自分はそう長く生きることは出来ないのだろうと、ユーリスはよくよく理解していた。
いくら父や母が慰めるような言葉をかけてくれても、自分の身体のことは自分が一番良く分かるのである。
四六時中付き纏う倦怠感や息苦しさ、大して動きもせずにろくに制御が出来なくなる身体だ。これで将来に期待を持てるほど、ユーリスは楽観的にはなれなかった。
両親の期待に応えようと勉学に励み、跡継ぎとして出来ることをする一方で、空虚感がいつも胸に巣くっていた。
どれだけ頑張ろうがその成果が長くは続かないと知ってしまっているがゆえの、空っぽな心持ちだ。
弟がいてくれたのは幸いだった。必要以上に両親や祖父母への罪悪感に苦しめられずにすんだから。
優しく真面目な子だ。そして健康である。
きっと自分以上にザインロイツ家を繁栄へと導いてくれるだろうと、ユーリスは確信していた。
そんなユーリスに懸念事項があるとするなら、それは自身の婚約者に関することだろう。
――リシャーナ・ハルゼライン。
同じ伯爵家であり、聡明で気立ての良い少女。
ユーリスの身体のこともありあまり頻繁には会えないが、絵に描いたような貴族子女といえばいいだろうか。
初めて会った幼少期には、すでに大人と見違えるほどに優雅な所作と品のある言動を身につけていた、そんな完璧に等しい貴族の令嬢だった。
だからこそ、ユーリスは彼女が可哀想でならなかった。
この美しく聡明な令嬢が、どうせ大して生きもしない自分の妻となることが。
身体が大きくなってある程度容態が安定したこともあり、セインルージュ家にはユーリスの身体のことは伝えていなかったのだ。なにより、ユーリスの両親が息子の健康を願う期待があった。
家のことを思えば、リシャーナを不憫に思いつつも本心を告げることは出来なかった。
恋や愛がなくても、せめて心穏やかに過ごして欲しい。そう願っていたし、不自由なく過ごしてもらうための覚悟もあった。
――だが。
ちっぽけに思えていた自身の人生の中で唯一確固とした思いで持ち得ていたその覚悟も、高等部の入学を機に瞬く間に崩れて粉々になってしまった。
「ユーリス、キッチンのほうは荷物の整理終わったよ」
ひょこりと扉から顔を出したリシャーナに、ユーリスは持っていた本を棚に並べながら目をやった。
「こっちももう終わるよ」
「あとこの箱に入ってる本だけ?」
「ああ。入りきるか心配だったけど杞憂で終わりそうだ」
箱詰めされた本と本棚の空きを見比べて肩を竦める。箱を覗き込んでいたリシャーナも「よかったね」と嬉しそうに笑っていた。
「お兄ちゃんがプレゼントしてくれた調理器具ね、どれも日常使いするには良い物過ぎて使えそうにないよ」
出来ればこのあと買い物に行きたいと、リシャーナは困った顔をした。
だが、そのなかに喜びや気恥ずかしさがあるのがよく分かっているので、ユーリスは見守るような心地で苦笑してしまう。
「テシャルさんのことだ。きみが使ってないと知るとショックを受けるんじゃないか?」
「でもあんまりに高いからさ……あれじゃ料理する度に壊さないかビクビクしちゃってまともに使えなさそうだもん。お兄ちゃんが来たときは使ってみせてあげるつもりだからいいかなあって」
どうやら手伝ってくれるようで、本を手にしたリシャーナは隣に並んで綺麗に並べていく。
「そもそもさ、引っ越しするだけプレゼントしてくるのも変だよね?」
「彼のことだ。きみになにかしてあげたくてたまらないんだよ。そのチャンスをいつだって逃さないようにしてるんだろう」
「えー……そうかなあ」
たわいもない話とともに二人で動けば、箱の中はすぐに空になった。
空っぽの箱を片付けながら、ふっと二人は息をつく。
今日は二人がこの新居に引っ越してくる日であり、朝からずっと荷ほどきで忙しかった。日を移して到着するものもあるのでこれで一安心……とはならないが、今日の分は終了だ。
なにも結婚したわけではない。――いや、いつかは正式に行政に申請を出すつもりではいるが、彼女の両親からしっかり了承を得る前に婚姻を結ぶつもりはユーリスにはなかった。
ただ住居をともにするだけだ。
しかも大きな邸を構えたわけではなく、比較的富裕層の住まう広々した集合住宅である。
さすがに伯爵家のリシャーナをこんなところに住まわせるのは、と気後れしたものだが、彼女は
ユーリスの恋人であるリシャーナ・ハルゼラインには、ここで生まれるよりも前の記憶が存在する。
それを知ったのは今から一年ほど前の建国パーティーでのことだった。当時の彼女はひどく不安定で、一人孤独に飲み込まれようとしていた。
「ん? どうしたの、ユーリス?」
王宮の中庭で見た陰りのある笑顔を思い出し、じっと横顔を見つめていると気づいたリシャーナが首を傾げた。
艶めく黒髪がさらりと肩から落ちる。
きょとりと瞬く表情には憂いも陰りも見えない。そんなリシャーナを見返して、ユーリスはその黒髪をすくって耳にかけた。
そっと耳朶の裏をなぞるように指で触れると、ぴくりと肩を揺らしてから真っ青な美しい目がじとりと拗ねたようにユーリスを見た。
「いま、わざと触ったでしょ」
「……きみに触れたかったんだ」
「あ! そう言えば私がなにも言えなくなると思って!」
赤い顔で憤るリシャーナの軽い拳を受け止め、その腕を引いて抱きしめる。リシャーナは本気で怒っていたわけでもない。そっとこめかみにキスをすると、くすぐったさからか声をあげて笑った。
「ユーリスってばたまに意地悪になるよね」
「そうかな? あまり自覚はないけれど」
戯れのように今度は頬にキスすれば、クスクス笑いつつリシャーナも同じようにキスを返してきた。
「私の反応見てからかってるでしょ」
「きみの可愛い反応が見たいからだよ」
俺に触れられるのは嫌?
訊くと、「ほらまた意地悪だ」と笑いながら慰めるような軽いキスが返ってきた。
「嫌なわけないじゃん。だってユーリスのこと愛してるんだから」
背伸びをしたリシャーナが両頬を包んで柔らかく微笑む。ちゅっと鼻先に唇が触れ、その瞳が蕩けて愛情を示してくるので、ユーリスの胸が温もりで溢れた。
「きみのほうがよっぽど意地が悪い」
いつもいつもユーリスのほうが動揺させられて、いっぱいいっぱいになってしまうのだから。
惜しみなく捧げられる愛情に、降参だと白旗をふったのは何度目だろう。
長ったらしく息を吐きながら抱きしめた肩口に顔をうずめる。
急にどうしたの、とリシャーナは笑いながら背中に腕を回してくれた。
鈴が鳴ったような軽やかで可愛らしい声が耳をくすぐる。身体全体で感じる温もりを感じながら、ユーリスは不意に泣きたくなるような幸福感に胸がいっぱいなってしまった。
自分の生活が崩れた三年前のことを思い返す。
四肢を拘束されて病室に押し込められる日々。両親からは絶縁状と書かれた一枚の紙切れだけで関係が途絶え、医療者からはサニーラへの狂信からか冷たく蔑みの目を向けられていたあの日々。
魔力の専門医を伴ったヘルサのおかげで自由の身となったが、ユーリスは自分は二度と他者と関わることなくその生命を終えると確信していた。
その手を掴んでくれたのがリシャーナであり、この糸田清花だ。
病室の冷たい記憶から一転、思い出されるのは学園の裏庭でのこと。
――情けないなんて思うことはありません。それは人として当たり前のことです。
人の気配もない静かな片隅で、ひたと真っ直ぐに見つめられて投げかけられた言葉の数々。
自分の心臓が鼓動を取り戻したあの瞬間を、ユーリスはいつまでも覚えている。
トクリトクリ。
心臓が大きく動いてユーリスを生かす感覚は、サニーラを前にした時のように衝動的で、けれどそのときにはなかった甘さを伴っていた。
思わず手首の魔法具を確認したが、命綱でもある魔法具はしっかり自分の手にはまっていて、ユーリスはしばし自身の渦巻く感情に動揺したものだ。
想いを自覚してからも、それを伝えるつもりも、想いを叶えるつもりもなかった。リシャーナはユーリスなどが手を伸ばしていい人じゃなかったから。
だが、今にも崩れそうな笑顔で、姿で、自分は愛されないと語る彼女に憤りややるせなさで感情任せに伝えてしまった。
そうして幸運なことに、リシャーナもユーリスのことを愛してくれた。
家族になりたい人だと、彼女に引き寄せられてテシャルたちに紹介された日の歓喜と幸福感を思い出し、リシャーナを抱きしめる腕が強くなる。
「どうしたの? 今日はいつもよりくっつきたがりだね」
苦しいよ、と言いつつ、その腕はしっかりユーリスの背中に回っていた。
「幸せだと思ったんだ……きみがいなかったら、俺は今も行き場のない飢餓や孤独に苦しんでいただろうから」
「ユーリスってば何回それ言うのさ」
トントンと背中を叩かれて腕の力を緩める。すると、目を合わせたリシャーナが「私の台詞だよ」と何度も聞いた言葉を返した。
「私のほうが、ユーリスに幸せをもらってる。ユーリスがいなかったら、私はこんなふうに笑っていられなかったから」
だからありがとう。
無邪気で晴れやかな笑みの向こうで、遠い昔に出会った綺麗な令嬢の影を見た。
砕けた口調も、なんの憂いも強張りもない笑顔も全部ユーリスだけが見れるもの。
そう思うと、心臓が疼く気配がした。優越感や独占欲が甘くこみ上げてきて、あまり健全ではないそんな気持ちに飲まれないよう、ユーリスはいつも戦う羽目になる。
(ああ、どうしようか……一緒に住むようになったらこれが毎日だ)
今までリシャーナが素を見せてくれたのは二人きりの研究室だったりしたわけだが、自宅なるとさらに孤立した二人だけの空間だ。
より人目を気にせずに過ごせる場所で、隠しもせずに正面から愛の言葉や感情を見せてくれる彼女に、果たしてユーリスはいつまで紳士然としていられるだろうか。
(テシャルさんが頻繁に訪れてくれることを願うしかないな……)
すっかり妹への過保護を隠さなくなった彼のことだ。
きっとこの新居にも頻繁に様子を窺いにくるだろう。いや、むしろ来てくれないと困る。
ある程度緊張感をもって生活していないと、二人きりの箱庭が心地よすぎて外に出ること――というか、外に出すことが嫌になってしまうから。
リシャーナはこの一年でより精力的に研究に励むようになり、以前よりも交友関係も行動範囲もぐんと広がった。
しんしんと佇む麗しき令嬢に見えていた陰りがなくなり、貴族然とした仮面を被りつつも生来の人の良さや穏やかさが滲む彼女に誰も彼もが目を惹かれる。
サニーラなんかは占い小屋の事件以降、雛が親鳥を追うようにリシャーナの背中を見れば駆け寄り、ときおり頭を撫でられているのを見る。
ほかの医療班員や騎士団とも魔法具の試験運用を通して交流が多くなり、ユーリスと歩いていても声をかけられることが増えた。
そういったリシャーナの楽しく充実した日々を奪いたいわけじゃない。
ユーリスだって子爵から頼まれて古代語の解読に出向して忙しくも楽しい時間を過ごしている。
だが、以前よりも広がった彼女の世界や自分の忙しさもあり、余計に二人だけの時間が貴重で甘やかなものに思えてずっとこの時間に浸っていたいような気分になってしまうのだ。
「買い物に行くんだったよね。良かったら昼食も外でとろうか?」
「あ、それならこの前サニーラが教えてくれた定食屋さんがあるの。ユーリスは賑やかなところでも大丈夫だよね?」
「ああ、もちろん」
きみと一緒ならどこでもいい、なんて口には出さなかった。
「じゃあそこに行こう! 教えてもらってからずっとユーリスと行きたかったんだ」
準備してくるとリシャーナは一度自室に戻った。ユーリスも簡単に身支度を整える。
そう経たずに外行きのワンピースに身を包んだリシャーナが戻ってきて、ユーリスに並ぶと控えめに触れ合わせた手を握ってきた。
恥ずかしそうに、嬉しそうにはにかんだ姿がいじらしくて、ユーリスは胸がくすぐられたような甘酸っぱい愛おしさを感じる。
「今日も可愛いね、清花」
悪戯に耳許で呼びかけて赤くなった耳朶にキスをする。と、呼ばれた名前にふるりと震えた碧眼が嬉しそうに潤んで彼女はユーリスの腕にもたれた。
外に出ても珍しくリシャーナはぎゅうとくっついたままでいた。
「ユーリス」
「ん?」
「愛してる」
「俺も愛してるよ」
道行く人には聞こえない、そんな小さい愛の応酬。
(きみが俺を想うよりもずっと、俺はきみのことを愛してるんだ)
バングルに救われたあの日。裏庭で声をかけられたあの日。腕の中で失いかけたあの日。月光の映える王宮の中庭でのあの日。
リシャーナと――清花と、日々を積み重ねれば積み重ねるほど大きく重たく降り積もっていくこの気持ちを、いつか伝えきれる日はくるだろうか。
不意にそんなことを思って、けれど自分にはこれからいくらでも時間があるのだとユーリスは思い直した。