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第7話

 二週間後、遠足当日は天候にも恵まれ、朝から燦々と晴れた陽気に包まれていた。

 遊園地には、電車で一時間ほどかかってしまうので、陽希は朝日が強く差し込む時間帯に家を出た。

 陽が出てからそう時間が経っていないせいか、青空が広がりつつも、どこか涼しい空気にはひっそりと残った夜の気配を感じた。

 早朝の空気はスッと陽希の中に入り込み、全身を綺麗に濯いでくれるような気分になる。息をすることすら、気分がいい。

 向かっている遊園地は都内にあった。

 早い時間帯とはいえ、駅も電車も人は多く、とくに陽希の乗車した上り線は満員電車で結構窮屈なものだった。

 普段はスクールバッグを使っているが、今日は校外学習なので動きやすいようにリュックサックで来た。そのリュックを前で背負って胸に抱え、陽希は出来るだけ体を小さくして電車に揺られていた。

 そうして人混みの向こう――窓の外で陽光に照らされてキラキラと光るビルたちをぼんやり眺めていた。

(電車って滅多に乗らないけど、たまにはこういうふうに過ごすのもいいな……)

 さすがに、毎日満員電車に揉まれるのは憂鬱だが、ときどきなら新鮮でいいかもしれない。特に、朝になったばかりの景色は見ていて気持ちが良かった。

 人が減っては同じだけ増え、たまにごっそりと人が少なる駅もあって。そうやって新しいことを発見するのも楽しかった。一人で色んなことに目移りしているうちに、気がつけば目的の駅に到着した。

 アナウンスから聞こえた駅名に、ハッとして陽希は慌てて電車を降りた。

 ここは遊園地の最寄り駅で、真っ直ぐ歩道橋を歩くと遊園地の受付に辿り着くのだ。きっと降りた人のほとんどは、陽希と同じ場所が目的地だろう。

 ほとんどは私服姿の一般の客だが、時々ちらほらと見知った制服を着た生徒の姿が見えた。

(結局、青島くんから遠足の話は出なかったな……)

 不意に残念に思ってしまった自分に気づき、ハッとしてぶんぶんと頭を振ってそんな思考を振り切った。

 いけない。いけない。欲張らないと、つい先日誓ったばかりなのだ。

 青島と一緒にいることが、陽希にとっての日常になり始めているせいか、気を抜くとすぐに欲が出てしまう。

 今だって、もし会えたら写真ぐらいは撮りたいな……なんて思わず考えてしまった。

 改札を抜けてから案内板に沿って歩くと、そう経たずに遊園地の入場ゲートが見えた。その手前にはすでに数え切れないほどの人の列が出来ている。

 開演時間までまだ時間はあるが、こうして早くから並んで待機するのは普通らしい。

 むしろ、十分に園内を楽しみたいなら、そうしないといけない、と事前に調べたときに見た解説サイトに記されていた。

 しかし、こうして眼の前にすると膨大な人の数と、ワクワクと心弾ませる人々の興奮や熱気に圧倒されてしまう。

(すごいなあ。こんなに遊びに来てるんだ……それにみんなすごく楽しそう)

 楽しみな様子を前面に出して顔を明るくしている人々に、見ている陽希も微笑んでしまう。

 友人同士ではしゃぐ若い集団や、それに混じって年配の人も意外と多い。

 ふと陽希は、小さな子ども連れの家族に眼をとめた。

 五歳ぐらいの男の子だ。その子を真ん中にして、左右には両親と見られる男女が寄り添っている。

 両手を父と母に握られた男の子は、入場したらどのアトラクションに行くんだ、と少し離れた陽希にまで届く声で楽しそうに言った。

 声が大きいよ。そう注意するように母親が腰を屈めて口元に指を立てた。けれど、その表情は笑みが浮かんでいて、楽しそうな我が子に対する愛情が見える。

 子供も子供で、はーいと頷きながら、今度はクスクス笑った。父親はそんな二人を見下ろして口の端を上げていた。

 温かくて、愛の詰まった光景だ。

 ツキン、と陽希は胸に小さな痛みを覚えた。あの光景は、陽希が経験できなかったものだ。

 家族で遊びに行ったことなどないし、両親と手を繋いだこともない。楽しそうに二人の顔を見上げて、自分の気持ちを述べたことなどない。

 よくよく見てみると、さっきの男の子の家族のような人たちは、そこら中に溢れていた。

 さっきまでぽかぽかしていた胸の内が急激に冷えて、世界に一人ぼっちになったような気持ちになった。

 ここは陽希の知らないことばかりだ。自分はここにいてはいけない。そんな気分になって、陽希は慌てて一般客の列から眼を逸らした。

(こっちは一般入場口だから、団体客用はの待機場所は……あっちか)

 少し離れた場所にあった案内板を見つけ、陽希は足を向けた。一般客が並ぶ列を囲うようにあった植え込みの向こう側は、大型バスなどが停まる大きな駐車場だ。

 他にも制服を着て集まっている学校があり、そちらはバスで揃って来ているようだった。こちら側もやはり人が多い。

 だが、同じ服装をして固まっているので、陽希の学校の待機列はすぐに分かった。

 無事にたどり着けたことにひとまず安堵した。そうして近づいていくと、教師陣はすでに揃っていて雑談まじりに生徒を待っていた。

 当たり前だが太田もいて、近づいてきた陽希に気づくと、稲葉! と手を上げた。

「さすが委員長、早いな!」

 と、陽希の肩を叩く。今日も相変わらず、ワンサイズは大きいぶかっとしたスーツ姿だ。

 太い黒縁の眼鏡がずれ、太田はそれを慣れた手つきで押し上げる。

「ぼちぼち集まってきてるから、点呼取っといてくれるか? 集合時間の十分前に一旦報告してくれ」

「はい、分かりました」

 すんなりと頷く陽希に、太田は満足そうに口角を上げて他の教員の輪に戻った。

 とりあえず、今いる生徒だけでも確認をしておこうと思ったところで、不意に隣から呼ばれた。

「稲葉くん。私、女子のほう確認してくるよ」

 同じクラスの早波だ。重たく見える黒いショートヘアを揺らした、物静かで大人しい雰囲気の彼女は、本来は数学の係を担当している。

 だが、陽希たちのクラスの数学は担任の太田が受け持っていて、数学の授業の用事も全て学級委員である陽希に回ってくる。

 彼女はそれを悪いと思っているのか、陽希が用事を言いつけられると、時々こうして手伝いを申し出てくれるのだ。

「早波さん……本当にいいの?」

「うん。そんなに人数多くないし……女子と男子バラバラに固まってるから、分けた方がやりやすいでしょ?」

 多分、人数が揃ってくればきちんと整列を促すのだろうが、今はクラスもごちゃ混ぜで、男女ともにそれぞれ仲の良い生徒と輪になっている。

(たしかに女子も俺が急に割り込むより、早波さんから声をかけてもらったほうがいいかな……)

 頼まれた仕事を押しつけるのは悪い気もしたが、ここは甘えさせてもらおう。そう思って、陽希は申し訳ないと眉を落としつつ、微笑んで頷いた。

「じゃあ、女子生徒のほうお願いしてもいい?」

「うん。任せて」

 早波は控えめに……けれど、随分と嬉しそうに笑った。そのまま体を反転させて生徒のほうに向かうかと思いきや、すんでの所でもう一度振り返った。

「あのさ、稲葉くん」

「どうしたの?」

「今日の遊園地……誰かと一緒に回るの?」

 おずおずと訊ねられて、陽希は一度大きく眼を瞬いた。そして内心にこみ上げた淋しさを隠してクスリと笑う。

「ううん。今日は一人でゆっくり回る予定。早波さんは……友達と?」

「あ、そうなんだね……そっか。ゆっくり見るのもいいもんね。うん。私は友達と一緒に回る予定なんだ」

 彼女の強張っていた肩から力が抜けていく。それがなんだか落胆しているようにも見えて、陽希は不思議そうに首を傾げた。

 どうしたのかと訊ねる前に、彼女は「じゃあ点呼とってくるね」と駆けていってしまった。

 わざわざ追いかけるほどのことでもないかと、陽希も男子の点呼に向かった。

 集合時間は遊園地の開演時間三十分前に設定されており、そう経たないうちに生徒は集合した。

 各クラスの点呼が終わってから、羽目を外しすぎないようにという形式的な学年主任の話を聞いた。

 そして少しの待機時間の末、入場ゲートが開かれる。それとともに生徒たちも自由行動を言い渡された。

 流れに押されて歩いていると、人混みの隙間から、青島のあのミルクティーの髪が一瞬見えた気がした。けれど一瞬のことで、あっと思ったときにはすでに見失っていた。少し、残念に思う。

 楽しそうに話をして散らばっていく生徒を後目に、陽希は初めて見る遊園地の景色を楽しむことにした。

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