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第4話

 陽希たちが家に着いた頃には、すっかり日も暮れていて、玄関灯のぼんやりとした光に出迎えられた。

 母から「夕飯はどうする?」と声をかけられたが、会場で手持ち無沙汰に料理をつまんでいたので、さほど空腹はなかった。

 「お腹すいてないから大丈夫」と一言返し、陽希は二階の自室に引き上げた。

 翌日の日曜日も、いつも通り食事のときだけリビングで顔を合わせ、それ以外はテストの復習がしたいと理由をつけて部屋に戻った。

 しかし、いざ教材を机に広げてみたってなんにも頭に入ってこない。

 視界に赤い糸が入る度に、繋がった当初の高揚感もきらきらした心の弾む感覚もどこかへ行ってしまって、今はただ後悔と恐怖だけが陽希の胸を占めていた。

(もう二日も経ってる……青島くんは、気づいてるよね)

 自分の糸が誰かに繋がっていることを、彼はどう思っているだろう。

 驚いた? 怖がってる? 喜んでる?

 どんな反応をするのか全く想像がつかない。だって陽希は、青島のことをなにも知らない。

 いつだって遠目に彼のことを――青島の赤い糸を眺めていただけだから。

(嫌われたくないな……)

 そんな勝手なことを思ってしまった。彼がどんな人間なのか知らないくせに、おかしな話だと思う。だが、この一年で一方的に仲間意識を芽生えさせてしまったせいか、もし青島にまで拒絶されてしまったら、陽希は今度こそ自分が一人ぼっちになってしまう気がした。それが怖かった。

 恐怖を覚える裏で、理性が言っていた。そんなことがなくたって、とっくに一人ぼっちだ、と。

「謝ろう……青島くんに謝らなきゃ」

 どうせ学校に行けば、青島には糸の先にいるのが陽希だと分かってしまう。必然と、赤い糸の変化も陽希のせいだとわかるはずだ。

 なら、正面から謝るしかない。

 自業自得だと分かってはいながらも気が重い。

 こんな最悪な出会いをするのなら、さっさと声をかけてみれば良かった、なんて後悔するほどには。

 結局、その日はたいして勉強に身は入らず、嫌な想像ばかりがあれこれ浮かんでなかなか寝付くことが出来なかった。

 眼を覚ませば、どうやら携帯のアラームは何度目かのアラームだったようで、飛び込んで来た時刻に二度見して陽希はベッドから飛び出た。

「いつもより二十分も遅い!」

 普段から人混みを避けるように早めに登校しているため、今の時間でも朝のホームルームには十分間に合う。けれど、習慣とは体に染みついているもので、いつも通りに行かないと自然と焦りが出てきてしまう。

 制服に着替えてバタバタと慌ただしく階段を下りていけば、廊下で母とばったり会ってしまった。ちょうどキッチンから出てきたところらしい。

「おはよう、今日は遅かったのね」

「あ、うん。寝坊しちゃって」

「そう……ご飯出来てるから食べちゃいなさい」

 陽希が頷けば、母は踵を返してまたキッチンに戻っていった。突然の母との邂逅に身を硬くしていた陽希も、後に続いてリビングに向かって朝食にありついた。

(遅かったって言ったって、べつに声をかけてくるわけでもないもんね)

 多分母は、陽希の登校時刻だって把握しているか分からない。だから遅いと言いつつも起こしに来るようなことはしないのだ。

 父はすでに家を出てしまったらしく、姿は見えなかった。

 手を合わせてから食べ始め、ふと陽希は疑問に思った。母はさっき、どうして廊下に出てきたのだろう。

 なにか用があったはずなのに、陽希と会うとそのままキッチンに戻っていたことを思い出す。

 ちらりと後目に母を捉えたが、彼女はこちらに背を向けて父のものと見られる食器を洗っていた。

 ◆

 帰りのホームルームを終えると、生徒たちは散り散りにクラスを出て行く。

 一日が終わる開放感からか、どこかみんなリラックスして楽しげだ。そんな中、陽希は俯き考え込んでいた。

(放課後こそ青島くんのところに行かないと)

 今日一日、逃げるように教室に引きこもっていたけど、さすがにこのままではいけない。

 よし、と内心で意気込んで鞄を持つと、やけに重たく感じた。人波に揉まれて廊下を進み、五組の前で中の様子を窺う。

 どうやら陽希たちのクラスのほうが、終わるのが少し早かったようだ。ちょうど陽希がついたタイミングで、教室の扉が開かれて教師が外に出てきた。そのすぐあとに、室内のざわめきが大きくなった。

 その喧噪を前に鞄を胸の前で両手で抱き、陽希はごくりと喉を鳴らす。緊張で吐きそうだ。

 生徒たちがわらわらと廊下に流れ込んできて、緊張と人混みで眼がクラクラした。くるりと体を反転させて窓のほうを向き、外の景色を見て息を整える。最後に胸元で鞄をぎゅっと抱いて、体を丸めるようにして眼を閉じた。どうにか緊張を静め、再び勇み足で振り返ろうとしたときに背後から声をかけられた。

「おい、お前」

 聞き覚えのある声にギクリとして硬直した。まさかと思ってそろそろと振り向くと、予想通り、そこには鞄を片手に陽希を見下ろす青島がいた。

 まさか、あちらから声をかけられるとは思っておらず、咄嗟に声が出てこなかった。あれだけ頭の中でいろいろと考えていたのに、なにもかも吹っ飛んだ。

 固まって青ざめる陽希を、青島は怪訝そうに眉を寄せてもう一度陽希を呼んだ。

「どうした? お前、具合でも悪いんじゃ」

「ご、ごめんなさい! けっして悪気があったわけじゃなくて……!」

 相手に言われる前にと、青島の言葉尻を攫うようにして謝罪を口にした。真っ白になった頭でただただ謝罪を繰り返した。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

 申し訳なさと居たたまれない恐怖で鞄を抱く腕に力が入る。そのまま首をもたれて陽希は泣きべそをかいて言い続けた。

「おい……お前、なにに謝って」

「あか、赤い糸、勝手に触って……ごめんなさい」

 辿々しくもなんとか赤い糸のことを告げた。

 自分の至らなさにやるせない思いでいっぱいだった陽希は、困惑した青島の呟きを聞き逃した。

(ああ、どうしてこうなっちゃったんだろ)

 本当ならちゃんと順序よく話をして、丁寧な言葉で誠心誠意、謝るはずだった。寝る前にベッドの中で練習だって何度もした。

 それなのに自分の口から出てくるのは、説明もないような単語だけ。

 陽希の言葉を聞いた途端、青島は息を飲むと「糸……?」と呟きながら陽希の鞄を抱いた手に眼を落とした。そうして伸びた糸に気がつくと、思わずとでも言うように、やや乱暴に陽希の手を取った。捻るように腕を引かれ、その痛みに我に返った陽希は、そこでようやく謝罪をとめた。

「お前! これ、いったい誰と繋がって、」

 驚いた青島が切迫した様子で訊いてきたが、彼の瞳が陽希の糸を辿っていくと同時に言葉も尻すぼみになった。そうして、陽希の糸が自分の指につながっているのを確認したところで、青島は呆然と「おれ?」と小さく呟いた。

 きょとりと呆けた子どものような彼の声に、思わず陽希も眼をしばたたかせる。なにかがおかしい。ここで初めてお互いに話が噛み合っていないと気づいた。

 顔を見合わせた二人は、丸くした瞳でお互いを映す。どちらからともなく、体から力が抜けていった。

「えっと……糸のことじゃないの?」

 てっきり責め立てるために声をかけられたと思っていた。どういうことだ、と開口一番に問いただされるものだとばかり。

 それなのに青島は、今しがた糸に気づいたようにして二人の間をつなげる糸を凝視すると、よろめくように一歩退いた。

「俺と、稲葉の糸がつながってる……?」

 まるで信じがたいものでも見たように虚ろな声だった。

 思っていた以上の彼の狼狽っぷりに、陽希の肩身がさらに狭くなる。

(まさか青島くん……俺とつながってるって気づいてなかったの?)

 よく考えれば、青島からすると赤い糸が伸びているだけでその先が陽希とまでは分からないはずだ。しかも、彼と陽希はクラスも違ければ、陽希は今日一日、自分の教室に引きこもっていたのだから。青島が陽希を眼にする機会がまずほとんどない。

 それじゃあさっきの謝罪の嵐は、彼からしたら全く意味の分からない言動だったのか?

 と、気づいた陽希は、今度は別の意味で血の気が引いた。

 廊下には生徒たちの流れが出来ており、みんな陽希と青島の様子を窺いながら通り過ぎていく。

 青島に手を取られたままの不自然な格好だったが、周囲の眼に気づいた青島はパッと陽希の腕を解放し、「ついてこいよ、話があるんだろ」と背中を向けた。

「う、うん」

 そんな早急な彼の動きには、有無を言わさぬ様子があった。律儀に頷いてから陽希もその後に続いた。

 人波に乗って一階まで降りてきたが、青島は真っ直ぐ昇降口には向かわず、生徒たちの流れから逸れた。慌てた陽希も隙間を縫うようにして人混みから抜け出す。

 一階には保健室や各教科の準備室があり、基本的には係や委員会に属さない限りは用のない場所だ。

 そして、青島に倣って進んだ先――校舎の一番隅には、無地のままのプレートが掲げられた空き教室があった。

 青島は躊躇いもなくその扉を開けて中に入っていくので、もしかしたら何度も勝手に利用したことがあるのかもしれない。

 普段優等生な陽希は少しドキドキしながら扉をくぐった。

 昼間とはいえ電気の点いていないカーテンの締め切られた教室は薄暗い。使われていないからか、埃っぽいこもった匂いが鼻腔に広がった。

 まっさらな黒板に沿うように教室の前方にはいくつかの机がまとめて置かれていて、その机の上には、文化祭や体育祭などの行事で使うと思われる道具がまとめられていた。

 青島は教室の窓辺に近づくと、窓枠に手を置いて寄りかかるようにして悠然と陽希を振り返った。

 暗い室内で、カーテンの隙間から陽光がさすと、彼の髪はより明るく輝いて見えた。陽希たちが踏み入れたせいで低く舞う埃にも陽が当たって、きらきらと小さく光っている。

 陽希は、ちょうど青島の正面――少し離れた所で立ち止まった。内心の不安を隠すように鞄を持つ手に力を入れた。

「……お前、これが見えるのか?」

 口火を切ったのは青島からだった。「これ」と左手の小指を折り曲げて見せたので、陽希は小さく頷いた。

 まさかそこからとは思っていなかったが、当然と言えば当然かもしれない。

(青島くんからしたら、俺のことなんて知らないだろうし……)

 自分の中では当たり前すぎて、まず陽希が見えることを知らない……という可能性が、すっかり抜け落ちていた。

 青島は陽希の頷きに驚いたのか、少しの間黙り込んでいた。やがて、口にすることを躊躇うように「俺も、昔からこれが見える」と苦い顔で言った。

 いつも静かな横顔ばかり見ていたが、初めて感情らしいものが浮かんだ彼の顔に僅かに驚く。それが、赤い糸に対して良い考えを持っているようには見えなかったからなおさら。

「……俺の赤い糸は途切れてた。でも、先週の金曜……教室で寝てて起きたら糸が伸びてた……お前がなにかしたのか?」

 自分の赤い糸を見下ろしていた青島の薄い虹彩が、どうなのかと追討するように陽希を捉えた。ドキリとして思わず身が竦む。

 低く向けられた声は、怒りを示しているようには見えない静かな響きだ。

 緊張でからからに乾く喉で、陽希はごくりと唾を飲み、己の胸元で自分の左手をそっともう片方の手で包んだ。

「おれも、赤い糸が途切れてたんだ……それで、青島くんの糸が切れてることも知ってた。先週の金曜は、たまたま教室で寝ているきみを見つけて起こそうと声をかけようとしたの。……あっ! でも、その時は青島くんだって気づかなくて……!」

 本当なの、と陽希は震える声でつけ加えた。言っている自分ですら、並べていて言い訳がましく感じた。

 それなのに青島は、嘘だろうと疑うような声も視線も陽希には向けなかった。

 むしろ、だろうなとばかりに同意を示すように嘆息し、体から強ばりを解く様子に陽希は首を傾げてしまう。まるで陽希が悪意を持ってなにかをするとは思っていないような態度に不思議に思う。だって彼は陽希のことをなにも知らないはずなのだから。

 しかし、説明が途中だったことを思い出し、疑問は頭の隅に置いた。それよりも今は彼に理由わけを説明しなくてはならない。

「近づいたときに、青島くんの指が眼に入って……その、出来心というかなんていうか、先のない糸が二つあって、それで……これをつなげたらどうなるだろうってそのとき思って」

 なぜあんなことをしてしまったのか、陽希は自分でもハッキリとは分からなかった。ただ、途切れた二本の赤い糸を見ていると、不意にそんな考えが浮かんで、それについて悩む前に頭がいっぱいになって動いてしまっていた。

 冷静だったら、きっと他人の糸に触れるなんてしなかった。

 あのときの自分はおかしかった。明確に言葉に出来なくて、自分の胸にもどかしさが残る。

「出来心……? これが……?」

 喘ぐような陽希の罪の告白に、途端に青島の空気が一変した。ヒリつくように緊張感を孕んだ雰囲気に、陽希は自分の軽率な言葉を悔やんだ。

「違うんだ! たしかに突発的なことだったけど、俺にとっては軽い気持ちじゃなくて」

「でも、自分のことしか考えてなかったのは本当だろ?」

 その言葉と鋭い眼差しが陽希に深く突き刺さり、言葉をなくした。

 たしかにその通りだと思った。

 あの時、陽希はきっと自分のことしか考えていなかった。この糸が結ばれて、自分の赤い糸が誰かとつながっている姿を見てみたい。一瞬でいい。自分の中に愛情があると、嘘でも夢でも良いから感じたかった。――そうすれば、長年自分の胸にくすぶる淋しさが消えてくれる気がした。

 ただ、自分が楽になるためだけに、陽希はあの瞬間動いていた。

 図星を指され、自分の浅ましさが恥ずかしくなった。自然と俯いてしまい、体が震える。さっきまで、なんだかんだと陽希に対して怒りもしなかった青島から、急に敵意を向けられて衝撃だったというのもあった。

「はは、やっぱりな」

 俯く陽希に、青島は嗤った。

「糸のつながってないヤツなんて、やっぱりろくなヤツはいないんだな。自分勝手で、他人のことなんか考えもしない。だから愛し合える人間だって与えてもらえない」

 忌々しそうに吐き出される言葉は、まるで呪詛のようだった。陽希だけでなく、青島自身にもかかる言葉でそうなじるから、陽希は呆気にとられて茫然とした。

「お前も、そういうヤツだったんだな……」

 嗤っていた彼は、最後に口惜くやしいとでもいうように顔を歪めた。

 不意に陽希は、彼が泣き出すんじゃないかと思った。色素の薄い青島の瞳に切ない光が宿った気がして、思わず一歩、駆け寄ろうと足が前に出た。

 でも半端な理性が邪魔をして、そこで立ち止まってしまった。

(きみはなにを残念がってるの)

 内心で問いかける。陽希は自分が知らぬ間に、彼にとっての希望のような輝かしいものを穢してしまった気分になった。

 理由のない罪悪感に近いものが胸にこみ上げてきて、どうにかしてあげたくなった。だが、彼がなにに悲しんでいるのか分からない。彼は一体、なにを残念がっているのだ。

(……もしかして)

 不意に思い至った。

 青島は、もしかしたら赤い糸がつながったことが嬉しかったんじゃないだろうか。しかし、蓋を開けてみれば陽希が勝手に結んだ事故のようなもので、彼はそれにがっかりしているのではないか?

 陽希だけでなく青島自身も貶すように吐き捨てた言葉は、どこか言い聞かせているようにも聞こえたじゃないか。

 もしかしたら陽希が結んだ糸は、彼の中に刹那の希望を抱かせてしまったのかもしれない。

(それなら、俺はなんてひどいことをしてしまったんだろう)

 先ほどまでの比ではないほどの後悔が身を襲った。万が一青島が、陽希のように糸がつながる相手を求めていたのなら、自分はこの三日間、どれだけ彼のことを振り回したのだろう。

 自分の立場に置き換えて考えた。

 ある日突然赤い糸がつながれば、陽希はきっと喜び涙を流すだろう。いるかも分からない神さまに祈りを捧げるかもしれない。そんな歓喜のあとに、それが誰かの手によってもたらされた偽りだったと知らされたなら――。

 そうしたら自分は、くじけてもう二度と立ち直れないかもしれない。

 ひどい後悔と自己嫌悪が身のうちからこみ上げ、じわじわと目尻に涙が浮かんだ。眼球がじんと痛み、瞬きとともに頬を滑っていった。

「っ、青島くん」

 やっとの思いで呼びかけ、しかしその陽希の言葉を遮るように青島が叫ぶ。

「だってそうだろう!? 結局お前は、ただ出来心で、遊び感覚でほいほい糸をつなげられるような人間だったんだから……!」

 どうしてきみが辛そうに言うのさ。そう思いつつ、陽希は咄嗟に「違うよ!」と叫び返していた。

 青島を傷つけたのは紛れもない自分だ。だから彼の言葉は全て受け止める。そう覚悟していても、遊び感覚でと言われてつい言い返してしまった。

 つんざくような陽希の必死の叫びの声に、青島が虚を突かれたように眼を瞠って驚いていた。

 ただ大きい声にビックリしただけじゃない。陽希がそんなに声を荒げることを意外に思っているようだ。

「ちがう。違うの……違うんだよ」

 俯いたまま、陽希は否定の言葉を繰り返した。子どもの癇癪みたいにゆるゆると首を振ると、目尻に溜まっていた涙がぽろぽろと散った。

「そんな軽い気持ちで糸に触れたりしない! そんな軽い気持ちで、糸をつないだりしてない! たしかに俺は青島くんに迷惑かけたし、これは俺のせいだよ。分かってる。分かってるけど……だけど、きみだって、俺がどれだけ赤い糸の先を望んでたかなんか知らないだろ!? 誰かを愛したい。誰かに愛して欲しい。どれだけそう思って来たかなんて知らないだろ!?」

 しょうがない――魔法の呪文で作った自分の張りぼてが崩れていく。知らない振りをしていた感情は簡単に顔を出し、陽希自身が頭で認めるよりも前に言葉になった。

 ここまで大きい声を出したのは初めてで、呼吸が上手く出来ていないのか、心臓がひどく激しく動いているのが分かった。握りしめた両手が、爪が食い込んで痛む。

(そうだ、俺は誰かに愛して欲しかった……)

 赤い糸がつながっていれば、今は周囲の人に、家族に愛されていなくたって、いつか愛し合える人に出会えると思えたはずだ。なのに、陽希にはそれすらない。

 あんなふうに人を傷つける祖父にだって、糸の先には本当に愛し合える誰かが居るのに、それすら陽希にはいないのだ。縋れる希望がなにもない。

 スンと鼻を啜りながら濡れた頬を拭い、陽希は吐き出して幾分か冷静になった頭をゆっくりと下げた。

「急に大きい声だしてごめんなさい。勝手に糸に触れてごめん。さっき出来心って言ったのは、俺の言葉選びが悪かった……でも、遊び感覚なんかじゃなかった。それだけ分かって欲しい。俺はずっと、誰かと愛し合える人たちが羨ましかったから……」 下げた頭の向こう。青島は静かに陽希の言葉を聞いてくれていた。

 ――今度、結婚するの!

 頭に浮かぶのは隣り合って微笑み合う男女の姿。二人を結ぶ、小指の赤い糸。

 どうして、陽希だけ誰とのつながりもないのだろう。

「俺は人を愛せなくても、人から愛されなくてもしょうがない。そう分かっていても、自分の赤い糸を見る度に、世界から切り離されてるみたいで、一人ぼっちで淋しかったから……」

 ゆっくりと姿勢を戻して、陽希は自嘲するように笑った。

 でも、結局それは、青島の言うように陽希の都合でしかない。

 他人を不快な思いにさせていいわけではない。

 青島はそんな陽希の情けなさに呆れているのか驚愕してるのか。まるで異端者でも見るような不躾さで、まじまじと陽希を見ていた。ひどく衝撃を受けているみたいだ。

「ごめんなさい。こんなこと言っても、きみに迷惑かけたことには変わらないよね。本当にごめん。きみの大事なものに勝手に触れて、ごめんなさい」

 謝罪の言葉を口にするごとに、自分がどれだけのことをしたのか、まざまざと見せつけらている気分になった。

 また視界が潤みだして、俯いて誤魔化した。これ以上、青島の前でみっともないところを見せたくなかったのだ。

 膝の上で揃えられた自分の左手から赤い糸が伸びている。視界に真っ直ぐに線を引くように伸びたその先には、当たり前だが正面の青島がいた。

 軽率な行動を後悔しているくせに、それを見ると、反射的に陽希の胸には温かなものが湧き上がってしまった。

(本当に俺って、どうしようもないやつだな……)

 偽物の虚像で、こんなふうに喜んで――。こんな陽希だから、神さまは赤い糸の相手を与えてくれなかったに違いない。

 自罰的な思考に沈む陽希だったが、ふと青島の口が囁いた。

「俺だって、あの時は軽い気持ちじゃなかったよ……」

「えっ?」

 ぽつりと落ちた言葉は随分小さくて、ハッキリ聞こえなかった。見ると、青島は寄る辺ない子どものように表情を曇らせていた。まるで遠くを見るように瞳が揺れていた。だが、陽希と眼が合うとハッとした様子で気を取り直し、一瞬でそれらの感情は霧散してしまう。

「……もう謝らなくていい」

 見られたことが気まずいのか、青島は眼を逸らしたまま言った。素っ気ないけれど、存外穏やかな空気を纏った言葉だ。 戸惑いがちにおろおろとして見つめていると、そんな困惑した陽希に青島はとうとう吹き出すように笑った。

 くつくつと小さく笑う姿に、陽希は困惑しっぱなしだった。

 さっきまであんなに怒ってたのにどうして?

 謝罪を受けて気が済んだ。そんなふうには思えなかった。

「あのさ、今はどうしたらいいか分からないけど、元に戻す方法、見つけるから……」

 尻すぼみで言う陽希に、「べつにいい」と青島はその提案を断った。にべもないような冷たいものじゃなくて、本当に気にしてないとでもいうようだ。

(青島くん、本当にどうしたんだろう……)

 益々、陽希の困惑が強まった。

「でも、それじゃ……」

 戻し方は分からない。だが、その言葉に甘えるのは気が咎めた。戸惑う陽希をよそに、青島が呟いた。

「一人ぼっちで淋しい、か……」

「……青島くん?」

 愁いを帯びた表情に、つい不安になって名を呼んでしまう。

「今は?」

「へ?」

 視線が陽希に戻ってくると、急な問いかけられた。突然だったから、陽希は間抜けな声を出して眼をしばたたく。

 すると、青島はふっとおかしそうに笑った。柔らかい彼の表情には清々しさが見え、晴れた笑顔に陽希の胸がコトリと音を立てた。

「今は? 糸がつながってみて、どう?」

 自分の顔の横で小指を立て、青島は手を振って見せた。わずかな振動が、赤い糸を通して陽希にも伝わる。

 彼の手から自分の手へ――赤い糸を辿るように視線を何度か動かし、陽希は脳内で問いかけを繰り返した。

(赤い糸が、つながってみて……)

 自分の左手を胸元にたぐり寄せ、そっともう片方で包み込んだ。形のない温かなもの。だが、たしかにそこに存在する赤い糸を請われないよう繊細に。

 触れたって分からないのに、体の中心からぬるま湯のような温もりがじわじわと広がってきた。

「糸を見て、その先にいる青島くんのことを思ってたよ。どうしてるかな、気づいたかな。怒ってるかな。どうやって謝ろうって……俺、休みの日っていつも勉強したり本読んだりして、適当に時間を過ごすだけだったけど……その日はなにも手がつかなくて。心が忙しかった」

 でも、なんだか生きてるって気がしたよ。

 とつけ加えた。

 胸元に添えた手から、自分の鼓動が分かる。それは、絶えず陽希と共にいたくせに、今まではただ消費するだけの日々だった。

 この鼓動が、彼に伝わっているかもしれない。もしかしたら、今感じている鼓動は、青島のものなんじゃないか。

 たかが心音一つで誰かの存在を感じられるなんて、知らなかった。温かい気持ちに、陽希は自然と微笑んでいた。

「あ、ごめんね! 糸が一つになっただけで、大袈裟だよね! でも、淋しくなかったのは本当なの! 青島くんて、すごく人気者だし、いい人なんだろうなあって。だから、青島くんと赤い糸がつながって、自分もそんな人間になれたみたいで……すごく、温かかった」

 普段はクールに見えていても、彼が女子生徒の呼び出しを断ったことがないのは知ってる。

 盗み聞きしていた陽希に釘を刺したのだって、相手の生徒のことを思ってだろう。

「俺はそんな大した人間じゃない。俺にとっては、むしろお前のほうが……」

「俺? 俺がどうかした?」

 青島は考えるように一度黙り、すぐに「いや」と憑きものが落ちたような顔で笑って首を振った。

「赤い糸、このままでいいよ。お前に不都合がなければだけど」

「そりゃ、不都合なんてないけど……」

 どうせ陽希の糸が誰かとつながることなんて、この先もあり得ないことだ。

 どうしてそんなことを言うのだろう。不思議に思った陽希は、当惑して眼を向ける。すると、青島は窓枠から離れおもむろに近づいてきた。それに従って、赤い糸も短くなっていく。

 眼の前に立たれると、背が大きい分だけ圧迫感を覚えるが、怖いとは思わなかった。

 歩幅一歩分の距離を、青島はゆっくりと腕を伸ばして陽希の小指――赤い糸の付け根を躊躇いがちに指先で触れた。

「あ、あの、青島くん?」

 触れ合った指と青島の顔とを、動揺して交互に行き来させている陽希と違い、青島はじっと二人の触れ合った手を見ていた。

 指先を撫でられたと思えば、そのままするりと手のひら同士を触れ合わせるように二人の手が結ばれた。陽希の手は、青島の大きな手に簡単に包まれてしまった。

(あったかい……)

 心臓が手のひらにあるんじゃないかと錯覚するほど、鼓動が大きくなった。

 この拍動は陽希のもの? それとも、青島のもの……?

 誰かの体温をこうもしみじみと感じるのは、初めてな気がする。

「なあ稲葉……」

 青島の体温に陶然としていた陽希は、呼びかけられてハッとした。慌てて彼に眼を向ければ、青島はちらと陽希を見て、そうしてどこか緊張したようにこくりと唾を飲んだ。

「……運命の恋人ごっこ、でもしてみるか?」

 放心とはまさにこのことで、陽希は窺うような青島の眼を見返し、眼を瞬かせた。

「……恋人ごっこ?」

 どうして青島がそんなことを言うんだろう。

 意図が分からなかった。でも、そっと触れ合った手も、見つめてくる瞳にも、からかいや嘘はないように見えた。

「そう、恋人ごっこ。どうせ俺たち二人とも、誰かを愛せることも愛してもらうこともないなら、ちょっとしたごっこ遊びぐらい、いいだろ?」

 これは陽希にしか利がない話だ。なのに、どこか青島のほうが必死そうだった。

 今まで、他人に頼られて、刹那的な愛をつなげてなんとか生きてきた。

 ほんの少しの間だけでもいい。もし、青島と愛し合うような真似事でも出来たなら、その思い出はより長く陽希の心を生かしてくれるんじゃないか。

 そんな希望が眼の前に降ってきて、陽希は思わず頷いてしまった。

 頷くと、どうしてか青島がほっとした顔をする。

 べつに陽希たちはお互いを愛し合ってるわけじゃない。けれど、はたから見ると告白みたいだな、とぼんやり思った。

 そんなことを思ったからか、夕日のせいだと分かっていても、青島が頬を染めて安堵しているように見えてしまって、陽希はドキドキした。本当に恋でもしたみたいで、陽希は沈黙が気恥ずかしくなった。

「こ、恋人って言ってもさ、なにするの?」

 焦って出た言葉だったが、本心でもある。陽希は一度だってそういった関係を築いたことがないから、どうしたらいいのか分からない。けれどそれは、青島も同じようだ。

「あー……なんだろ……一緒に帰るとか?」

 考えるように髪をかき分け、やっと出てきた彼の言葉に、陽希は「なるほど」と頷いた。

 ◇◇◇

「青島くんて、自転車なの?」

「ああ。歩くと距離あるからな」

 先導する青島に着いていった先は、校門脇の駐輪場だった。

 さっきまで空き教室でお互いに声を荒げたりしていたのに、どうしてこうなったんだろう。まだ混乱していて心がついていけていない部分もあったが、一方では今の状況にドキドキしている自分がいた。

 誰かと一緒に帰るなんて初めてのことだ。

 青島は手前の列から一台の自転車に近づいた。それを取り出す姿を、陽希は邪魔にならない位置で見ていた。

「あれ、稲葉は歩き?」

「うん」

「じゃあ家、近いのか」

「……えっと、歩いて二十分ちょいぐらいかな」

「え、なのにチャリじゃねーんだ」

「……うん」

 徒歩で学校に来るのなんて、よほど家が近い地元の人か、電車通学で最寄り駅から歩いてくる生徒ぐらいだ。

(まさか家にいる時間を少なくしたいから、なんて言えないよね)

 自転車を押して校門に向かいながら、青島は「二十分ちょいか……」と悩むように呟く。

「あの、時間かかっちゃうし、今日は別々にしよう」

 わざわざ自転車を押して付き合ってもらうのも悪い。今日は、なんて言いつつ、陽希は徒歩で青島が自転車なのは変わらないんだから、一緒に帰ることはこれからもないだろう。

 楽しみにしていた手前、少し残念だった。

 青島は陽希の提案に頷いてここで別れると思った。だが、彼はなにを思ったのか顔を上げると

「家って、駅のほう? それとも住宅街?」

 と、陽希を振り返って訊いた。

「えっと、住宅街のほう」

 校門を出て右に向かうと、駅に向かう賑わった通りに出て、左には閑静な住宅街が広がっている。陽希の答えを聞いた青島は、「ならいっか」と独りごちて自転車を跨ぐと、不意に親指で背後を示す。

「乗って」

「え、後ろに?」

「そう。悪いけど、今日は時間なくて歩けないから」

「それなら、気にしないで! わざわざ送ってもらうほどじゃないし」

 第一、自転車の二人乗りはダメだよ。そう言って断ろうと後ずさった陽希の手を取り、「ほら、早く」と青島は強引に引き寄せる。

 自分から言い出した手前、反故にするのは気が引けたのだろうか。

 よろけるように勢いのまま荷台に手を置けば、「乗った?」とすぐに確認の声がかけられた。

「え、うっ、うん」

 つい咄嗟に、荷台に腰を下ろしてしまった。

 ハッと気づいて下りる前に、青島が自転車をこぎ出してしまう。急に揺れるから、バランスを崩した陽希は、慌てて眼の前の青島の腰に手を回した。

 背中にもたれるように体を密着させれば、制汗剤の爽やかな匂いが陽希の鼻についた。

「なあ、大通りまで行く?」

 自転車を漕いでいるからか、風に攫われないように青島が声を張った。陽希も、ここまで来たらと素直に答えた。

「ううん。その手前を曲がって、住宅街をしばらく真っ直ぐ」

「オッケー! ……大通りまで行かないならこのままでいっか」

 ぽつりとそんな独り言が風に乗って聞こえ、大丈夫なのかな? と不安になる。誰かに見られやしないかと周囲を見渡してみたが、幸いに人影は見えない。

 ドキドキしてるのが、いけないことをしているからか、それとも青島と触れ合っているからなのか、分からなかった。

 ただ、彼の前に回した手のひらから、青島の心臓もドキドキしているのが分かって、緊張しているのは自分だけじゃないんだ、と少し嬉しくなった。

 頬を、ほのかに冷たさを孕んだ夕暮れの風が撫でていく。泣いたせいか、涙の跡にしみるような感覚がした。

 青島がペダルを漕ぐ度に、キイキイと金属音がかすかに響いた。硬い荷台に落ち着けた腰は、座り慣れていないせいかだんだんと鈍い痛みを訴えたが、それも新鮮な心地で受け入れられた。

 不意に横を向くと、一つになった大きな影が地面に伸びていて、その上を撫でるように赤い糸が揺れていた。

 それを見ているうちに、陽希はふと泣きたくなった。

 ぎゅうと腕の力を強め、掴まった背中に額を押し当てるように項垂れると、青島の体がわずかに硬直する。それでも彼は、なにも訊かなかった。

 角に差し掛かる度に道を問われ、それに短く答えながら進んだ先――十分ほどで家についた。

 ここか? と訊かれて、陽希は頷きながらぎこちない仕草で荷台を降りた。

「青島くん、ありがとう」

「いや、大した距離じゃなかったから。じゃあな」

「うん。バイバイ。気をつけてね」

 ひらりと手を振って青島は遠ざかる。その背中を、夢見心地で陽希は見送った。

 夕暮れに溶けるように彼の姿は見えなくなったが、依然として手元の赤い糸は揺れていて、青島が自転車を漕ぐ姿が瞼の裏に浮かんだ。

「……青島くん」

 彼につながる赤い糸に、陽希はそっと囁いた。胸がまだ、ドキドキしていた。

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