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第9話

 意気揚々と踏み出した飯山に促されるまま、陽希は彼の後をついて行った。だが、両者ともに遊園地という場所は初めてである。

 アトラクションエリアに入って早々に、立ち往生してしまった。

 どうしようかと二人揃って首を傾げ、しばらく悩んだ末に、定番だろうと一番近くにあったジェットコースターに乗ることにした。

 乗車口は階段を登った随分先だが、階下にも長い列が続いていて、最後尾付近にある立て札には、六十分待ちと書かれていた。

 驚く陽希だったが、同様に驚いていた飯山が不意に周囲のアトラクションを指して

「これが普通みたいだぜ」

 と言うので、さらに衝撃を受けて見渡せば、確かに他のアトラクションも似たようなものだった。

 しかも、今日は比較的空いている日らしい。「空いてて良かったねー」と前に並んだ若い女性二人の声が聞こえ、思わず陽希は飯山と顔を見合わせてしまった。

 とりあえず、そういうものか、と納得して、無言でうなずき合った。

 長い待ち時間。加えてほとんど話をしたことのない相手と二人きりだ。

 口下手な陽希があれやこれやと話題を考えているうちに、飯山のほうも気を遣ってくれたのか、いろいろと話をしてくれた。

 その流れで、彼に年の離れた妹がいることを知った。小学校に上がったばかりのその子は、飯山が遊園地に行くと聞いて、随分と羨ましがっていたらしい。

「ずるいずるいって言ってよ。宥めんの大変だったぜ、本当に。しまいには、お土産はこれ買ってきてって指名するんだぜ?」

 どこで売ってんのかも一緒に言えよな。ぼやく飯山の口ぶりを見るに、律儀に買って帰るらしい。

 めんどくさいと口では言っても、彼の垂れ下がった目尻や僅かに弾んだ声から、妹への愛情が垣間見えてほっこりとする。

 そのまま愚痴と称した、飯山の家族自慢は続いた。陽希がうんうんと楽しそうに相づちを打って聞くものだから、飯山もつい乗せられてしまったらしい。

 詳しく聞いているうちに、彼の家が母子家庭であると知った。

 母親は仕事が忙しくてほとんど家にいないため、まだ小さい妹は、兄である飯山に随分とべったりなようだ。

 母親の助けになりたいが、まだ小さい妹を一人残して遅くまでバイトに行くことも出来ない。

 そんな悩ましい状況に置かれた飯山が取ったのが、妹が小学校の学童保育にいられる日暮れまでの僅かな時間をバイトに費やすことだったらしい。

 そのため、授業が終わると我先にとばかりに飛び出し、バイト先に向かっているという。少しでも出勤時間を増やして給料をもらうためなのだとか。

 陽希の脳裏に、青島が思い出された。彼も母子家庭でバイトに明け暮れている。

 両親が揃っていて、しかもお金に苦労したことも働いた経験もない自分が、なんだか子どもっぽく見えて恥ずかしく思えた。

 二人を見ていると、自分は恵まれているのだと思い知る。

 青島も飯山も、生活のために、家族のために頑張っている。なのに、自分はどうだろう。

 家族もいて、お金もあって。なに不自由なんてない生活で、愛情を欲して淋しがっているなんて。

 なんだか自分が、ひどく子どもだと突きつけられた気分だ。小さな子どもが、アニメのキャラクターになることを夢見るような。そんな現実性のない夢をいつまでも信じ切っているような――そんな痛々しさを自分に感じる。

 胸を刺され、言葉に詰まった陽希に飯山はきょとりとした。だが、すぐにハッとした顔でなにかに気づくと、慌てた様子でおろおろし始めた。

「そ、そういや稲葉って同じ掃除班だっけ……ごめん。俺、一回も顔出したことなくて……」

「あっ……ううん。大丈夫だよ」

 どうやら、自分の発言で陽希が困惑した。もしくは怒っていると思ったらしい。

 飯山は自身の失言を後悔するように、額を押さえてあちゃーと嘆いた。そして、再び「ごめんな」と引き結んだ唇で謝った。

 困ってしまったのは陽希のほうだ。全くそんなつもりなんてなく、むしろ大変だなと同情気味だったのにここまで謝られては申し訳がない。

「俺はそこまで気にしてないよ。……もしかして太田先生はこれ知ってるの?」

 ありていに言えば、掃除班は少なくない人数で構成されているし、一人減ったぐらいではそこまで負担は増えない。

 他のみんなも初めから飯山が参加していないので、今じゃ欠席していることすら忘れていそうだ。だが、担任である太田は別だろう。

 なにも言わないのも、彼の事情を知っている故だったのか。そう見直したのは一瞬だけだった。

「いや、太田にも言ってねーわ」

 すかさず否定した飯山に、陽希はやっぱりそうなのかと肩を落とした。

 もしかしたら自分たちが誤解しているだけかも。そんなことを思ったが、やはり太田は、ただ問題児とされる生徒に関わりたくないだけだったらしい。

 そういえば、と陽希は点呼に報告に行ったときに聞こえた教員の会話を思い出した。

 随分と熱心に太田が話をしていて、その声が耳に届いてしまったのだ。なんでも妻と娘と上手くいっていないとか。弱っているなら可哀想にとも思ったろうが、太田は家族二人にひどく腹を立てていて、その怒りように思わず声をかけるのを戸惑うほどだった。

(たしか娘さんは俺たちと同世代だって前に言ってたっけ……)

 それよりも陽希は、ちゃんと班員を覚えていて、かつ内心では悪いと思っていた飯山に認識を改める。

 きっと綺麗に整ったノートのように、几帳面で真面目なのが彼の本質なのだろう。

 クラスメイトの新たな面を知れて、陽希は嬉しく思った。

 そうしているうちに少しずつ列は進んでいき、やっと陽希たちの順番が来た。少し緊張しつつも、スタッフの指示に従って乗り込み、しずしずと腰を下ろした。スタッフの一人が前から順に安全バーを下ろしていき、陽希たちの体も固定される。思ったよりも隙間がある気がして、どことなく不安が立ちのぼって落ち着かなくなった。

 そのスタッフが全員分の安全バーのロックを確認すると、機械の操作員のほうに合図を送った。

 まもなく、ガタンと起動音と共に陽希たちは動き出した。外に出るのかと思いきや、照明の落ちた暗い通路を進むうちに少しずつ速度が上がっていく。そこからはあっという間だった。

「飯山くん、大丈夫?」

 ベンチで項垂れる飯山に、陽希は心配そうに声をかけた。彼は口を開く余裕もないのか、ゆるりと手を上げて答えた。

 屈んでそっと覗き込んだ。口許を手で覆ってしまっていて分かりにくいが、その顔面はひどく青白く見えた。

 ますます心配を募らせ、陽希はすぐそばの売店で買ってきたばかりの冷えた飲料水を差しだした。

 虚ろな飯山の目がチラリと水を見て、どこか光が戻った気がした。咄嗟に伸びた彼の手は、ペットボトルに届く前に迷うように止まり、陽希はその手に無理矢理ペットボトルを押しつけた。

 渡されて諦めたのか。それとも我慢できないほどに体調が悪かったのか。飯山はすぐさま蓋を開けると、仰ぐようにして三分の一ほど一気に飲み干して、脱力するようにベンチの背もたれにぐでっと寄りかかった。そうして呻くように言った。

「あー、悪い……これいくらだった?」

 力ない言葉に、陽希は首を振って苦笑した。

「ただのお水だし、大した金額じゃないか気にしないで。それよりも大丈夫?」

 飯山は呻くみたいな低い声で肯定を示した。

「……冷たい水飲んだら少し楽になったわ。でも、しばらく休むかな……動くとまた眼が回りそうだ」

 言いながら、飯山は自身の目許に冷えたペットボトルを置く。まだまだ顔は紙のように白いし、体に力を入れられる様子ではない。だが、アトラクションを降りたときに比べれば、少し元気が戻ったように見えた。

「稲葉は繊細そうなのに意外と平気だったなあ」

 目許を冷やしたまま、飯山は意外とばかりに呟いた。陽希は隣に座りつつけろりとした顔で言う。

「落ちるときは心臓が縮んだみたいになって怖かったけど……結構楽しかったかも」

「俺だって落ちるだけならいけたんだけど。……くそっ。真っ暗な中をあのスピードでぐねぐねされるとダメだったわ」

 悔しそうにへの字になった口が、悪態をつく。それに陽希は思わず笑ってしまった。そして意外と元気な様子にほっと安堵もした。

 陽希たちが乗り込んだアトラクションは、屋内タイプのジェットコースターだった。アップダウンよりもカーブの多い構造になっていて、しかも超スピードでそのグネグネした道を行くのだ。そして、照明が落とされていて暗かったということもあり、飯山は見事に酔ってしまった。

 終わってみて隣を見ると、真っ青になった飯山が俯いていて、陽希は大いに慌てたものだ。

 ヘロヘロになってしまった彼を支えて、なんとか外に出てきたはいいが、そのまま他のアトラクションに行けるわけもなく、こうしてベンチで休憩をしている。

「本当に救護室行かなくていいの?」

 それはまず最初に陽希が訊ねたことだったが、心配になってまた同じ事を訊いた。

 ベッドで休んだほうが楽だろうに。そう思っての提案だが、当の飯山からは「そこまでじゃねーから大丈夫」とやっぱり断られてしまった。

「それより稲葉は別に俺についてなくていいぜ。こんなんじゃ飯も食えねーし、しばらくここにいるし」

 好きなとこ行ってこい。そう言うように手で払われ、それが彼の気遣いだと分かりつつも、陽希は少し腹が立った。まさかこの状態で置いていくような人間に見えるのだろうか。

「一人にして行けるわけないだろ?」

 とんでもない。そう思って言ったが、飯山は反省するどころか、ペットボトルを横に置くと、どうしてか怒った陽希をじーっと見て深いため息を吐いた。

「お前、自分から貧乏くじ引くタイプだろ」

 やがて、そう呟いた。怒っているのは陽希なのに、どうしてか彼の語尾は苛立ったように強くなった。

「俺の母さんもそうだぜ。自分じゃなくてもいいことわざわざ請け負って、どうでもいいことで自分のことを消費していくんだ……家族からすると止めて欲しいけどな。ただでさえ忙しいくせに、さらに自分の首絞めてるようなもんだ」

「そんなこと……」

 ない――とは言い切れなかった。

 べつに陽希は、自身を消費しているつもりも、それを苦だと思ったこともない。だが、「自分じゃなくてもいいことをわざわざ請け負う」というのは、まさにその通りだ。

 図星をつかれて怯んだが、すぐにでも……と心の中で反論する。

(だって、誰でも良いことじゃないと俺は必要とされないし……)

 そうでなければ、誰も頼ってくれなくなってしまう。だって、陽希が誰かの特別になれることはない。だから、陽希じゃなきゃだめなことなんて、この世界に存在しない。

(でも、飯山くんのお母さんは違うんだろうなあ……)

 陽希の胸に微かな羨望が浮かんだ。

 きっと彼の母は、困っている人をみたら放っておけないような、本当に良い人なんだろう。少なくとも、陽希のように自分のために誰かに頼ってもらっているわけじゃないはずだ。

 チラリと、陽希は気づかれないように飯山を見た。彼の左手には、赤い糸が長く垂れて地面を伝っていた。――彼は誰かに愛され、誰かを愛せる人間なのだ。

 その飯山が嬉しそうに語る母だ。きっとその人も愛情深く、優しい人に違いない。

 俯きながら、陽希は自嘲するように薄く笑った。

「おい。他人事みてーな顔してっけど、お前のこと言ってんだからな」

 ぼんやりして夢うつつな陽希に、飯山はキッと目尻をつり上げた。急に身を乗り出されて、陽希はビクリと肩を竦めて僅かに後ろに反った。

「学級委員だからかなんだか知らねーけど、とくに太田はお前のこと都合良く使いすぎだよ」

 前から思ってたんだと憤慨する飯山に、陽希はおずおずと言う。

「そんな、使うだなんて……」

 言葉が過ぎる。そう思ったが、飯山にすげなくはね除けられてしまう。

「クラスの奴らがまともだから、今の範疇で収まってんだぞ。どうしようもねーヤツってのは意外といるもんだろ。そんなヤツと同じクラスになってたら、お前一発で都合の良いパシリにされるぞ」

 言い聞かせるべく、飯山はビシッと指をさして眼を眇めた。自分を指す彼に、陽希の心臓がドキリと跳ねた。無意識に膝の上で手を握ってしまう。

 その通りだ。咄嗟にそう思ってしまった。

 それは飯山の言う「もし」に対してではなく、自分の存在がクラスメイトたちに都合が良いと受け取られることにだ。

 じわりと嫌な汗が背中を伝った。

 頼ってもらえている、なんて便宜的に解釈しているが、きっとクラスメイト達の心の中で陽希は、多かれ少なかれ都合の良い便利な存在だと思われているはずだ。

 そんなこと分かっている。分かっていて、陽希はその事実から必死に眼を逸らしていた。

 知らない振りをして、頼られることに無邪気に喜んでいた。けれど、飯山の言葉でその事実に直面させられる。途端に胸が、軋むように痛んだ。

(ダメ。……考えちゃだめ)

 頭の中が警告するように明滅した。けれど、一度突きつけられたものは、勝手に眼に入ってくる。拒否しつつも、めまぐるしく動く思考を止められない。

 今まで、散々頼られることでもらっていた愛を、大事に大事に胸に抱えて生きてきた。だが、よく見ればそれらは、愛とは似た形をした別物だった。

 陽希はそのことに気づいてしまった。

 息が詰まったように苦しくなった。はく、と喘ぐように息を吸った。それなのに、上手く空気が入ってこない。

 今まで築いてきた地盤が緩んで、クラクラと目眩がした。

 飯山は陽希の現状を心配しているだけ――理性では分かっている。それなのに、陽希は傷つけられたと思ってしまった。

 自分の都合の良い世界を壊す、自分を傷つける敵として頭が認識してしまう。

 必死に自制していなければ、ひどい言葉をかけてしまいそうだった。いや。きっと口を開くと自然とそれらが飛び出てしまう。

 だから陽希は、唇を強く引き結び、食いしばるようにして耐えた。

 押し黙った陽希を、飯山は訝しく、そして心配そうに窺った。大丈夫か? そう言って手を伸ばされるのが視界の隅に見え、陽希は内心で咄嗟に叫んだ。

 ――やめて! 触らないで!

 けれど、そんなひどい言葉は投げかけられなくて、怖がるように身を硬くしただけだった。飯山の近づく手が、ひどく緩慢な動きに見えた一瞬。

「おい。お前なにしてんだよ」

 低く怒りの滲んだ声が、二人の間を割くように降り注いだ。

 陽希の肩に触れる眼と鼻の先で、飯山の手を誰かが捕らえていた。割り込んだ手の小指からはふわりと赤い糸が舞って、それが自分の指につながっていることに気づき、陽希は頭で理解するよりも早く、眼球がじんと熱を持って安堵した。息が吸える。呼吸が戻って来た。

 ギリギリと腕が震えるほどに強く握られた飯山は、痛みと急に割って入られた不快さに片眉を大きく上げて青島を見る。

「は? お前こそ急に割り込んできてなんだよ。ってか腕いてーよ。放せ」

 言いながら、飯山は掴まれた腕を乱暴に振り解いた。痛みが残っているのか、それを逃がすように手を振りながら立ち上がると、ジロリと青島を威嚇するように鋭い眼を向けた。

 青島も、そんな眼差しに負けないぐらいに険しく眼を眇め、どこか不愉快そうに唸った。

「こいつに触るな」

「なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねーんだよ」

 青島のほうが背が高いが、柄の悪さは飯山のほうが上だ。

 突然の青島の存在に驚いて放心していた陽希だったが、バチバチと火花でも散らすように睨み合う二人にハッと我に返った。そして、なにやら誤解している青島を止めに入る。

「青島くん。この子は飯山くんで、俺のクラスメイトなの。一人だった俺と一緒にいてくれて……ジェットコースター乗ったら気分が悪くなっちゃったからここで休んでただけで」

 青島はどうしてここにいるのだろう。そもそもなぜこんなに怒っているのか。

 訊きたいことは山ほどあったし混乱もしていたが、今は二人の険悪な空気をどうにかしなくては。陽希はそんな使命感で必死に言い募った。

 二人の間に割り込み、まるで獣でも相手取るようにどうどうと宥める。青島は、なぜ邪魔するとでも言いたげに眉をひそめた。けれど――。

「本当か?」

 不意にじっと見透かすようにして問われ、陽希は力強く頷いた。嘘じゃない。事実、飯山は陽希のためを思って言っただけで、それに大袈裟に反応したのは陽希なのだ。

 青島は納得行かない顔で数秒黙っていた。それでも、陽希の言葉に嘘はないと判断したらしい。彼の体から威圧感が消え、警戒を解くようにふっと鼻から息を吐き出した様子に、陽希も緊張していた体から力を抜いた。

 そんな二人のやり取りを眺めていた飯山は、急に大人しくなった青島に眼をしばたたかせた。そして、奇異の目で陽希に訊ねた。

「稲葉ってミルクティー王子と知り合いなのか?」

「ミルクティー王子って青島くんのこと?」

「そいつ、女子がよく騒いでるヤツだろ? クールでかっこいい~って」

 その女子生徒の真似なのか、大袈裟に高い猫なで声で言った飯山に、青島の顔がよりしかめられた。そんな青島を、飯山は鼻で笑う。

 再び両者に火花が散ったような気がして、陽希は慌てて二人の間で声を上げた。

「青島くんとは最近仲良くしてもらってるの!」

 飯山は、信じ切れない様子で「へー」とぶっきらぼうに呟いた。しかし、ふらりとよろめくように力なく再びベンチに座って、ちょうどいいと声を上げる。

「それなら、稲葉のこと連れてってくれよ」

「えっ。ちょっと、飯山くん?」

「俺が一人で休んでるって言うのに、こいつ気を遣ってどこにも行かねーんだ」

 飯山は肩を竦めた。これじゃあまるで、陽希が言うことを聞かない子供のようだと思った。

 飯山に抗議の声を上げたても、その瞳は青島を見上げるだけだ。青島も青島で、横で反論する陽希なんて眼に入らないようにしている。

 青島は飯山の様子を観察するようにじっと見下ろしていたが、彼が背もたれに両腕をかけて「ああーー」と呻く姿を見ると、毒気を抜かれたように一度ため息をついた。

 そして、不意に陽希の手を取って歩き出す。

「行くぞ」

「え、でも青島くん……」

 気分が優れない人を置き去りにするのも忍びない。

 腕を引かれながらおろおろと振り返る。飯山はまだ白い顔をさせながらも、ひらひらと手を振って二人を見送っていた。

「ごめんなあ、稲葉。気を悪くさせたみたいで」

 最後にそう聞こえて、陽希は察した。彼は陽希のことを気にかけて、自分から距離を取らせようとしたのだと。

(分かってたんだ……俺の様子がおかしいって)

 まさか体調の悪い人に気にかけてもらうなんて。途端に陽希は、自己嫌悪に襲われた。

 陽希の手から抵抗の意志がなくなり静かになったことで、不思議に思った青島は足を止めて振り返った。

「……やっぱあいつになんかされたのか?」

「えっ。どうして……?」

「だって、変な顔してるから」

 変な顔ってどんなだろ。陽希からしてみれば、青島のほうがよっぽど変な顔をしていた。

 苦虫を噛み潰したようなひどい顔だ。それでいて、緊張したように触れた手が汗ばんでいた。

 おもむろに、陽希は自分の顔に触れてみる。でも、当たり前だが自分じゃ分からない。

 そんな陽希の一挙一足を、青島は一瞬でも見逃さないようにと、じっと穴が開くほど見つめていた。

「俺が勝手に反省してるだけ。飯山くんは俺のために言ってくれたのに、受け入れられなくて……。しかも体調だって悪いのに気遣ってもらって……悪いなあって」

 微苦笑する陽希を、青島は見苦しく思うでもなく静かに見ていた。その薄茶の瞳に、痛ましいものを見たような光が過った。

「お前は優しいやつだよな」

 突然降ってきた言葉は、あまりに予想外だった。陽希は自分の情けない話をしていたのに、どうしてそんなことになるのか。

 困惑して見上げた先で、青島は微笑んでいた。喜ぶように。けれど、それが苦しいとでも言うように。

(なんでそんな眼で俺を見るの……?)

 どうしてか陽希には青島が遠くにいるように感じられて、触れている手に、彼を引き留めようと咄嗟に力が入った。

 青島の瞳が、我に返るように瞬いた。きらりと光の戻った瞳と眼が合って、なにか言わなきゃと焦燥を覚えたとき。

「おい、俊也! 戻って来んのかと思えばなんで明後日の方向に行くんだよ!」

 多田が、青島と肩を組むようにして現れた。叱責する彼の声に、青島は苦い顔をして顔を逸らした。

 多田の後方からは、アイスキャンディーを頬張った二人の男子生徒が遅れてやって来た。片方は多田と同じ短髪だが、もう一人は坊主頭だ。陽希と眼が合うと、揃ってにこやかに手を振ってくれた。まるで旧知の仲のような親しみやすさだが、初対面のはずだ。

 人なつっこいひとたちなのかな。そう思って、陽希もぎこちなく手を振り返す。

 二人とも多田のように日焼けした肌を持ち、体格が良い。もしかしたら、青島がいつも一緒にいるという多田と同じサッカー部の面々だろうか。

「六組の委員長でしょ。稲葉くん、だっけ?」

 不意に坊主頭の生徒に呼ばれ、陽希は戸惑いながら頷く。すると、彼らはへらりと笑って「俺、竹内。こっちは東山」と、隣の焦げ茶で短髪の生徒の分まで紹介をすませた。

「この前、幸基に会ったっしょ? あいつ嬉しそうに俺らに報告に来たからさあ」

「嬉しそう……?」

 俺と会っただけでなぜ? 竹内の言葉に首を傾げると、今度は東山が困ったように笑って言う。

「なんていうか、あれは弟と仲良くしてる友達に会ったときの、自慢げな兄の図だったよな……」

「そうそう。幸基んちって小さい弟がいるんだけどさ。そのせいか一人でいたがる俊也に対して、無駄に兄貴力を発揮してんだよ」

 出会ったころなんて大変だった。

 思い出話に花を咲かせる二人をよそに、陽希は静かに衝撃を受けていた。

(青島くんが一人でいたがる……?)

 たしかに広く交友関係を築くタイプには見えない。けれどそれは、狭い範囲の限られた人と深く関わるからだと思っていた。

 現に多田や竹内、東山とは親しそうに悪態をついている。

 どういうことか。そう訊ねるより早く、陽希の手を引いた青島が、自分の後ろに陽希を隠すようにして前に出た。

「おまえらは三人でいるだろ。俺は稲葉と二人で回る」

 言い切る青島に、やれやれとした雰囲気で多田が腕を組んだ。

「それはべつにいいけどよ。せめてどっか行くなら俺らにひとこと言えって」

「あとでメッセージ送るつもりだった」

「嘘つけこの野郎」

 ぽんぽんと飛び交う言葉は、二人の仲の良さが垣間見える。

 確かに多田が兄のようだ。と言われるとそう見えてくる。

 二人を前に立ち尽くしていると、すかさず竹内が耳打ちした。なんでも今の二人の関係は、心配性の多田がしつこくつきまとい、青島の世話を焼いた結果らしい。

「一年の頃の俊也の拒否り方はちょっと異常だったからな」

「誰も寄せ付けなくてな。幸基が気にかけるのも分かる」

 懐かしむように言う二人に、陽希の心にひやりとした冷たいものが押し当てられた。

 さっき飯山によって揺らいだ地盤が、またぐらぐらと目眩を起こしている。

 これは、世界から放り出されそうになっているのだと気づいた。

 つまり自分は疎外感を覚え、恐怖している。陽希は、怯え淋しがる心の裏側で、冷静にそう思った。

 この人たちは青島の友達だ。偽りでもなく、本物の絆を築いている。

 一年の頃、青島が明確に拒絶していたというのに、今は一緒にいることを許容しているのが裏付けている。きっと青島にとって三人は、大事な人なのだ。

(でも、俺は違う……)

 赤い糸がつながっているだけの、ただの遊び相手でしかない。作られた関係性しか、陽希と青島の間にはないのだ。

 キリキリと胸が軋むように痛む。

 途端に、二人の間に揺れる赤い糸を隠したい気分になった。

 この空間から、今すぐ消えてしまいたい。そう思いさえした。小さくなるように肩を竦めていれば、青島に報連相を説いていた多田が陽希に笑いかける。

「トラブってたみたいだけど、大丈夫だったか?」

「うん……大丈夫。ちょっと誤解があっただけだから」

「そっか。ならいいんだけど……でも、顔色悪いぞ?」

 身を乗り出され、咄嗟に後ずさりしそうになった。けれど、陽希が動くよりも早く動いた青島が、多田を引き剥がすように襟元を掴んで後ろに追いやる。つい、ほっと安堵してしまった。

「とにかく、このあと俺は稲葉と回るから。おまえらは気にすんな」

 決定事項とばかりに言い放つ青島に、三人はそれぞれ緩く返事をして去って行く。別れ際、「体調気をつけてやれよ」という多田の言葉に、「うるせー。お前に言われなくても分かってるよ」とうっとうしそうに言う青島は、まさに気安い関係が透けて見えた。

 言われた多田が、笑って手を振っているのがその証拠だろう。

 目の当たりにして、また胸が苦しくなった。苦しくなる資格なんて、陽希には存在しないのに。

 振り返った青島は、陽希を見ると途端に驚いたように眼を見開いた。おろおろと狼狽えた様子で陽希を窺い、不可解そうに眉に浅く皺を寄せた。

 俯きがちだった陽希の頬に手を添え、ゆっくりと上向きにされる。顔にかかった陽希の黒髪を優しく払い、露わになった表情に彼は苦しむように顔を歪めた。

「……なんでまたその顔になった?」

 苦い顔で言われ、陽希は多田たちと合流する前のことを思い出した。

「変な顔……?」

 訊けば、神妙な顔で頷かれた。

 それ以上なにも言えず、陽希は眼を伏せて唇を引き結んだ。

 青島はしばらく困惑していた。やがて考えるように「あー」と意味もない言葉を発し、「なんか乗るか?」と苦し紛れに呟いた。

 陽希はなにも言わず。けれど彼と離れるのも嫌でこくりと頷いた。

 途端にホッとした顔をする青島に、胸のつかえが少し解けた気分になった。

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