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第6話

 火曜日と金曜日の週に二日、陽希は約束したとおり青島と一緒に帰った。

 クラスが違うので、待ち合わせ場所を決めようと言ったのは青島だった。放課後になってすぐの廊下は、みんなが揃いも揃って昇降口に向かおうとするので人がごった返す。そのため、端に寄って待っているのも厳しい。

 そこで、昇降口の横で集合しようということにしたのだ。

 西棟と東棟に別れる校舎は、真ん中に二つを繋ぐ渡り廊下が走っていて、その渡り廊下の一階には下駄箱が。二階には職員室がある。

 下駄箱に向かう途中の、その渡り廊下で待ち合わせというわけだ。特に一階は三学年が揃う下駄箱を置くために広くスペースが取られていて、その分廊下も広く、人を待つために留まっていても十分なスペースがある。

 また、廊下は日当たりを良くするためにか、床から天井までに及ぶ大きな窓が並んでいる。その窓枠は、ベンチにもなるように幅を広く取ったデザインをしていて、人を待つにはちょうどよかったのだ。

 青島のクラスの担任は話が長くなることで有名で、陽希が先についていることがほとんどだ。

 青島と恋人ごっこを初めて一ヶ月。

 六月も半分を過ぎ、数日前に梅雨入りしてどんよりした天気が続いていた。今日も朝はパラパラと雨が降っていたが、午後に入って雲が薄くなり、その狭間からは陽も差し込んでいた。

 窓際に座って、陽希はその陽差しを浴びながら青島を待っていた。

 眩しくて、陽光に背を向けるようにして廊下を行きすぎる生徒たちを見ていたが、すぐそばを通る人をじっと眺めているのも落ち着かず、不意に知らない生徒を眼が合った拍子に窓の向こうを見た。

 久しぶりに見た太陽の真っ直ぐな光は、夏に足を踏み入れたせいか以前よりも苛烈さを増したように思えた。

 初めは眼を凝らしていた陽希だが、眼が慣れてくると今度は外の景色を楽しむ余裕も出来てきた。昼まで降っていた雨のせいか、芝生はまだ湿っていて、陽に当たって表面が艶めいていて綺麗だ。

 深く腰かけ、陽希は片方の太腿を載せるようにして窓の方を向いて、生徒たちの喧噪が少しずつ小さくなっていくのを背後で感じていた。

(もうすぐ青島くん来るかな……)

 しばらく外を眺めてから再び中に視線を戻すと、あれだけぎっしりと廊下にいた生徒も半分ぐらいになっていた。

 ちらりと階段を遠目に眺めたが、まだ青島の姿は見えない。膝の上に置いた鞄の持ち手部分で手遊びをしながらソワソワと青島を待っていれば、そう経たずに眼の前に男子生徒が立ち止まった。

 俯いた視界に同じ学年を示す差し色の入った上履きとスラックスの裾が見え、反射的に青島だと思った陽希は、パッと笑顔を広げた。

「青島くん! ……え、」

 顔を上げると同時に鞄を持って立ち上がりかけた陽希だが、そこには知らない黒い短髪の生徒がいた。

 驚き、腰が引けてベンチの上を擦るように後じさる。

 困惑した顔で、その男子生徒を見上げた。

「えっと、あの……」

 青島よりもがっしりした体格は、一目で運動部だと分かる。半袖のシャツからは日焼けした肌がのぞいていて、彼の活発な印象を強くしていた。

 誰だろう、この人。

 まず同じクラスの人間ではない。かといって、全く知らないというわけでもなかった。

 どこかで見たことある、かも? ほんの微かに記憶に引っかかった。

 自分よりも大柄な生徒に顔を覗き込まれ、咄嗟に身を竦ませたものの、がっしりした骨格に浮かぶ垂れた目尻の瞳に悪意があるようには見えず、ただただ困惑が強い。

 彼は一体誰で、どんな用件で声をかけてきたのだろう。

 内心でグルグルと思い悩む陽希をしばらく観察するように眺めていた彼は、その柔らかな目許で弧を描いてにこりと笑った。

「ごめんな、急に! 知らないヤツに話しかけられても困るよな」

「いや、そんなことは……」

「俺、俊也と同じクラスの多田おおた! よろしくな」

 笑って手を差し出され、その屈託のなさに思わず握り返してしまった。

(多田って聞いたことある……しかも俊也って……)

 青島の名前が出て驚いたが、そのおかげで陽希の脳内で鮮明に記憶が引き出される。

 ――多田のやつがさ、

 おかしそうに笑って話す青島の横顔が浮かび、そこで陽希はあっと口を開けて言う。

「青島くんがいつも話してる……!?」

「お! 俺のこと知ってる?」

 嬉しそうに笑って、多田は自分を指さした。それに陽希は、こくこくと何度も頷いた。

 青島は普段は物静かで表情を変えることも少ないが、友人はちゃんといるのだ。それがこの多田だ。他にも二人いる男子を含めた四人でいつも一緒にいると女子が言っていたのを耳に挟んだ。遠目にだが、陽希自身も四人が一緒にいるところを見たことだってある。

 青島から伝え聞いていただけだった陽希は、こうして眼の前で会えていることに興奮を覚えた。

 けれど、ふと思う。

(あれ、でもなんで多田くんは俺に声をかけてくれたんだろう?)

 不思議に思って、陽希は首を傾げた。

 すると、多田は陽希の考えでも読んだように切り出した。

「俊也のやつ今週は掃除当番なんだよ。あいつやけに時計気にしてるからさ、待ち合わせしてんだろうなあって思って」

 俊也のこと待ってんだよな? と、多田にきょとりと瞬きながらほとんど確信のように言われ、陽希は頷いて肯定する。

 しかし、青島が周囲に察せられるほど時計を気にしている理由が自分だとも思えず、自信なさげに多分とつけ加えた。そんな陽希の肩を、多田はまるで励ますように大きく笑って叩いた。

「大丈夫、委員長であってるよ! あいつ、告白の呼び出しだってそこまで時計気にすることにないからさ。だから、こりゃ委員長しかいないなあって思って俺が先に来たんだ」

「そっか……」

 当然とばかりに言うものだから、なんで俺しかいないの? と訝しみつつも頷いて答えた。

(そっか。青島くんそんなに時間気にしててくれたんだ……)

 多田の言うとおり、それが陽希との待ち合わせがあるがゆえと言うのなら、陽希を待たせるからだろう。

 待たせることを悪く思うがゆえの焦りなのか。それとも、陽希と一緒に帰ることを楽しみにしているから心が急いているのか。

 後者だったらいいな。そう陽希は思った。

(……この時間を楽しみにしてるのが俺だけじゃなければいいな)

 放課後が近くなると、ソワソワして心が落ち着かなくなる。先生の話を聞くともなく聞きながら、時間ばかり気にして、五分も経たないうちに時計を見てしまうような――そんなドキドキした想いを、青島も少しは感じてくれていたらいい。

(そうだったら、すごく嬉しいのに)

 胸の内にむずがゆさを覚え、陽希の口が小さく緩む。鞄の上で両手を結んで、陽希はもぞもぞと指をすりあわせた。

 そんなほわほわした雰囲気を放つ陽希を、多田は微笑ましそうに眺めていた。その視線に気づき、ハッと我に返って陽希は慌てる。

「ごめん俺ってば、話が途中だったのに考え込んじゃって……多田くん、教えてくれてありがとう!」

「おう! 大したことじゃないから気にすんな!」窓からの陽差しにも負けないような輝かしいほどの笑みで言った多田だが、一向にその場を動く気配がない。てっきり青島のことを伝えるためだけに陽希のところに来てくれたものだと思っていたので、他にも用があるのかと、陽希は首を傾げた。

「あの……多田くん、まだなにかあった?」

「いや? 俊也がやっと委員長と話したみたいだから、俺も仲良くなりたいなって思って!」

 隣座るな、と陽希が頷くよりも早く、多田の大きな体が隣にすっぽりと収まった。窓枠に作ったベンチは大きいほどでもないので、さすがに男子が二人――しかも多田はがっしりした体格で、陽希だって華奢だが平均以上の身長がある――が座るにはいささか心許ない。

 苦しいと言うほどでもないが、二人はピッタリ寄り添うようになって座っていた。

「仲良くって、俺と? 多田くんが?」

 なんで俺? と疑問をそのままぶつけると、多田は意味ありげに笑みを深める。その眼差しが妙に生ぬるくて、まるで年長者に見守られているような落ちつかなさを感じた。

「俺も前から話してみたかったんだ。稲葉って読んでいいか? あれ、委員長の名前って稲葉だよな?」

「うん、あってるよ。俺は多田くんて呼んでいい?」

 言いながら、どことなく言いづらさを覚え、少し考えてから担任の名前が同じ「おおた」なのだと気づいた。

 そんな陽希のわずかな戸惑いに目敏く気づいた多田は、「もしかして呼びづらい?」と訊ねてくる。

「ううん。担任が太田先生だから、ちょっと違和感があっただけ」

 だから気にしないで、と言いかけたところ、陽希のその言葉を攫うように、ならさ! と多田は身を乗り出した。

「俺、多田幸基おおたこうき。幸基のほうで呼んでよ」

「幸基、くん?」

 言われるがまま辿々しく呼んでみたが、ニッコリと笑った多田が返事をしてくれたので、ほっとした。

(誰かのこと名前で呼ぶの初めてだ)

 青島と出会ってからの一ヶ月で、陽希は自分の知らなかった世界のことばかり教えてもらっている。陽希は、また一つ宝物を見つけたみたいな気持ちになって、そっと鞄の持ち手を握り直した。

 そのとき、不意に陽希は多田のある一言を思い出す。

 ――俊也がやっと委員長と話したみたいだから……

(委員長って俺のことだよね? やっと、てどういうことだろ……)

 逆ならば理解できるのだ。陽希はずっと、青島のことが気になっていたのだから

 ただ一人、同じように赤い糸が見え、そして同じように赤い糸が途切れていた人。ずっと話してみたいと思っていた。

 だが、多田が言った言葉では、まるで青島がずっと陽希に話しかけたかったように聞こえた。

(いや……でも青島くんが俺にって、そんなこと……)

 考え込む陽希の隣で、ふと多田が訊ねてきた。

「そういやさ、今度の遠足って俊也と一緒に回んの?」

「え?」

 予想外の方向から問われて、咄嗟に素っ頓狂な声が漏れた。

 陽希たちの通う高校には、毎年六月に遠足があった。各学年ごとに行き先は異なり、そこで各自自由に行動できるのだ。

 一年生の時は浅草散策だった。たしか今年は――。と陽希は行事予定表を思い出す。

「たしか遊園地だっけ?」

「そうそう。現地集合で点呼とってからは自由行動だろ? だから一緒に回るのかなって」

 もしかして遠回しにこちらの水を差すなと、釘を刺されているのかと思った。

 多田たちはいつも四人で行動しているから、ここにきてぽっと出の陽希に楽しい四人での時間を邪魔されたくないのかと。だが、太田の様子を見るにそんあ悪意は感じないし、むしろ頷くことを期待されているように見えた。きっと素朴な疑問だったのだろう。

(でも、俺はそんなこと微塵も考えてなかったしな……)

 それに青島だってどう思っているのか分からない。

 恋人ごっこと言いつつ、この一ヶ月間で二人がしたことといえば、週に二回、一緒に帰るだけだ。

(きっと、本当の恋人同士ながら一緒に回れるんだろうなあ)

 けれど、所詮陽希たちはごっこ遊びでしかない。赤い糸は繋がっていたって心は伴ってないのだ。

 青島も、せっかくなら気安い友人と思い出を作りたいだろう。

 理性ではそれがいいと分かっていても、ずんと心が重くなった。どうやら自分は青島と一緒に回りたいらしい。そんなことをどこか他人事みたいに思った。

 多田は陽希たちの関係を友人ぐらいにしか思っていないだろうし、ここで首を振ったところで変に勘ぐりはしないはずだ。

 陽希は心に湧いた淋しい気持ちを押し殺して、口のを押し上げた。

 ――俺はクラスの人と回るから。

 そう言って誤魔化そうとしたのだが、陽希よりも早く低い声が二人の間に割って入った。

「おい幸基。お前なにしてんだよ」

「お、俊也! 掃除おつかれ!」

 気づかないうちに清掃時間が終了していたらしい。いつの間に来たのか、青島が威圧感を持って二人を見下ろし、仁王立ちしていた。

「お前部活はどうしたんだよ」

「いやいや、まだ時間に余裕あるから大丈夫だって」

 どうして随分と渋い顔で多田に詰め寄る青島。しかし、多田はそんな青島にも構わず、鋭い視線を躱すようにへらりと笑っている。

「でもそろそろ時間だろうが。さっさと行けよ」

「なんだよ、ケチだな。お前が気にしてたから、俺が先に伝えに来てやったんだぜ?」

 な、稲葉? とこちらに話を振られ、陽希は驚きつつも咄嗟に頷いた。

「そうなの。幸基くんが、青島くんが掃除当番で遅くなるって教えてくれて……」

「そうそう。俺、べつに変なことは言ってねーぞ? と、おっと……さすがにそろそろヤバいから俺行くわ! じゃあな、俊也、稲葉」

 腕時計に眼をやって、多田は慌てたように立ち上がって正面の青島を押しのけて駆け出した。ニコニコと手を振られて、陽希もそれに振り替えした。もしかしたら、青島が来るまで気を遣って一緒にいてくれたのかもしれない。

 靴を履き替えて外に出るまで、多田は二人に何度もじゃあなと声を張っていた。賑やかに去って行く多田の姿が見えなくなると、青島は難しい顔でずいと身を乗り出した。

「あいつ、ほんとに変なこと言ってなかったか?」

 急に距離が近くなって、ドキリと陽希の胸が驚きで鳴った。変なこと? と首を捻りながら

「とくに言ってなかったよ?」

 と答えれば、青島はまだ納得しきっていない様子だったが、そうかと低く呟いてとりあえずは引き下がった。

(変なことって言うか……)

 と、陽希は自分の中の浮かんだ疑問を思い出す。やっと、と言っていた意味を聞き忘れてしまったな。とは思った。けれど、青島本人直接訊くのもなんだか躊躇われる。

 その一瞬の陽希の迷いを、青島は多田になにか吹き込まれたからだと思ったらしい。

「やっぱなにか言われたんだろ?」

 と、再び必死な顔で顔を寄せてきた。よっぽど聞かれたくないことでもあるのだろうか。陽希はそんなことを思う。

「ほんとになにも言われてないよ? 掃除当番だって教えてくれて、そのあとはちょっと話してくれてただけで」

 ただ陽希は気にかかったことがあった。それだけで他は特別変だと思うようなやり取りはなかった。今度こそ真っ直ぐに見つめていうと、青島はわずかに疑いつつも怯んだようだ。ぐっと口を引き結んで深追いはやめたが、それでもどこか不服そうだ。子どもが拗ねているようにも見えて、陽希は微笑ましいような温かい気持ちになる。

「なら、なんで名前で呼んでんだよ」

「名前?」

 ぽつりと落ちた彼の呟きに眼をしばたたかせる。すると、途端に青島は罰が悪そうに眉をしかめて「なんでもない」とばかりに首を振った。

 陽希が訊ね返す前に、行こうぜと促されてしまったので、慌てて鞄を持って隣に並ぶ。

 服装は緩く崩れているのに、ピンと背筋の張った青島の姿をちらりと横目に捉えて陽希は思った。

(遠足のこと、訊いてみようかな……)

 思い出すのは多田の問いかけだ。彼が陽希に確認をとるということは、彼ら四人が一緒に回ると約束しているわけではないらしい。

 それならば、陽希が先に声をかければ、先手必勝――ではないけれど、一緒に回ることは出来ないだろうか。

 もし、それで青島が一緒にいようって言ってくれたら……そうしたらすごく嬉しい。

 けれど、そこまで考えたところで、理性が制止をかけてきた。

 今だってこうして時間を作ってもらってるのに、高校生活で三度しかない遠足の機会も奪うの?

 青島は友人と一緒に行くつもりかもしれない。それなのに陽希に誘われては、恋人ごっこと称しているからには付き合わねばと思って、友人との思い出を諦めてしまうかもしれない。

 青島は優しいから、そういうこともあり得る。

(やっぱり訊くのはやめよう)

 もし青島のなかで少しでも陽希と回る想いがあるのなら、彼から声をかけてくれるはずだ。そうしたら、言葉に甘えて少しだけでも一緒にいてもらおう。

 よし、と内心で意気込み、陽希は気を取り直して青島と帰路につく。

 隣を歩きながら、こうして一緒にいられるだけで幸せなんだ。と陽希は改めて実感した。だからこれ以上望まなくたって、いいじゃないか。

 今だって十分幸せなんだから。

 芽を出しそうになった欲を、陽希はそっと心の奥底にしまい込んだ。

(しょうがないよ。俺たちはごっこ遊びだもん……)

 しょうがない。しょうがない。心が軽くなる魔法の言葉を、陽希は内心で何度も唱えた。

 しょうがないんだ。言い出したのは青島だが、きっと彼にとってはこのごっこ遊びも所詮は遊びの一つに過ぎないんだ。こんなに毎日心揺らいで、楽しかったり淋しく思ったりしているのは陽希だけだから。

 いつだって一人でいることが当たり前だった。それが、こうして誰かと一緒にいる可能性が頭に上がる。それだけでもすごいことだ。

(だから淋しいなんて思ったらダメ……)

 繋がった赤い糸を見て、彼を遠く感じてしまうことを淋しがったりしたらいけない。もっと一緒にいたいなんて、そんな欲張ったりしたらいけないんだ。

 楽しいはずの下校時間、どこか浮かない心の内を、陽希はそうやって戒めていた。

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