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第30話

 マラヤンとすれ違いに、ユーリスが部屋に戻ってきた。

 入室して早々に泣いているリシャーナに気づくと、ユーリスはぎょっとして駆け寄った。

「なにかあったのか? やはり、あのテントでつらい目に?」

 ユーリスは宥めるようにリシャーナの肩に触れた。それにリシャーナは首をゆるゆると振った。

「ち、違うの。あそこではすぐに助けが来てくれたから……だから、大したことはなかった」

「じゃあ……」

 言葉に詰まらせながら、けれど軽い口調で答えると、ユーリスはふと押し黙った。

 見ると、途方に暮れたような表情で顔を曇らせていた。

「なら、彼……マラヤンとなにかあったのか?」

 心配しすぎだと笑っていたリシャーナは、その低く苦渋を思わせる声音に目をしばたたいた。

「ユーリス……?」

「きみは……あの男を想って、泣いてるのか……?」

 そろそろとユーリスの手がリシャーナの頬に添えられた。

 逆光のせいだろうか。ユーリスは普段よりも昏い顔をしていた。そして、そんな自分を恥じるように苦々しく歪んだ表情に、ふと愛しさが募る。

 頬に触れた手は弱々しくて、リシャーナは無意識に自分のものを重ねてうっそりと微笑んだ。

(ユーリスだって、完璧じゃないんだよね……)

 貴族然とした優雅さ、その正しい人格故の真面目さや誰にでも向けられる優しさを持った、欠点なんてないような人。けれど、本当は弱いところもあるし、怖いとおもうことだってある。

 こうして、勘違いで嫉妬をすることだってあるような、普通の男の人。

 そのことが嬉しくて、愛おしくて。リシャーナは自分の頬が緩むのを抑えられない。

「マラヤンと話していて泣いちゃいましたけど、ユーリスが想ってるような意味じゃないですよ、きっと」

 本当に? と訝る視線に、おかしくなったリシャーナがコロコロと笑う。そしてふと悔やむような笑みを浮かべ、

「マラヤンはいつかサニーラと結ばれるからって、彼の向けてくれる愛情にちゃんと向き合ったことがなかったんです」

 それを後悔していたのだと告げると、あからさまに面白くなさそうにユーリスの眉がひそめられた。

 いやに分かりやすいこの態度は、すでに想いを告げているが故の潔さなのか。それとも、完璧に貴族の面を被れるユーリスにそれだけ愛されているという証明なのか。

(ああ、ユーリスって本当に私のこと好きなんだ……)

 しみじみと感じ入る。ようやく、心の底からそう思い知ることが出来た気がした。

 初夏の若々しい緑を見た爽やかさと、春の陽差しの温かさをいっぺんに浴びたような、そんな心地だった。

「ねえ、ユーリス」

 ひどく大事なものに指先から触れるように……そうやって愛しい人の名前を口で転がしたリシャーナは、首を傾けてユーリスの手のひらに頬をすり寄せた。

 途端、ユーリスはドキリとして頬に朱を走らせる。

 ――私、あなたのことが……

 ようやく素直になれるかと思ったその瞬間、バタバタと忙しない足音があっという間に近づいてきて扉を勢いよく開け放った。

「リシャーナ! 無事か!?」

 白金色の美しい髪が無残に乱れているにもかかわらず、テシャルは一切気にした様子もなく声を上げた。

 あまりの勢いにビクリとして姿勢を正したリシャーナとユーリスにつかつかと近寄ると、リシャーナの両肩にそっと手を置いて顔を覗き込む。

「お前が事件に巻き込まれて意識がないと聞いて……もう目が覚めたのか?」

 大丈夫か? どこか怪我はしてないか?

 リシャーナを左右から覗き込み、果てには背中側に回ってくまなく見渡したテシャルは、最後にもう一度リシャーナの顔色を確認した。

「そういえば、少し前にも病院に運ばれたそうじゃないか。どうして言わなかったんだ」

 チムシーの花の採取のときだ。

 そうは分かっていても、兄から矢継ぎ早に質問を投げられたリシャーナは、どれから答えたものかと混乱し、目を白黒させて固まってしまった。

 そもそもどうして兄がこんなふうに慌てているのかも、そろそろ領地へと戻るはずなのにここにやってきたのかも分からない。

 ユーリスも揃って呆気にとられていると、少し遅れてタリアが軽い足音とともにやって来た。

 彼女も急いできたようで、肩で息をしていた。

「テシャル、そんなふうに一気に聞いたらリシャーナちゃんが困りますよ」

 微苦笑してテシャルの肩に手を置き、リシャーナからそっと距離を離してくれた。

「大変だったわね。怪我はしていない?」

「はい。少し魔力が乱れていただけで……もう回復しました」

 呆然としつつリシャーナが素直に答えると、タリアも心配していたのかやっぱりほっと眉を落として胸を撫で下ろした。

 そして身を乗り出して悪戯っ子のように片眉を上げてニコリと笑む。

「テシャルってばあなたのことになるとダメね。いつもは堂々としてるのに、こんなに動揺しちゃって……」

 微笑ましいとばかりに笑いまじりの声だ。耳元でタリアにこそこそと言われて、リシャーナは驚愕した。

(こんなに動揺してるのは、私のせい?)

 タリアはクスクスと笑って見ているだけだ。まるでいつものことだとでも言うように。こうなるのが当たり前だと知っているように。

 こんなに狼狽した兄に困惑しているのはリシャーナだけだった。

 そんなリシャーナに、馬車の中でも真っ青だったのだと、タリアはおかしそうにつけ加えた。

 ――お兄様が?

 そういえば、建国祭のときもそんなこと言ってたっけ。

 よく私の話をすると言ってたけれど、あれは家族の仲の良さを示していたわけではなく、まさか本当にただ私のことを思っていただけ?

 ――本当に?

 そう思った途端、じわりと心の奥底からなにかがにじみ出た気がした。

 トクトクと期待するように、リシャーナの心臓の音が少しずつ速くなる。

 ずっとずっと封じ込めていた、淋しさとか甘えたい欲とか、それこそ人肌を求めるようなそんな心細さを、リシャーナは実感していく。

 淋しさや心細さに身を任せると、もう自分が二度と立てなくなりそうで怖かった。それなのに、今はどうだ。

 リシャーナの怯えて小さくなった気持ちを、温かななにかが覆ってくれている。

「お兄様は、私のことを愛してるんですか?」

 あれだけ重かった言葉が、怖くて訊けなかった言葉が。なんの気負いもなく、ポロリと無意識に口から零れた。

 ピタリとテシャルが動きを止めた。耳を疑うように、リシャーナと同じ碧眼が小さく見開かれていく。

「なに、言ってるんだ……リシャーナ」

 おずおずとテシャルの腕が伸びてリシャーナの肩に触れた。その仕草が、怯えているように見えた。

 リシャーナが兄の動きをゆっくり追いかけていれば、遅れて「当たり前だろう」と掠れた声が届く。

 顔を上げたリシャーナの前で、テシャルはひどい顔色だった。言ったリシャーナが申し訳なさに息を呑むほどだ。

 どうしてそんなことを訊くのかと、テシャルは傷ついていた。

 その表情を目の当たりにすれば、さすがのリシャーナも兄の言葉が嘘ではないとよく分かった。

 実感して、はらりと涙が落ちた。布団に吸い込まれていく涙を見ながら、ああ、今日は泣いてばっかりだ。と思った。

 慌てて止めようとしても、ぽろぽろと絶え間なく涙が溢れてくる。それでも、心は温かい充足感で満ちていた。

「ど、どうしたんだリシャーナ!? 」

 はらはらと涙を零す儚い妹の姿に、テシャルはおろおろして目の前にしゃがみ込んで覗いた。タリアも、動揺しつつリシャーナの背中を撫でる。

 涙を止めることを諦めたリシャーナは、屈んで猫背になったテシャルを手招きで近くに求めた。

 もっとこっちへ。

 無言でじっと見てくるリシャーナに、テシャルは困惑しつつ従った。そうしてベッドのすぐ脇にしゃがんで見上げてくるテシャルを、リシャーナはベッドの上から見ている。

 と、少し低い位置にあるテシャルの首に、リシャーナはおもむろにぎゅっと抱きついた。

 普段にないその行動にテシャルは驚くが、抱きつくリシャーナの腕が震えていることに気づくと、そろそろと妹の薄い背中に腕を回した。

「おにいさま……おにいさま……」

「うん。どうした、リシャーナ」

 泣きながら何度も何度もを兄を呼ぶ声に、テシャルは返事も来ないのに律儀に毎回頷いて返事をする。

 テシャルの声は、妹を可愛がっているのがよく分かる、そんな優しい声だった。

 泣いてぼんやりしたリシャーナの頭に、不意に幼いころの記憶が浮かんだ。

 母の前で鳥肌が立つような恐怖にさらされたときのことだ。まだ小さいリシャーナの手を、成長途中のテシャルの手が掴んで部屋から連れ出してくれたときのこと。

 恐怖や動揺で瞳はぐらぐら揺れていたのに、前を行くテシャルの幼い背中だけはずいぶんとハッキリ覚えていた。

 部屋に連れて行かれて、子ども二人だけになるとテシャルは困惑しつつも今のように顔を覗いてくれた。

 ――貴族は痛いときに痛いと言っちゃダメなの? 辛いときもダメなの? 

 どうしてだと泣きじゃくるリシャーナに、テシャルがなんて答えたのかは覚えてない。けれど、ずっとぎこちない動きで頭を撫でてくれていたのは覚えている。

 そのときの温もりを、思い出した。

(本当は、ずっと愛してくれてたんだ……)

 だってあれは、そういう優しさを含んだ手だった。そんなことに、いまさら気づく。

 自分はこの世界の人間じゃないから。異物だから――だから受け入れられることはない。

 ずっとそう思っていた。

 でも、本当に線を引いていたのは私だった。

 ありもしない線を勝手に引いて、自分は違うのだと卑屈になって一人ぼっちみたいな顔をして……。

 ずっとそばにあった愛情にも、そばにいてくれた人たちにも気づかなかった。

 建国祭の日、よく話も聞かずに言い捨ててしまったことが蘇る。

 ずっとリシャーナを思ってくれていたテシャルにとって、あの言葉はどれだけ衝撃だっただろう。

 考えて、ズキズキと胸のつまる思いがした。

「ごめんなさい……建国祭の日に、ひどいことを言って……」

「いいんだよ。私もずっとどう接していいか分からなくて距離を取ってしまっていたから……リシャーナが悪いんじゃない」

 あの日のように頭を撫でられ、リシャーナは鼻が詰まってぐずぐずの声で子どもみたいに「はい」と頷いた。

 ひとしきり泣いて、リシャーナは熱を持った目許に瞼を重くしながらテシャルの肩から顔を上げた。

 と、ふと部屋の隅で立ったユーリスに気づく。

 目が合うと、彼は良かったなと祝福するようにニコリと穏やかに笑った。

(そうだ……私、まだ言えてない……)

 穏やかな笑みに隠れた寂寞せきばく感が。離れたところにぽつんと一人でいる姿が、リシャーナをひどく悲しくてたまらない気持ちにさせた。

 テシャルに体を預けていたリシャーナは体を起こし、「ユーリス」と呼びかけて手招きをした。

 そんな顔をしないで。一人でいないで。私がこうして向き合えているのは、全部あなたのおかげなんだから。

 首を捻りつつも、ユーリスは素直に従った。テシャルもタリアも、不思議そうにリシャーナがなにを言うのかと注視している。

 ユーリスが手の届く範囲にくると、リシャーナはそっとユーリスの指先をつまむように握った。ほんの少し、拒否されたらと怖じ気づいたのだ。だがすぐに思い直して逃がさないようにピタリと手のひらを合わせて握る。

 ビクリと、ユーリスの腕が驚いて硬直する。

 それを気にせず、さっきまで弱々しく泣いていたリシャーナは、真っ直ぐにユーリスを見て……そして、テシャルとタリアを見渡した。

 雰囲気の変わったリシャーナに、テシャルも立ち上がって怪訝そうだ。

 何を言おうとしてるのか。それを知るのはリシャーナしかいない。

 不意にベッドから立って、ユーリスと手は繋いだまま、ピタリと腕をくっつけるようにしてテシャルと向き合った。

 ――リシャーナと家族になるタリアだ。

 頭に浮かんだ光景をなぞるように、リシャーナは微笑んで言った。

「お兄様にご紹介します。私が、家族になりたいと思う人です」

 誇らしげに隣のユーリスを紹介するリシャーナに、部屋にいた三人は誰も彼もが息を飲んで目を瞠った。

 咄嗟に身を引こうとしたユーリスを腕の力を強くして留めた。それにタリアが、あら、と頬に赤みをさして口を手で覆った。

 驚く若い緑色の瞳は、「なにを言ってるんだ」と信じられないものを見るようだ。

「……リシャーナ、どうしたんだ急に」

「あなたのことは、ずっと前から愛していました。けれど、それを受け入れる余裕が……勇気がなかった」

「でも、きみは貴族で……俺はもう家名も持たない身だ」

 知っている。とリシャーナは内心で思った。身分の差から、ユーリスは自分の気持ちを成就させようとは思っていない。

 図書室でも似たようなことを言っていた。

 だが、それではリシャーナが困ってしまう。

「身分なんて関係ない。ハルゼラインの名前が重いのなら、私は家を出てもいいです」

「それはダメだろう!」

 弾けるように言ったユーリスとともに、ガタリとテシャルがベッドに足をぶつけた。

「じゃあ、もう私のことを愛してはいませんか? どんな私でも、変わらず愛していると言ったのに……」

 落ち込んだように見せると、慌てて「違う」とユーリスが声を上げた。

 テシャルは目を白黒させて。タリアは口を押さえて声にならない悲鳴を上げて傍観している。

「もちろん愛してる……俺はきっときみ以外を愛せないと思う」

「それなら信じてください。私はあなたが好きです」

 ユーリス、私と家族になりませんか?

 ほんの少し不安を交えつつ問うと、ユーリスの唇が声もなく「家族」と呟く。

 呆然とリシャーナを見る瞳が潤み、艶めく。若葉が揺れるようなそのきらめきに、リシャーナは笑みを深くして自分の言葉を強く肯定するように頷いた。

「お兄様が認めてくれれば、もう少し家族も増えるのですが……」

 ちらりと、リシャーナはずっと口を開けたまま立ち尽くす兄に視線を送った。

 途端、スイッチが入ったようにテシャルが狼狽え始める。

「ちょ、ちょっと待ってくれ……急なことでなにがなんだか」

「私はユーリスを想っていて、ユーリスも私を想ってくれています」

「けれど、彼が言うように貴族と平民……しかも排斥された者だ。父上や母上は認めないかもしれないぞ」

「それなら、私がハルゼラインを抜けます。建国祭ではやけになってあんなことを言いましたが、ユーリスと一緒になるなら貴族の家に未練はありません」

 幸い、研究者として生計は立てられているし、生きていくことは十分出来る。

 不思議なことだ、とリシャーナは思った。

 こうなる前は、家に相応しくないことが、貴族の輪から外れることが怖かった。けれど――。

(今はユーリスと離れることが怖い)

「家を出ても、お兄様は私と会ってくれるでしょう?」

 首を傾げて上目遣いに訊けば、テシャルは降参とばかりに大きなため息をついた。

「それはもちろんだが……もう少し心の準備をさせてくれ……」

 私だってお前と家族でいたいんだぞ。とテシャルは苦い顔で言った。

「じゃあ、私たち四人は家族ってことですね」

 素敵! 弟も欲しかったの! と、朗らかなタリアの声に、三人の肩から力が抜けた。

「四人が家族、か……」

「急に賑やかになってしまいましたね」

 夢を見てるような面持ちでユーリスが言うから、リシャーナは寄り添って肯定した。

 ゆっくりとした瞬きとともに、ユーリスの目許にあった小さな滴が弾けたのには見ないふりをした。

 触れていた手が、ぎゅっと痛いぐらいに強くなって、それがリシャーナの心を喜ばせる。

「お前がそうしたいというなら、私は反対しない。だが、父上や母上に言うのはまだやめておきなさい。私が先に話を通して説得しておく」

「あの二人が、説得で頷くとは思えませんけど……」

 絶対に無理だろうに……。

 無謀なことをしようとするテシャルを訝しく見ていると、テシャルは苦笑した。

「たしかに二人は貴族の理念を強く持っているが、子どものことを愛してもいるんだよ」

 テシャルとタリアは、どうやら領地に戻ろうと馬車で出たところを引き返してきたらしく、あまりは長居は出来ないと口惜くやしそうに帰って行った。

 二人きりになった医務室でベッドに並んで腰かける。

「……急にあんなことを言って驚いたよね」

 ユーリスからして見れば、まさに青天の霹靂であっただろう。

「たしかに驚きはしたが……でも、嬉しい」

「こうしてあなたの気持ちに応える勇気を持てたのも。兄とあんなふうに話せたのも全部、あなたのおかげ」

 ユーリスが、前の私のことも全部まとめて肯定してくれて、愛してくれたから。

「もしよければ、前の世界の話をいつか聞いてくれる?」

 おそるおそる問えば、ユーリスはすぐに頷いてくれた。

「むしろ聞かせてほしいな。のことを、もっと知りたいんだ」

「うん」

 安堵した気持ちのまま、リシャーナはユーリスの肩にそっと寄りかかった。

「なにから話せばいいかなあ……」

 愛してくれていた家族のこと? それとも、あっちの世界の常識とか? 魔力がないって言ったら、驚くかな……。

 あれやこれやと考え、迷い、そして大事なことを失念していることに気づいた。

 ――ああ。そうだ。まず知っていて欲しいのは……。

「あのね、前の世界での私の名前はね――」

 そっと音にのせた短い名前。噛みしめるように頷きながら聞いたユーリスは、大事なものをそっとすくい上げるような柔らかな音でそれを紡いでくれた。

 鼓膜が震えて、じんわりと瞳が、心が熱くなる。

 久しぶりに聞いた自分の名前に、リシャーナは浮かんだ涙を閉じ込めるように瞼を閉じて、そっとユーリスの肩にすり寄った。

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