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第29話

 次にリシャーナが目を覚ましたとき、すでにことは全て終わっていた。

 柔らかなベッドの上で瞼を開けると、ベッド脇には泣きそうな顔で俯くサニーラがリシャーナの手を握っていた。

 ぼんやりと開いた目で室内を見渡すと、騎士団の所属証明書が見えた。

(ああ……騎士団の医務室かな……)

 ということは、あのあと無事に騎士団が到着して事なきを得たらしい。サニーラも無事なようだ。

 リシャーナの細い手を両手でぎゅっと抱き、祈るように額に押し当てたサニーラにふと視線を流す。

 握られた手からはじんわりと魔力がしみこんできて、リシャーナの体内をゆっくり巡っていく。ぐるぐると渦を巻いていた気分の悪さが少しずつ整えられていくのを感じた。

 心地よさにほっと息をつくと、弾かれたようにサニーラが顔を上げた。と、同時に部屋の隅でも誰かが立ち上がった気配がして見ると、ユーリスが息を呑んで立ち上がっていた。

 遠目にだが、見開いていた若葉色の瞳が、じわじわと安堵で揺らぐのが見て取れる。

 サニーラもリシャーナが目を開けているのを見ると、すでに赤く腫らした目許に涙を浮かべた。

「リシャーナ! よかった……目が覚めたのね」

「子どもたちは……」

「無事だよ! 魔力不足で寝込んでたけど、今は回復してる」

 よかった、とサニーラはもう一度吐息まじりに吐き出した。と、喜びから一転、その表情には少しずつ苦みがのぼっていった。

「ごめんなさい……あのとき止めてもらったのに、私ってば振り払ったりして……」

 後悔の滲む琥珀色の虹彩に涙が浮かび、大粒の滴がポタポタとサニーラのスカートを濡らしていく。

「騎士団の人から聞いたの。あの人たちがあそこでなにをしてたのか……私ってばあんな言葉に惑わされて、本当に情けない!」

 ごめんね、リシャーナ。本当にごめんなさい。

 ひくひくと細い肩を揺らしたサニーラの姿に、ひどく胸が苦しくなる。顔を涙でぐしょぐしょにしたサニーラは、まるで年端もいかない子どものようだ。

(サニーラは、こんなふうに泣く普通の女の子なんだ)

 今まで目を逸らしていたサニーラという少女の弱さを前に、口惜くやむ気持ちが押し寄せた。その思いに突き動かされ、リシャーナはまだ重苦しさを残す体をどうにか起き上がらせた。

 本調子ではない体に、思わず呻きが漏れた。

「リシャーナ!? ダメよ、まだ横になっていて」

 濡れた顔のままリシャーナをベッドに押しとどめようとするサニーラの腕を掴み、そっと彼女の肩を抱く。

 両腕でしっかり抱きしめ、リシャーナはその濃い黄金色の髪を慰めるように撫でる。

「私のほうこそごめん……サニーラはなにがあっても大丈夫だって、勝手に思い込んで、あなたがこんなに思い詰めてるのに全然気づかなかった!」

「リシャーナ……」

「ごめん、サニーラ……ずっと不安だったよね。心細かったよね……友達なのに、ごめんね」

 あんなに思い詰めたあなたの叫びを聞くまで気づかなくてごめんね。

 囁くような細い声で言葉を重ねれば、きょとりとしていたサニーラの表情にもじわじわと感情が押し寄せていった。

「いや、そんなリシャーナは謝ることじゃ……! 私が上手く出来ないのがいけないんだし……っ!」

 気丈に振る舞っていたが、サニーラはとうとう言葉を詰まらせた。一度止まっていた涙がぶりかえす。

「~~っ! ふぅ……うっ――!」

 唇を噛んで泣き声を堪えるサニーラの背中を、リシャーナはそろそろと優しく撫でた。

 隅で立ち尽くしていたユーリスは、サニーラが悩んでいたのを知っているからか、見守るような穏やかな表情でくるりと背を向けた。

「リシャーナ、少し当時の状況を聞きたいのだけれど……っと?」

 部屋に訪れたマラヤンは、室内の様子に目をしばたたいた。抱き合って泣く二人の姿におろおろしているマラヤンを、ユーリスが静かに廊下に連れて行った。

 扉が閉まる音にほっとする。胸の中のサニーラは、溢れる感情でいっぱいいっぱいなようでマラヤンには気づいていないみたいだ。

 声を抑えるように泣く姿が痛々しい。こんなときぐらい、力の限り泣き喚いたっていいのに。

 ひくひくと小さく届く嗚咽に耳を傾けつつ、リシャーナは手を休めずにサニーラを宥めていた。

「うぅ……ティシー……ティシー……!」

 不意に聞こえたその言葉に、リシャーナは胸をつかまれた。氷の剣山を胸にさされたように、一筋の痛みと冷たさが体を割くように伝った。

 ティシーとは、サニーラの亡くなった弟の名前だ。

 本来、結ばれた攻略対象だけがその名前を知ることが出来る。だが、この世界での彼女に恋人はいない。

 恋しがるように。縋るように。許しを請うように切なく呼ばれた名前が、誰のものであるのかを知っているのは、リシャーナしかいない。

 痛いほどにリシャーナを掴むこの細い手が、本当はなにを掴みたかったか知っているのは、リシャーナしかいないのだ。

 そう思うと、ツンと鼻の奥が痺れた。目頭の奥にじんとした痛みが生じて、リシャーナの頬にもいつの間にか涙が伝っていた。

 倒れ込むようにリシャーナに寄りかかるサニーラを、体全体で抱き込むようにさらに力を強くした。

 そして自分の温もりが、少しでもサニーラの慰めになればいいと、リシャーナはそれだけを願った。

 しばらくして落ち着いたサニーラは、泣いたせいか照れているか。赤くした顔で涙の跡を拭って笑って見せた。

「ごめんね、こんな子供みたいに泣いちゃって」

「……誰だって泣きたい時はありますから。だから気にしないでください」

 リシャーナの優しい言葉に、再び潤ませた瞳をサニーラは手で仰いで堪えた。

「さっきマラヤン来てたよね? 私呼んでくるね」

 そう言って部屋を出ようとしたサニーラは、ふとリシャーナを振り返った。

「ねえリシャーナ。これからもさっきみたいに砕けたように喋ってね。そのほうが、なんだか仲良しみたいでしょ」

「え……」

 誰も首を振ることなんて出来ないような、そんな無邪気な少女の笑顔を残して、サニーラは廊下の向こうに行ってしまった。

 答える暇もなかったリシャーナは、遠くなっていく足音にポスンと背中をベッドに倒した。

「……無意識だったなあ」

 やってしまったと思う。けれど、どうしてか心が軽くなった。ふふ、と小さな笑みがリシャーナの口の端に浮かんでいた。

 サニーラが出てからそう経たずにマラヤンが病室を訪れた。

 さっき来たときにサニーラとリシャーナの泣き合う姿を見たからか、どこか緊張したようにそろそろと顔を覗かせると、けろりとした顔のリシャーナにほっとしていた。

「もう体は大丈夫かい?」

「ええ。サニーラのおかげですっかり」

 マラヤンはさっきまでサニーラが座っていたベッド脇の椅子に腰掛けると、手元の資料とペンを構えてリシャーナに向き直る。

「サニーラにも確認したのだけれど、きみがあのテント小屋で見た人物を確認したい」

「入り口のところで四十代ほどの中年の男性を一人。あとは多分貴族と思しき燕尾服の年配の男性です」

 それぞれの服装や髪色など、覚えている限りの特徴をつけ加えるとマラヤンは満足そうに頷いた。

「その二人なら、捕らえた人物に間違いはなさそうだな」

「あと、声だけですがほかにも男性が二人いたはずです。足元しか見ていませんが、多分下働きの平民の方だと思います」

 言うと、マラヤンは資料をぱらりとめくって目で情報を追った。

「ほかにも何人も捕らえているからその中にいるかもな……もしきみが可能であればあとで男たちの聴取を覗いて確認して欲しい」

「はい。騎士団の都合の良いときに呼んでもらって大丈夫です」

 そのあと、辿り着くまでの子どもたちとのやり取りや、ついてからの細やかな流れを確認された。

 リシャーナが、やはり子どもたちに呼ばれてすぐ来てくれたのかと訊き返すと、マラヤンは頷いた。

「元々報告を受けていたこともあり、すぐに部隊が出動したよ。入口にいた男に声をかけたが、君たちのことは知らないの一点張りだった」

 きっと男は頑なにそう言い張ったのだろう。肩を竦めたマラヤンの様子から察せられた。

「それにしては随分と対処が早かったようですが……」

「きみが魔力を残していてくれたからね」

 残された魔力はリシャーナがテントまで行き着いた証拠となり、知らないと嘘をついた門番に疑いがかかり強行突破できたという。

 もちろん、その前にネノンからの証言が上がっていたことも大きな理由の一つだ。

「よかった。気づいてくれたんですね」

 万が一のためにとのことだったが、無事に役立ったようでよかった。

 ほっと顔を綻ばせたリシャーナに、ふとマラヤンは目を伏せた。

「きみの魔力だとあれだけ早く判別できたのは、彼……ユーリスのおかげだなんだ」

「ユーリスが……?」

 なぜ彼があのテントに……?

 疑問は直ぐにマラヤンによって解消された。

「孤児院にたまたま来ていたようだ。駆け込んで来た子どもたちから事情を聞き、迅速に騎士団への報告などを済ませてくれた」

「ああ、それでテントまで一緒に……」

 呟くと、それまで淀みなく答えていたマラヤンの口が、ふと重たくなった。

「……本来であれば一般人を危険と思われる場所には連れて行かない。けれど、彼は騎士団への報告を済ませるやいなや一人で先走ってしまって……」

「ユーリスがですか?」

 真面目なユーリスのことだ。そういったときに個人が勝手に動くリスクは分かっているはず。

 珍しいとリシャーナが口を開けたままでいれば、マラヤンは「きみがいたからだろう」と思わず零した。

 ドキリとリシャーナの胸が大きく鳴った。ユーリスやリシャーナの気持ちを知り得ないマラヤンが言ったことに驚いたし、なによりあのユーリスが我を忘れて駆け出すほどだという衝撃が、じんわりと甘い熱となって心臓を疼かせた。

(私が、いたから……)

 頬を、ぽっとほんのり薔薇色に染めたリシャーナの姿に、マラヤンはそっと目を伏せぎみに資料をまとめたと思えば、立ち上がった。

「ひとまず、今日はここまでで大丈夫だ」

「もういいんですか?」

 話を切り上げたマラヤンに、驚きを露わにする。

 思っていたよりずっと簡単なものだな、とリシャーナは少し拍子抜けしてしまった。

「捕らえた者からの証言が得られればまた追加で話をきくことがあるはずだ。今日はもうゆっくり休んでくれ」

「あ、マラヤン……!」

 お大事にね、と微笑んで部屋を後にする彼の背中を、思わずリシャーナは引き留めていた。

 首を傾げたマラヤンが、不思議そうに振り返る。マラヤンの灰色の澄んだ虹彩に見られると、心臓が緊張したようにきゅっとなった。

「今さらこんなことを訊くのはおかしいって分かってるんだけど……」

 罰が悪くて俯いていたが、意を決したリシャーナはこくりと唾を飲んで顔を上げる。

「……どうしてあなたは、私に好意を持ってくれたの?」

 それは、図書館の扉越しに届いたユーリスの言葉を受けてから、ずっと心の片隅で気になっていたことだった。

 前なら、きっとたまたまだとか適当な理由をつけてはぐらかしていた。

 マラヤンはサニーラを好きになるんだから、リシャーナに向けている気持ちは本当の恋や愛じゃないと。気まぐれなものだと、そう思っていた。だが――。

(サニーラもだけど、マラヤンだってそうだ。ゲームの中の……私が知ってるマラヤンじゃない)

 生まれた世界が違うなんて理由だけじゃ、人が誰かを愛せない理由にはなり得ない。

 ユーリスの言葉が、本当であるなら――。

 緊張して息を殺しながら、リシャーナは言葉を待った。

 去り際に振り返ったまま、マラヤンは驚きに立ち尽くしている。

 見開いた瞳がまじまじとリシャーナに注がれるが、もう逸らすことはしなかった。 その強い眼差しに、マラヤンはほっと嬉しそうに。けれど、淋しい気配もまとったように肩を落とした。

 安堵したようにも見えたし、なにかに負けを認めるような、そんな観念したようにも見えた。

 一度マラヤンの閉じた瞼が開いた時、そこにはもう淋しい気配はなくなっていた。

「リシャーナと初めて話をしたあの日よりも前からずっと、俺は裏庭にいるきみを見ていたんだ」

 静かに始まった告白に、リシャーナは耳を傾ける。

「いつも穏やかで優等生なご令嬢の顔が、あのときだけは剥がれて素のきみが垣間見えた気がして……そのときのきみがあまりに空虚に見えて、心配していた」

 そこに愛情が混じり始めたのが、小鳥を助けたときからだと、マラヤンは懐かしさと愛しさの滲む笑顔で言う。

「きみは気分を害するかもしれないが、貴族らしからぬところに惹かれたんだ……。たった一羽の鳥にも心を砕く姿が、輝いて見えた。自分の手が汚れるのも厭わず、小さな命を弔おうとするところが、俺には眩しかった」

 そんなふうに思われていたなど知らなかったリシャーナは、驚いて目をしばたたいた。

「そんなきみを、もっと近くで見たかった。きみの空虚さを埋めてあげたいと思った。隣で、笑って欲しかったんだ」

 マラヤンは少し照れくさそうに白状した。

 そしてふと色素の薄い瞳でリシャーナを見ると、はらはらと涙をこぼすリシャーナの姿に微苦笑した。

 細くなった瞳の中には、柔らかな熱が纏われていた。それはきっと、リシャーナが当時見つけられなかった彼の中の、リシャーナに向けられる本当の愛情きもちというものなのだろう。

「リシャーナ、あんまり泣くと目が真っ赤になってしまうよ」

 困った声で笑ったマラヤンは、涙を拭おうと腕を伸ばした。だが、肌に触れるすんでのところで、不意になにかに気づいたように淋しい微笑みを浮かべ、指先だけでリシャーナの乱れた髪を耳にかけて整えた。

「……今のきみの涙を拭うのは、僕じゃないものな」

 独りごちた囁きはかすかなもので、リシャーナの耳には届かなかった。

「リシャーナ、どうか幸せになってくれ。今の僕が出来るのは、祈ることぐらいだから」

 近づいて、そっとリシャーナの手をすくいあげたマラヤンは、白い指先に触れないキスを落として今度こそ部屋を出ていく。

「――マラヤン、私を愛してくれてありがとう」

 離れていく背中に、これだけはとどうにか伝える。

 涙で震えた声はたしかにマラヤンに届いたけれど、彼は振り返らず、「お大事に」と短く別れを告げた。

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