硬く決意する心境とは裏腹に、陽希の喉からは震えた声しか出なかった。

 問いかけに、青島は少し躊躇いがちに口を開く。

「それは、お前が淋しそうだったから」

 ひくりと、陽希の喉が――心が震えた。青島の指が、優しく陽希の手に添えられた。

「お前がなんか壊れそうに見えて。それで怖くて……つい」

(ああ……どうして……)

 彼がなにを言っても、受け入れる覚悟は出来ていた。むしろ、いっそのこと冷たく引き離して欲しいとさえ思った。それなのに、彼からはどこまでも優しい言葉しか出てこない。

 陽希は今度こそ、両手で顔を覆って泣き出した。ひくひくとしゃくり上げ、嗚咽を漏らす。

(……どうして、分かったの?)

 今まで誰も気づいてはくれなかった。父も、母も――そして自分自身でさえ。

 陽希は、自分がいつだって崖淵のギリギリに立っていたことに気づかなかった。

 淋しいと思いつつも、自分は一人でも生きていける。そう思っていた。

 今まで、しょうがないとなにもかも諦めて、生きてこられたわけじゃなかった。

 陽希が弱かったのは初めからだ。

 初めから自分は弱かった。ただ、気づかない振りをしていただけなのだ。

 座った膝に、両手で覆った顔を押しつけるようにして小さくなって泣いていれば、青島がおろおろしてぎこちなく背中を撫でてきた。どうした? 大丈夫か? そんな声が、陽希の頭上から降ってくる。

(どうしてきみは、そんなに優しいの)

 普通、訳も分からず泣き出した人間のことなんか放っておけばいいのに。

 その時。ふとこの関係が始まった、空き教室でのことが蘇った。

(……そっか。あのとき、青島くんにはもうみっともなく泣き喚いたんだっけ)

 彼だけは、陽希がみっともなく愛を欲しがる淋しがりだと、すでに知っているのだ。

 それなら、今さらこんなふうに泣いたって、彼の陽希を見る眼が変わったりしないか……。

 渇望する自分の胸の内に気づいてしまい、陽希の心は疲れ切っていた。普段ならば、そう思っても結局は取り繕って終わらせただろうに。もう楽になりたい。そんな思いで、今までの心の内を吐露し始めた。

「……俺のお母さんとお父さんはね。赤い糸がつながってないんだ。祖父母も、母の弟妹きょうだいも、誰も糸のつながった関係の人なんていない」

 刹那。脳裏に幸せそうな恵里の姿が、ざらついた映像として浮かんだ。しかし、陽希自身も気づく前に、それは頭の外に追い出された。

 彼女の存在は、いつだって陽希が自分を言い聞かせるときのノイズになる。

 ぽつぽつと語り出した陽希に、青島は小さく頷きながら聞いてくれていた。

 頂上を過ぎたゴンドラは、ゆっくりと下降に切り替わる。世界が――一人ぼっちの現実が、また近づいてくる。

 すすり泣く陽希を慰めるように、青島はそっと陽希の指先を包んだ。

 彼の体温はほっとするように温かくて、けれど少しずつ陽希の頭を冷静にしていく。

 今は二人きりの状況だから、青島は陽希を見てくれるけれど、地上に着いたらまたあの疎外感を味わうことになるのだ。

 それならもう、終わりにしてもいいんじゃないか。陽希の心が囁く。

 一人になる度にこうして淋しく思うのなら、もう最初から一人でいい。こんなごっこ遊びも、もう終わりでいいかもしれない。

「俺の家族は誰も愛情なんてもってない。愛のないところから生まれた俺は当然愛なんて持てないし、もらえるわけもない……。だから、誰かに頼られて、ありがとうって優しい言葉をもらって、愛をもらってる気分になってたんだ」

 でも、と陽希は続ける。

「こんなふうに自分のことしか考えてない俺が、本当の意味で誰かに頼って――愛してもらえるわけなんてないよね」

 はは、と自分の口から嘲笑のような乾いた声が出た。青島は咄嗟に口を開きかけたものの、すぐには言葉が出てこなかったらしい。

 赤い糸の繋がっていない人間なんて、碌なヤツはいない。自分のことしか考えていない――青島が言っていた言葉が、記憶の中から陽希の胸を刺す。

「俺だって、頼み事を聞いて他人に優しくして……それで愛を渡してる気分になってた。でも、そんなの愛じゃないんだよね。自分のために人に向ける優しさが、愛なわけがないもんね」

 今まで自分の中でぐるぐると渦巻いていた感情を、初めて言葉に出来たおかげか、今はひどく心が静かだった。受け入れたのか、それとも諦めたのかは自分でも分からない。

 ただ、足場の揺れるような不安定さはなくなっていた。

(自分の中で、答えが出たからかな……)

 ――どうして俺の赤い糸だけ、どこにも繋がってないんだろう。

 それは、子どもの頃から何度も何度も、陽希が心の中で問いかけてきた言葉だ。

 平然と人に嫌味を言う祖父を見て。街中で糸の繋がる幸せそうな誰かを見て……その問いは、何度も陽希の胸に返ってきた。

(でも、それももう終わりかも……)

 なんで陽希の赤い糸は途切れていたのか。それは、陽希が自分のことしか考えられない、ろくでもないヤツだからだ。

 なにも分からない暗闇の中でずっと問いかけ続けるだけだったが、今はその答えが手元にある。それだけで、随分と気が楽になった。

 ふと外を見ると、陽希たちの乗るゴンドラは、すでに半分ほど降りてきていた。

 少し離れたところにあったレーンを、ジェットコースターがすごい勢いで下っていった。楽しげな悲鳴が、微かに届く。

 陽希はコースターを追いながら、指先から力を抜いた。そうすれば、彼と繋がっていた手はするりと落ちて離れる。――そう思っていたのに、なぜか青島の指に引き留められてしまった。

 彼自身も、思わず手が出てしまったみたいだ。

 陽希は嬉しくて、同時に切なかった。

 自分の立場を理解した今となっては、こうして優しくしてもらえることが申し訳なくも思った。

(もう、潮時だよね)

 十分、良い夢を見られた。だからもう、終わりにしよう。

 ――どうか俺に、失望して欲しい。

 そんな願いを込めて、陽希は言った。

「青島くんの言ってた通り、俺は自分のことしか考えてない、自分勝手などうしようもない人間で。だから、愛なんて持てないしもらえないんだ」

 こんな人間でごめんね。だからもう、俺なんかに構わないでいいよ。

 内心でそうつけ加えて、陽希は微笑んだ。泣いたせいで赤くなった目許で、瞳はまだ濡れて艶めいていた。けれど、その笑顔は割りきったように清々しい。

 陽希の雰囲気で、別れを察したのかもしれない。青島は、ハッと息を飲んだ。

 彼の薄い虹彩の瞳が、なにかを必死に探すように狼狽した。薄い唇が微かに開いては閉じる。まるで陽希を引き留める言葉でも探しているように見えて、未練たらしい自分の考えに苦笑が漏れた。

 ふと窓の外に人影が見え、地上がすぐそこに迫っていることに気づいた。慌ててハンカチを取り出して顔を拭う。

 手が離れたとき、「あっ」と青島がなにか言いかけていて、それに陽希が問い返そうとした。が、その前にガタンと重たそうな金属音がして、ゴンドラの扉が開かれると同時に、スタッフの女性に明るい笑顔で出迎えられた。

「はーい、おかえりなさーい!」

 ニコニコした彼女の声に、まず陽希が腰を上げてゴンドラから下りた。すれ違いざま、ぺこりと微笑んで頭を下げると、明らかに泣いたと思われる陽希の目許に気づき、女性はきょとりとしばたたく。

 泣いた様子の陽希が晴れ晴れしていて、反対に青島が暗い面持ちだから、混乱したように一度だけ二人を交互に見た。けれど、やはり仕事であるからか、最後は笑顔で手を振って見送ると、並んでいた次のペアをゴンドラへと促した。

 出口に続く通路を、来たときとは反対に陽希が先導する形で進んだ。

 そう経たず、また賑やかな喧噪と合流することが出来た。

(繋がっちゃった糸のことは、後で考えよう)

 振り返って、じゃあねと言えばいい。そうすれば、この幸せな夢も終わりだ。

 静かに深呼吸をして、えいと心の中で勢いづけながら振り向こうとした陽希だったが、不意に小さな人影が眼に止まって思わず駆け寄った。

 背後で青島が困惑気味に陽希を呼んだけれど、そのときには陽希はその子どもの前に行き着いていた。

 通路脇に並んだベンチの間には、景観を損なわない可愛らしい色合いのゴミ箱が置かれていた。その陰に隠れるように子どもが一人、座り込んでいたのだ。

 まだ小学校に上がる前ぐらいの年頃だろうか。膝を抱えるように不安な顔で涙ぐんでいたその少年は、不意に自分に影が差すとビクリと肩を震わせた。

 恐々と見上げてくるので、陽希は少しの距離を保ったまま屈んで目線を合わせる。

「こんにちは。急に話しかけてごめんね。座り込んでたから心配になっちゃって……お母さんとかお父さんとか、大人の人とは一緒じゃないの?」

 時々、少年の眼が誰かを探すように行き交う人に向けられていたので、迷子だろうかと当たりをつけて言うと、子どもは泣くのを耐えてぐっと唇を噛みしめながら頷いた。

「……今、その人のことを探してる?」

 こくりと、また少年が頷いた。

 ちょうどそのとき、追いかけてきた青島がやって来て、子どもを見ると真っ先に「迷子か?」と声をかける。陽希は頷いて、もう一つ少年に問いかけた。

「誰のことを探してるか訊いても良い?」

「……ママとパパ」

「そっかあ。お母さんとお父さんと一緒に来たんだね」

 ニコニコと話しているうちに、子どもは警戒心を解いたのか陽希たちを怪しむような眼差しが消えた。学生服を着ている、というのも、一役買ったかもしれない。

 遊園地の人にママとパパを呼んでもらおう。そう提案して、スタッフのところに行こうと手を差しだして窺えば、少年はおずおずと立ち上がって陽希の手を取った。

 それを確認して、陽希は立ち上がる。

 やっぱり、一人で心細かったようだ。手を繋ぐと、心なしか少年の顔が和らいだ。

 この辺りに迷子センターやインフォメーションセンターはあっただろうか。陽希が施設マップを出そうと鞄に手をかけると、すでに手元に準備していた青島が「あっちに迷子センターがある」と左の通路を指さして言った。

 陽希は子ども聞き役に徹し、青島がマップを見ながら先を進む。

 少年は、今は幼稚園に通う年長さんらしい。今日は、前にあったお遊戯会で頑張ったから、両親と一緒に遊びに来たのだと言っていた。

 両親に会える目処が立ったからか、彼の表情はさっきよりも随分と明るい。

 来年になったら小学校に通うのだと、期待に眼を輝かせて楽しみだと語った。

「ランドセルはね、俺青にするんだ」

「今はいろんな色を持ってる子がいるよね」

 通学途中にすれ違う小学生のカラフルな背中を思い出して陽希が言うと、少年は不思議にそうに首を傾げる。

「お兄ちゃんたちは何色だったの?」

「俺のときは、男の子はほとんど黒だったかなあ」

「そっちのお兄ちゃんは?」

 青島の背中に子どもが問いかける。青島は眼だけでちらりと後ろを気にすると、少し考えるように黙ってから「俺も」と答えた。

 ぶっきらぼうであまりに素っ気ない声だ。それがなんだか青島らしくない気がして、陽希は気になった。

 彼は、親とはぐれて不安に思う子どもに、悪戯に冷たく接するような人ではないから。

 それに、やけに感情を殺したような静かな声だったのだ。まるで思い出したくないことが、頭に浮かんで、それを悟らせないようにしているみたいだった。

「みんな黒? えー、つまんないのお」

 不服そうに頬を膨らませた少年に、陽希は苦笑しつつほっとした。

 そうしているうちに迷子センターに辿り着き、青島が受付のスタッフに事情を説明した。すでに彼の両親は、迷子の届け出をしていたらしい。スタッフは少年を見ると、あっと顔を明るくして別のスタッフに声をかけた。その人が置くの部屋に行くと、若い夫婦を連れて戻ってきた。

 子どもを見た女性が、安堵で涙ぐみながら少年の名前を呼んだ。

「ママ! パパ!」

 さっきまで楽しそうにハキハキと小学校の話をしていた彼も、叫ぶようにして両親の腕に飛び込んだ。

 父親が子どもを抱き上げ、安心して泣くその子の背中を撫でてあやしている。

 陽希と青島に気づくと、立ち上がった少年の両親は何度も頭を下げて礼を言った。

 大したことはしてないからと、恐縮する二人に、それでもありがとうと微笑み、その家族は仲良く連れ立って帰って行った。

 父親の肩越しに、泣いた目許の子どもが陽希たちに手を振った。

 憂いのない子どもの顔に、陽希も嬉しくなってニコニコと手を振り返して見送った。そんな陽希のことを横目に眺めていた青島が、不意に呟く。

「感謝してくれる親で良かったよな」

「え?」

 急になにを言い出すのだろう。振り仰ぐと、彼は今度は去って行く親子の背中を見て言った。

「最近じゃ、迷子見つけてスタッフのとこに連れてこうとしたって、自分たちが誘拐犯に間違われて親に騒がれたりとか色々面倒だろ。だから、あいつの周りに気にした様子の大人は何人かいたけど、声をかけるまで慎重になってた」

「まあ……親からすると、その人が良い人かどうかは見分けがつかないしね。子どものためにも、警戒するぐらいがいいんじゃないかな」

「お前は躊躇わなかったな」

「ごめん。もっとよく周りを見てからのほうが良かったよね」

 自分の浅慮を窘められているのだと思って微苦笑すれば、青島はもどかしそうに眉をひそめると早口になった。

「それだけ、あいつを助けることしか見えてなかったってことだろ」

 語尾が強くなった彼の言葉に、陽希はビクリとして肩を震わせた。

「……青島くん?」

 どうして怒っているのだろう。そろそろと見上げると、ちょうど陽が差して彼の薄茶の髪を温かい色に染めていた。

 風に巻き上げられて癖のある髪がふわりと舞った。鼻筋の通った整った美貌が見えて、陽希は言葉を呑んで見惚れていた。

 陽を反射した瞳がきらりと光り、不意に陽希を認めた。射抜かれて、ドキリと心臓が高鳴る。

 彼が口を開く姿が、ひどくゆっくりに見えた。

「俺は、お前の優しさは……愛だと思う」

 さっきまでと違って、青島は一つ一つ区切るように言った。これは大事なことだと主張するように。陽希に確実に届けようとする意志が感じられた。

 陽希の頭は一瞬、真っ白になった。呼吸を止めた刹那、再び二人の間を風が抜けていく。

 風にあおられた赤い糸が、その存在を主張するように、大きく弧を描いて二人を繋いでいた。

 気づけば、周囲の喧噪は遠いものになっていた。耳元で心臓がなっているように、鼓動が大きく聞こえる。

 逸る鼓動は、一体なにを現しているのだろう。陽希自身でも分からない。ただ、嫌な予感めいたなにかを、背後に感じた。

 茫然と立ち尽くす陽希から眼を逸らすように、青島は伏し目がちに続けた。

「自分のために人に優しくする人間だって、そりゃいるだろ。でも、そういうやヤツの優しさは、もっと押しつけがましくて、お節介なもんだと俺は思う」

「だから俺は、誰かに頼ってもらうように……」

 そうなるように、自分で仕向けていて――。

 言いかけた陽希の言葉を、青島が攫った。

「頼ってくれって誰かに言ったことあるのか? お前は、それを誰かに押しつけたか?」

 ギクリと体が震えた。

「それは……」

 言葉に詰まる。陽希は直接それを誰かに言ったことなんてない。ただ、クラス委員をやったりして、頼ってもらえるような役割を務めはするけれど、いつだって受け身だった。

 言い淀む陽希に、青島は訳知り顔で言う。

「親は警戒するぐらいでちょうどいいって言ったろ。きっとお前は、あの親が、俺たちのことを子どもに近づく不審者だって警戒して、例え感謝なんてしなくったって、同じことを言ってたよ。子どもが無事に帰れたことを喜んで、それで笑う。お前は、そういうヤツだよ」

「なに言って……」

 そんなこと、きみに分かるわけないじゃないか。

 出会って一ヶ月も経ってないのに、青島に分かるはずがない。なのに、どうしてそんな断言できるんだ。

「稲葉が困ってる人を助けるとき、いつだってお前自身じゃなくて、相手に主体性がある。さっきだって、スタッフのところに行くのも、子どもに提案して子どもが手を取るまで待ってたろ? 自分の手が必要なのか、その判断は相手に委ねる……感謝の言葉が欲しいだけの人間がすることじゃない」

 ――感謝の言葉をくれるかどうか。そんな判断基準で人を助けたことないだろ?

 やけにしたり顔でそう言われ、咄嗟に反発心が湧いた。

「そんなこと――!」

 ――そんなことない。俺は青島が言うような人間じゃない。

 言いかけて……でも真っ直ぐに見てくる青島の瞳とかち合うと、途端に言葉が出なくなった。今、嘘を言うのは許されない気がした。

 だって、困ってる人に声をかけるとき、その先のことを考る人なんているだろうか。まず体が動くのだからしょうがないじゃないか。

 心の中で、そう言い訳した。

「稲葉が誰かの手伝いをしてて、もしほかの人間が手を貸せば、お前は自分のことみたいに礼を言うヤツだから。稲葉自身が言うような人間だったら、そんな報酬を奪いかねない人間にあんなふうに礼を言えるわけない」

 ふと彼の表情が、温かい記憶を思い返すように柔らかくなった。

 反対に陽希は、青島がなにを言ってるのか分からず、困惑した。

 「きっと稲葉が言うように、自分のためって言うのもゼロじゃないんだろ。……でも、お前はいつだって困ってる人を助けたくて、声をかけてると思うよ。その優しさは、愛だろ?」

 狼狽える陽希に、青島は言い含めるように言った。頑固な子どもの心を解きほぐすみたいに穏やかに、そっと窺うように。

「俺は、そんなんじゃないよ……」

 ゆるゆると首を振りながら否定して、陽希は後じさる。

 どうしてか、彼が言葉を重ねる度に自分はどんどん崖淵に追い詰めているような――そんな緊張感が体を伝っていくのだ。

「青島くんは俺のことなにも知らないでしょ。なんでそんなこと言えるのさ」

 慰めならやめてくれ。苛立った気持ちを滲ませると、ちがうとかぶりを振って拒まれた。

「俺は知ってるんだ! 前からずっと……きっと、俺が一番よく知ってる」

 言葉尻が小さくなっていく青島の声を聞きながらふと、陽希は自分に疑問を覚える。

(そもそも、どうして俺はこんなに頑なに否定してるんだろう……?)

 だっておかしいじゃないか。

 愛が持てたら。愛を向けてもらえたら――今までずっとそう願って、羨ましがってきた。だから青島と赤い糸を紡いでしまった。それなのに、なんで愛があるって言ってくれた彼の言葉を、喜んで受け入れられないんだろう。

 喜ぶよりも早く。嬉しいと思うよりも大きく……陽希の心を占めるのは真っ暗な恐怖だった。

 祖父母の間に愛情はない。その愛のないところから生まれた母の中にも、愛というものはなかった。――そして、同じように愛のない両親二人から生まれた陽希だって、愛情を持ってるはずがない。

(だって、それならお母さんの中にだって……)

 一つの可能性が頭を過り、それ以上考えることを拒むように頭痛がして、喉が締まったような息苦しさを覚えた。

 青ざめた顔で青島を――その先のどこかを見つめる陽希のただならぬ様子に気づいた青島は、心配そうに距離を詰めた。

「稲葉? どうした?」

 二人を繋ぐ赤い糸を宿した彼の手が伸ばされたが、咄嗟に陽希は振り払ってしまった。

 驚愕に眼を見開いた青島が、衝撃を受けたように立ち尽くす。

「ごめんなさい」

 その隙に、陽希は呟いて走り出した。口をついて出た謝罪は、この場から逃げることに対してか。それとも、彼の優しさをふいにすることになのか、自分でも分からない。

 背後で呼び止める青島の声がしたが、足は止められなかった。

 立ち止まったら、考えないといけなくなる。彼の言ってくれた言葉について。そして、その先を。ゾクリと、背筋に恐怖にような冷たいものが走った。

 それに突き動かされるように、陽希は人混みを縫うように走り抜けた。

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