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第26話

 一人になった室内で、リシャーナは気が抜けたように背もたれに寄りかかった。

 これから報告に行くと言ったネノンに、リシャーナは付き添うと申し出た。けれど、軽く笑った彼女に「一人で大丈夫」と断られてしまったのだ。

 一度手を止めた研究を再開する気にもならず、ぼんやりしていると、集中力が切れたからかじわじわと胃が空腹を訴えているのが分かった。

(お腹すいたな……)

 ちらりと時計を見たが、食堂に向かうにはまだ早い気がする。

 混雑のピークは過ぎただろうが、まだまだ人影のある時間帯だ。もっとガランとした誰もいないような時間に行かなくては安心できない。万が一にも、彼に会ってしまわないように――。

(ユーリス、今なにしてるかな……)

 ふと彼の姿を思い浮かべると、それだけでとくとくと鼓動が熱を帯びた。

 しかし、すぐに自分が彼を避けている現状に我に返り、体は冷たくなっていった。

 傷ついてるよね、とリシャーナは思う。自分の想いを告げた相手に、あからさまに避けられているのだから当たり前だ。

 その姿を想像すると胸が苦しくなる。今すぐここを飛び出して、ユーリスに駆けよって自分の心情を、想いを全て吐露したい。

 いてもたってもいられない気持ちを押さえつけるように、リシャーナは細い体を両手で抱きしめた。こうして理性が働いているのも、逸る想い以上に恐怖が大きいからだ。

(でも、いつまでもこうして逃げてるわけにはいかないし……)

 伝言を頼んだヘルサにも不審がられているし、現状に首を傾げているほかの研究者もいるだろう。顔を合わせずに、研究者と助手の関係を維持することは出来ない。

 研究だって、今はこうして場所を移して出来る作業だからいいが、そのうち支障が出る。

 なにより真面目なユーリスのことだ。避けられる原因が自分の表明した想い故だとよく理解し、思い詰めているかもしれない。

(助手をやめるなんて言い始めたらどうしよう……)

 ふと過った可能性に、リシャーナの顔が青ざめた。

 十分あり得る話だ。ユーリスはリシャーナが自分に想いを寄せているとは知らないし、なにより押しのけて先に帰ったのだから自分の想いを拒否されたと考えるのが妥当だ。

 そんな状況でユーリスがとる手段なんて、そう多くはない。

 むしろ、この一週間音沙汰がないのがおかしいほどだ。

 嫌だ、と反射的にリシャーナは思った。

(やだ……ユーリスと離れたくない)

 とても身勝手な感情だという自覚はあった。ユーリスの想いを信じ切れず受け入れられないのに、離れられるのは嫌だなんて。

 分かってはいても、考えただけで身を引き裂かれるようだった。

「どうして、私なんかを愛してくれたんだろ……」

 王宮で別れたから何度も繰り返し思ったそれを口にしたとき、不意に控えめなノック音が響いた。

 誰だろう。ネノンが戻ってきたにしては早すぎる。

「はい。なにかご用で――!」

 ほかの管理者が声をかけに来たのだろうかと、リシャーナは扉を開けた瞬間、その先にいた人物に咄嗟に扉を閉めかけた。

「あ、危ないじゃないですか!」

 すんでのところで彼――ユーリスの手が扉を押さえた。滑り込んだ指を挟んでしまうと思ったリシャーナは、すぐに力を抜いた。

 しかし、ユーリスと正面から向き合う勇気がなかったリシャーナは、それ以上開けられないようにドアノブに手を添えた。

 ユーリスもひとまずリシャーナが閉め出す気はないと思ったのか、扉から手を離す。

「急に来てすまない。さっきインシュール嬢とすれ違って、きみがここにいると聞いたんだ」

「……そうだったんですね」

 扉の隙間から久しぶりにユーリスの落ち着いた低音が届く。それだけで、無意識のうちにリシャーナの耳朶がじんわりと熱を持った。

 扉についた曇りガラスの向こうに影は見えるが、その鮮やかな瞳も艶やかな髪も認められない。そのことがほんの少しだけ胸を淋しくさせた。

「あの、ごめんなさいユーリス。こんな避けるような真似をしてしまって……あなたとどうやって顔を合わせたらいいか分からなくて……」

 ユーリスの姿が見えないように、リシャーナの姿だってユーリスには見えていない。それなのに、リシャーナは彼の視線から逃げるように俯いたまま早口で言った。

「――この前みたいに話して欲しい」

 少しの躊躇いの後、ユーリスがぽつりと呟く。「えっ」とリシャーナは困惑してつい顔を上げた。

「貴族でもなんでもない、ただのきみとして……話をして欲しいんだ。昼時で図書館に人は少ないし、ここは奥にあるから早々に人は来ない」

 だから、ダメだろうか。

 窺う声音は、子犬の鳴き声のようにリシャーナの胸を締めつけた。カッと頭に血が上って、無意識に見開いた碧眼が乾いてリシャーナはしきりに目をしばたたいた。

 切なく甘く締めつけられた胸に言葉を詰まらせていると、沈んだユーリスの声が届く。

「急に想いを告げたりしてすまない。困らせているのは分かってるんだ」

 それが原因で研究室に来られないんだろう? と確信めいた響きでユーリスが言った。

 ――助手をやめるなんて言い出したらどうしよう。

 さっき過った懸念が、再び頭を駆け巡った。遮ろうとしたリシャーナだったが、切々と続けられる言葉に声をなくして聞き入った。

「きみは立場上伯爵家の人間で、俺は今は家格を持たぬ身だ……結ばれたいなんて大層なことは言わない。ただ、誰にも愛されないと嘆くきみに伝えたかったんだ。そんなことはないって……もし、リシャーナの家族がきみを受け入れなかったとしても、愛している人間がいるんだってことを、覚えていて欲しかったんだ」

 俺のこの気持ちが、きみが生きていく上での力になるのなら、そんな幸せなことはないと――。

 静かに落とされた言葉は、どこまでもリシャーナのことだけを考えていた。見返りを求めないささやかな愛情が、気づかぬうちにリシャーナの頬に涙を滑らせる。

「私……ユーリスが思ってるような人間じゃないよ? 本当はお淑やかでもないし、言葉遣いも仕草も貴族の令嬢に比べたら上品とは言えないだろうし。こんなだって知っても、あなたはまだ私が好きなの?」

 今まで見てきたリシャーナの姿が、努力によってなしえた虚像だと知っても、ユーリスは愛してくれるのだろうか。

 胸中で膨らむ不安から、涙を拭うこともせずに淡々と問えば、ユーリスは緊張した声で訊ね返した。

「……リシャーナはこの世界が本の話だったというけれど、そこには俺も出ていたのか? だから……知っていたから、あの日、学園の庭園であんなふうにきみは俺に声をかけたのか?」

 わずかな怯えを見せた声に、リシャーナは彼から見えもしないのに大きくかぶりを振って「違う」と答えた。

「私の知ってる話にはユーリスはいなかった。あなたのことを知ったのはこの世界に生まれてから……あなたに声をかけたのだって私がそうしたかったから! 私が思ったことを、ただ言っただけ……」

 それだけは誤解されたくて必死に言葉を募らせれば、ふっと安堵するように扉越しのユーリスから息が漏れた。

「――うん。それならなにも変わらないさ。きみの言葉遣いや所作が変わったって本当に些細なことだ」

「それは些細なこと、かな……?」

「俺にとっては些細だよ。きみがきみであるなら」

 急に憂いでも晴れたようにスッキリした声音になったユーリスに、リシャーナは首を傾げた。今まで見せていたリシャーナとしての姿は全てが嘘だったというのだから、もっと困惑したっておかしくはないのに。

 あまりに平然としているユーリスに、反対にリシャーナが困惑を募らせた。

 扉越しにリシャーナの戸惑いを察したユーリスは、クスクスとおかしそうに笑う。

「きっとこの世界で生きただけのリシャーナ・ハルゼラインでは、俺は助手の道を選ばなかったと思う」

「え」

「ただの貴族のご令嬢じゃダメだった。――ここで生まれ落ちる前の世界から地続きで生きてきたきみだから、俺は救われたし、恋をしたんだ」

「……ぁっ」

 独りでに、喉が――心が震えた。だってユーリスは、リシャーナも糸田清花もまるごと全部ひっくるめて私なんだと肯定したのだ。その私に、彼は恋をしたと……。

 今すぐ扉を開け放ってユーリスの胸に飛びこみたい。そんな感情を抑えるように、ドアノブに添えた両手に力を込めた。

「どうしてそこまで私を……」

 ――この世界では異物な私なんかを……。

 言いかけた言葉を、ユーリスが遮った。

「俺は思うんだ、リシャーナ。きっと世界が違っても、人は誰かに優しくされれば嬉しく思うし、心を砕いてもらえれば寄り添いたくなるんだと……きみを見ていて思ったよ。恋をするのだってきっと変わらない。生まれた世界が違うなんて……そんな理由だけじゃ、人が誰かを愛せない理由にはなり得ないんだ」

「……ほんとうに?」

「ああ。少なくとも、俺にとってはそうだよ」

 思わず訊き返した言葉に、ユーリスはハッキリと強く頷いて答えた。

 内心で言葉を反芻しているリシャーナが沈黙を続けていると、「落ち着いたら研究室に顔を出してくれ」と言い置いてガラス越しのユーリスが遠ざかった。

「あ――」

 咄嗟に腕を伸ばし、扉の隙間からユーリスのローブの裾を掴んだ。

 ユーリスはフードを被っていなかった。引き留めたほんの一瞬、あの若い森を模した緑の瞳が目にとまった。

 刹那目を合わせただけで、心臓が一際強く、温かく鼓動する。

「休日が明けたら……来週からは、また研究室に行きます。だから――」

 待っていてくれますか?

 おずおずと囁いた言葉に、ユーリスは優しく頷いてくれた。

「……待ってるよ。リシャーナが来るまで、いつまでだって」

 ローブを掴んだリシャーナの白い甲を、ユーリスの細く骨張った指先が撫でるように触れ、最後にそっと握りしめられた。

 そのまま名残惜しむようにゆっくり離れると、ユーリスは今度こそ図書館を後にした。

 足音が遠ざかってから扉を閉めたリシャーナは、今しがた触れたユーリスの体温が残る指先を抱き、静かに唇を寄せた。

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