簡素な寝台で横になったユーリスの瞳がゆっくりと開いた。
「眼が覚めましたか?」
リシャーナは椅子から身を乗り出して顔を覗き込んだ。
「ここは……?」
「さっきの路地の隣の宿場です。店主の方のご厚意でベッドを貸していただきました。ちゃんと金銭はお渡ししてますのでご心配なく」
「……それは、随分とご迷惑を、うっ」
ふらりと目眩を起こしたように頭を支え、ユーリスが体を起こした。それを見たリシャーナは、扉のそばにあったベルを鳴らす。
「俺のマントは……?」
「こちらに。寝るときに邪魔になると思いましたので」
「ありがとう」
不安そうに部屋を見渡したユーリスに、すかさずマントを差し出すと、ほっとしてすぐにフードを被ってしまった。
リシャーナの視線から逃げるように裾を引っ張って目深にするので、あの透き通った若緑色が見えなくなる。そのことが、なんとなく惜しいような気持ちになった。
しばらくの間、お互いに探るような気まずい沈黙が横たわっていたが、不意にノック音とともに快活な女性の声が響いた。
「ほーら、できたてだよ! お、あんた眼が覚めたのかい? 腹が減って気を失っちまうなんてよっぽど腹空かせてたんだねえ」
急にやってきた女性にユーリスが混乱している間、中年の女性は部屋に置かれたダイニングテーブルにどんどん料理を運び込んだ。
その量の多さに、リシャーナも眼を丸くした。
「もしかして私の分までご用意してくださったんですか?」
「一人で食べるのは味気ないだろ? もうすぐお昼だし、もしよかったら食べてっておくれよ」
「それはありがたいですが……」
「お金のことならさっきもらった分で余るぐらいだからさ! 気にせず食べな!」
恐縮したリシャーナの背中を一度叩くと、彼女は大きく笑って部屋を後にする。嵐のような勢いの彼女がいなくなったあとの部屋は、なんだか随分と静かに感じた。
「ユーリス様。宿の方にあらかじめ食事をお願いしておきました。もし、起きれるようでしたらこちらへどうぞ」
向かいの椅子を引いてから、リシャーナは反対側に腰掛けた。ユーリスはしばらくしてから、戸惑いがちにゆっくりと近寄ってきては呆けたように言った。
「なぜ食事を?」
「初めはお医者様を呼ぼうかとも思いましたが、あなたが食事をすればと仰ってましたから……とりあえず様子を見ようかと」
どうぞ、と促して、ようやくユーリスは席につく。
温かいスープやサラダ。それにパンと串についた大きなお肉。少しスパイシーな香りが鼻につくと、途端にリシャーナの胃も空腹を覚えた。
(このままじゃ食べられないわね……)
大衆食堂では、こういう串焼きにかぶりつく人を見るけれど、さすがにそんなことを貴族の子女がするわけにはいかない。
この世界で見慣れた銀のカトラリーではなく、用意されていた竹製の安物の箸を使って一つずつ串から取り外していく。
とりあえず一本崩してそれをユーリスに渡すと、彼はきょとりと眼をしばたたかせていた。
「……随分と手慣れているんだな」
ギクリとして、慌ててリシャーナは取り繕う。
「学生時代、友人とよく市内に来てはいろいろと見て回っていましたから。市井の人々の生活を見るのは、我々貴族の務めですし」
言ってから、ユーリスが貴族籍から排斥されていることを思い出して慌てたが、彼は淋しそうに眼を伏せただけで、大きく顔色を変えたりはしなかった。
「冷めてしまいますから、早く食べてください」
「ありがとう。その、今は手持ちがなくて……今度工面したらきみに届けると約束しよう」
「お金のことは気にしなくていいですよ。私も部屋で休ませてもらってますし、こうして食事もいただいています」
なにより勝手に宿に運んだのはリシャーナなのだから。
ちらりと正面のユーリスを見て、リシャーナは密かにほっとした。
(怠そうではあるけど、今のところさっきみたいな急激な悪化はないかな……)
顔色は相変わらず悪いが、食事をしているうちに血色が戻っている気もする。
食事で治るなんて言われたときはそんな馬鹿な、と思ったものだが、あながち間違ってもいなかったらしい。
きっと食事を怠ったが故に、魔力が消費されるばかりで生産されないせいで欠乏症状に陥ったのだろう。
(それに、あの口ぶりからして何度か同じような事態を起こしてそうだし……)
しかもさっきの「手持ちがない」という発言だ。
いくら家から勘当され、貴族籍を抜いたとしても、無一文で元嫡男を追い出すようなことをするだろうか?
ハルゼライン家に婚約破棄の連絡が来た時期を考えれば、ユーリスが勘当されて平民に落ちたのは二年ほど前のはず。その間こうして生きているのだから、少額ならば手切れ金をもらえたのだろうか。
それが尽きかけてきて、こうして空腹で魔力が足りなくなった――?
(そもそも、どうしてユーリス様が勘当されるような事態になったのかが不思議……)
優しく穏やか、しかし芯のある気高い強さも持つ青年。リシャーナには、いつだって余裕のある凜とした立ち姿に、本当の貴族とはこういうものなのかと、悔しいような感心したような心持ちにさせられていた苦い思い出があった。
(結局ヘルサ教授も理由までは教えてくれなかったしな)
今の彼の状況については答えてくれたが、なぜ勘当されたかという点に関しては、ヘルサも硬く口を閉ざした。
それがユーリスのためを思ってというのが理解できたのですぐに引き下がりはしたが、やはり眼の前にするとどうしても気になってしまう。
黙々と食事を勧める最中、リシャーナはユーリスがフードの裾を気にしていることに気づいた。
「ユーリス様、もし他人の気配が気になるようでしたら私は下の食堂のほうへ移りますよ。フードをつけたままじゃ食べづらいでしょうし」
言うと、ユーリスは焦ったように口の中のものを飲み込んで、リシャーナが立ち上がるのを止めた。
「待ってくれ。そこまでしなくていい……それに他人の気配というか、これは……」
躊躇うように唇を噛みしめ、やがてユーリスは呟く。
「他人の視線がダメなんだ……」
「視線、ですか?」
人に見られるのが気になるということか。
「それなら、私は向かい側ではなくてこちらに座りましょう」
リシャーナは椅子ごと移動して、二人の視線が交わらないようにテーブルの側面に移動した。
これで大丈夫だろうと一安心して食事に戻ると、ユーリスは驚くように息を飲んだ後、じっとリシャーナの横顔を見つめた。
ほかにも懸念事項があるのかと居心地悪く思っていると、そのうち彼はおもむろにフードを外して食事を始めた。
長い茶髪が白い肌の上をなめらかに滑っていき、伏し目がちの瞳で睫毛の影が頬に落ちる姿は、息を飲んで見惚れてしまいそうだ。
ハッとしたリシャーナは慌てて視線を逸らして食事に集中する。
食事も終わりを迎えたころ、不意にユーリスが呟いた。
「俺が家から排斥されたことは知っているだろう?」
「ええ……ヘルサ様から伺いました」
頷けば、ユーリスの表情に不可解さが浮かんだ。
「それなのに、どうしてリシャーナ伯爵令嬢は、俺と食事をするんだ? さっきも箸で肉を解してくれていたが、随分と手慣れていたし……失礼だが、」
――貴族なのに珍しいと思った。
ドッと、心臓が嫌な音を立て始めた。
バクバクと冷たい恐怖が体にしみわたっていく。
(そうだよね……貴族の家を勘当された人だなんて、最も貴族が嫌うタイプの人間だ)
つまり、家を追い出されるほどに、その人は貴族としてあるまじき行いをしたということなのだから。
だから、本物の貴族であればこんなふうに一緒に食事をしたりはしない。
幼少の頃のリシャーナが母から向けられたような、ああいう冷えた眼差しを向けるはずなのだ。
本当は頭の隅では分かっていた。でも、リシャーナには出来なかった。
どう言い訳を立てようかと考え、しきりに深い碧眼を揺らす。そのとき眼についたユーリスの眼差しに、リシャーナは恐怖で強張っていた体からストンと力が抜けた。
色のせいだろうか。陽に当たった森を眺めているような、そんな爽やかで温かみを感じる。
貴族なのに珍しい、と訝るような言葉ではあったが、どこか安心したようなそんな目だった。
だからリシャーナは、ついスルリと本音が出た。
「私は、ただ眼の前で困っている方を助けただけです。それが貴族であれ、平民であれ、排斥された人間であれ、誰にでも同じことをします」
それはきっと、貴族であらねばならないこの世界にいても譲れない、リシャーナの境界線だった。
ユーリスの瞳がふと光りを携えるように揺れ、微笑んだ。多分、初めて見る彼の心からの笑みだと思う。
「そうか……」
ありがとう、と独りごちるような囁きに、リシャーナの胸がじんと震えた。
貴族でいなければならないと気を張り続けたこの十年以上。どれだけ親の期待に応え、社交界で褒められたときだってこんなに心が震えたことはなかった。
(どうして、この人は家を追い出されたんだろう……)
ユーリスが不祥事を起こすような人には見えない。一体彼に、なにがあったんだろう。
リシャーナは、初めてユーリスのことを知りたいと思った。
「ユーリス様、もしよければなのですが、私の助手をしませんか?」
「俺が、きみの?」
「不快にさせたら申し訳ありません。ですが、恥ずかしながらその魔法具は試作品で不完成な代物です。あなたの体のためにも近くで経過を見させていただきたいのです」
嘘、というほどでもないが、それでも建前に近い。本当は、もう少しユーリスという人と接してみたくなったのだ。
研究者には、人手が必要なときに臨時的に人を雇ったり、長期的に助手を雇うことが可能である。
助手であれば研究者と同じように個人の許可証が発行され、自由に校内を行き来することが出来るのだ。
「もちろんそれなりの報酬は出ますし、改良品が出来ましたらユーリス様にも提供します。許可証があれば、図書館などの学園内の施設を自由に利用することも出来ます」
「報酬……図書館……」
悩むように、ユーリスは顎に手を置いた。
リシャーナの憶測では、ユーリスは金銭に困っているはず。今まで貴族として生きてきた彼に、突然平民と同じように労働をするのは難しいだろう。しかし、研究であればまだハードルも低いだろう。
なによりユーリスも魔法学園の高等部に進学していたはずなのだ。専攻が違ったので姿を見る機会はほとんどなかったが、聡明なのはお墨付きである。
彼が考えている時間が、随分と長く感じた。ドキドキと緊張しながら返答を待っていると、不意にユーリスが言う。
「俺を雇うことで、きみの不利益になりはしないだろうか」
「そんなことはあり得ません」
キッパリと否定するリシャーナの答えに、ユーリスは腹を決めたようだ。
「よろしく頼む。精一杯リシャーナ伯爵令嬢の力になれるよう尽力するよ」
躊躇いがちに、けれど真っ直ぐに手を差し出され、リシャーナは微笑んで応じた。
「リシャーナとお呼びください。これからは研究を共にする同僚ですから」
「それでは俺のことはユーリスと呼んで欲しい」
「分かりました。ユーリス」