ユーリスとこうして踊るのは何年ぶりのことだろう。
ゆるやかなリズムで始まった音楽に合わせてステップを踏みながら、リシャーナはぼんやりと思った。
昔はユーリスの貴族としての完璧さに苦手意識を持っていたから、ただただ粗相をしないようにと必死だった。
彼のことを知れた今なら、パーティーも楽しく過ごせる。ここに来る前のリシャーナの中には、そんなワクワクした気持ちがあったはずだ――。
リシャーナの腰を支える腕や、繋がった手の強さはしっかりした男性のもので、以前は感じなかった新鮮さやドキドキ感がある。けれど、透明な膜を一枚介したように世界が遠く見える。
ドキドキする鼓動も、すぐそばで感じるユーリスの体温や気配も、周囲の人の視線、流れる音楽。すべて輪郭をもたない曖昧さで感じられた。
心が、体から離れてしまったようにぼうっとしている。
ターンのときにチラリとさっきまでテシャルたちがいたところを見たが、すでに二人の姿はない。さすがに二階へ向かったのかもしれない。
そのことに、胸がほんの少ししくしくと痛んだ。
(まあ、もう私には関係ないことか……)
きっとさっきの言葉はハルゼラインの醜聞になる。大きな声ではなかったとはいえ、さすがに近くにいた者には届いているだろう。そうなれば貴族間では瞬く間に広がることだろう。
ハルゼラインの子女が家との縁を切りたがってるとか? もしくは誰かがユーリスのことに気づいて、駆け落ちなんて言い出すかもしれない。恋愛関係のゴシップは、とくに話が回るのが早い。
そうなったら、両親も兄もリシャーナを追い出すことだろう。
学生時代であれば困り果てただろうが、今のリシャーナには生きていくための術がある。だから、追い出されたって大丈夫だ。
(でも、ユーリスにまで火の粉が飛ぶのは申し訳ないな……)
ユーリスなら気にしないでと笑って許しそうなものだが、巻き込んだのはリシャーナである。
今さら貴族間での噂の矢面になど立ちたくないだろうに。けれど、それを平気な顔で許すという姿が簡単に思い描けた。そして、そんなユーリスに甘えそうになっている自分に気づき、慌てて我に返った。
改めてあとで謝罪をしないと。そう心に決めてから、リシャーナはふと思った。
(意外と限界だったんだな……私って……)
例えば心の容量がコップのようなもので、感情が水のような液状だったなら。
リシャーナはずっと、自分の感情――水面は静かで波立たぬから平気なのだと思っていた。なにも感じず、動じていないのだと。
本当はそうじゃなくて、水が暴れないようにぐっと押さえつけていただけで、表面だけが凪いで静かだっただけなのだ。
水は少しずつかさを増していたのに、波立たせないことにばかり注力していたから、こんなにギリギリになるまで気づかなかった。
今のリシャーナは、つんと指で一突きでもすれば零れてしまいそうなほどに
きっともう、これ以上は堪えることは出来ない。だから、諦めてハルゼラインと距離をとったほうがいい。
さっきのテシャルへの言葉は完全に勢いだったけれど、無意識下でこれ以上はもう無理だと察知したのだろう。前なら絶対に口に出せなかった言葉は、今は簡単に自分の口から飛び出した。
踊りの最中、不意に視線を上げるとユーリスとかち合った。
たまたまじゃない。ユーリスがずっとリシャーナを見つめていたのだ。
さっきのテシャルに言われた言葉を気にしているのがありありと分かった。証拠に、弱った彼の目が、罪悪感と心配を混ぜ合わせたように揺れていたから。
ユーリスのことだから、私の誘いを断われば良かったなんて思っているのかな。
きっとそうだ。そんなユーリスの優しさが嬉しくて、一方でそんなふうに心労をかけていることに申し訳なさが募った。
気にしないで。そう言いたくて、リシャーナはそっと口の端を上げて笑みの形を作った。
けれど、上手く憂いを取ることは出来なかったようだ。緑の瞳には、さらに痛みが走ったように見えた。
「リシャーナ、いいのかい? あんなことを言ってしまって」
ようやく口を開いたユーリスの囁きに、リシャーナはドレスを翻しながら「いいんです」と答えた。
「兄や両親はハルゼラインの家名に傷がつくことが嫌なんです。――まあ貴族としてはそれは当たり前でしょうが」
「こんなことできみを勘当するほど家名に傷がつくのかい? きみの優秀さを考えれば、誇らしく思うことの方が多いだろうに」
渋い顔をしたユーリスに、思わず笑ってしまった。
「優秀なだけでは、貴族とはいえないでしょう?」
その芯に、貴族としての理念や品格が伴っていなければならない。リシャーナには、その根本的な部分が欠如している。
悟らせないように散々外面を取り繕ってきたのだ当たり前だが、ユーリスは随分買いかぶっているらしい。ただの平凡な少女――自分の正体をよく知っているリシャーナからすれば、彼の言葉はおかしく思えた。
だから、リシャーナはつい口を滑らせてしまった。とうとうテシャルに言ってしまったせいで、気が緩んでいたのもあるかもしれない。
怪訝そうなユーリスに、リシャーナは苦笑して目を伏せた。
「ごめんなさい。あなたの前でこんな話をするのは無神経でしたね」
「いや。俺は気にしないが……撤回に行くなら今の内に行ったほうがいいと思う」
チラリと階段に目を向けたユーリスに、首を振って答える。
「行く気はありません。――いつか、訪れる未来ですから」
「リシャーナがいつか勘当されるって言うのか?」
「はい。そうです」
自分の限界を悟った今では、どうせ今日撤回したところで近いうちに耐えきれなくなることが目に見えている。
それにあれだけ両親からの結婚話に拒否感を持ったのだ。もうあの人たちの思うような貴族令嬢としての人生は送れない。
「テシャル様やご両親が、そうすると?」
「はい」
なんの疑いもなく頷いたリシャーナは、心からそう思っていることがよく分かった。決して不安に駆られたり、卑屈になって言っているわけじゃない。それが分かったユーリスは、理解しがたいとばかりに眉をひそめた。
「さっきのテシャル様の様子を見るに、きみのことを排斥するようには見えないが……」
「……そんなことないんですよ」
皮肉げに嗤ったリシャーナに、ユーリスも一歩も引く気がないと分かったらしい。ユーリスは苦々しく唇を噛んで目を伏せた。
「たった一人の
独りごちた言葉が、ぼんやりしていたリシャーナの胸に深く、冷たく突き刺さった。
――家族になる人だよ。
瞬間的に、あのときのもやもやした感情が沸き立った。
「私の
ユーリスの言葉を否定するように強く、しかし言い聞かせるように苦しく、リシャーナは呟いた。
目の前のユーリスに言ったのか。それとも頭に浮かんだ並び立つ二人の影に言ったのか、自分でも分からない。 足を止めたリシャーナに釣られ、ユーリスも立ち止まった。
周囲のペアが突然止まった二人を不思議そうに見たが、すぐに曲も終わりを迎えたのでそれ以上視線を集めることはなかった。
ふとフロア全体を照らすように照明が灯り、明るさが戻った。そのときの一瞬の目の眩みを利用し、リシャーナはユーリスの手を逃れてざわめきを取り戻したパーティー客の人混みに紛れた。
そのまま扉を出て、開放されていた庭園へと小走りで向かった。
石畳の
背後からは遅れて足音が続き、リシャーナと少し距離を開けて止まった。
放っておいてくれたらよかったのに。
そう思ったけれど、彼なら絶対にそうはしないとも分かっていた。
「ユーリス……私ね、絶対にハルゼラインの家族に――貴族の人に受け入れてもらえることなんてないんだよ」
誰がいるかなんてよく理解していたリシャーナは、振り向きざまに笑いながら言った。
庭園には常に緑を楽しむためか常緑樹が多く植えられていた。パーティー会場は木々に遮られ、微かに届く喧噪さえも噴水の水音で覆われてしまって遠いものになっていた。
月明かりだけが照らす庭園に、石畳の道が白くぼんやり浮かび上がっている。その白い道には、リシャーナともう一つ――ユーリスの影が浮かんでいた。
「リシャーナ……?」
背筋の伸ばし方も、立ち姿のときの手の位置だって無遠慮な振り向き姿と、他者からどう見えるか計算には入れない気の抜けたような笑顔やドレスの翻し。なによりその砕けた口調に、ユーリスは困惑を浮かべた。
「いくら厳しくたって、貴族にだって家族への愛情があるって分かってるんだ。でも、それは相手も貴族である場合でしょ? ユーリスの家族がユーリスを愛するみたいに、ハルゼラインの人が私を愛することはないんだ」
「きみだって、貴族じゃないか」
ガラリと変わったリシャーナにまだ戸惑いを残しつつ、ユーリスが問いを投げた。リシャーナは侘しい笑みを浮かべながら、首をゆるゆると振って否定する。
「じゃあ、きみはハルゼラインの養女なのか?」
「ううん。たしかにこの体には貴族の血が流れてるよ。正真正銘、ハルゼラインの二人の子ども」
「それなら――」
「でも、中身が伴ってないの」
言葉を遮ったリシャーナに、「えっ」とユーリスが呆けた声を上げた。
「私はリシャーナになる前、ここじゃない世界で平凡な一人の女の子だった。貴族でもなんでもない。オルセティカで言うなら、平民の女の子……鈴っていうのは、そんな私のたった一人の妹なの」
「……は?」
「信じられないでしょ? でも本当なの。貴族じゃないって分かったら捨てられちゃうから、頑張って貴族らしくしてだけで、本当の私はこんななの」
あんまりに驚くから、おかしくなってきてしまった。振り切れたとも言うかもしれない。
「ユーリスは誤解だって言うけど、本当の私なんて家族は絶対に受け入れてくれない。よく知ってる」
頭の芯から冷えていく恐怖の感覚。見下ろされた視線の冷たさで、体が押しつぶされそうなほどに感じたプレッシャー。
思い出しただけで体が震えるような――そんな恐ろしい体験。
「……貴族じゃないから、きみが受け入れられないと? 家族になれないって言うのか?」
見ているほうが切なさに胸を痛めるようなリシャーナの笑みに、ユーリスは我知らず一歩踏み出した。そうしなくてはならないとでもいうように。
理解し得ない様子のユーリスに、リシャーナはさらに続けた。
「この世界ね、私のいた世界ではゲーム……えっと、本みたいな物語になってるの。その本ではサニーラがね、主人公なんだよ」
「サニーラが?」
「そう。いつだって明るく前を向く、誰かのためにどんなに大変でも走り続けられる女の子。私は多分、彼女のことをこの世界の誰よりもよく知ってるんだ」
途端、ユーリスは「ああ――」と納得いくように息をついた。
「だからきみは、サニーラに対してあんなに傍観を貫いていたのか……」
「うん。でも、普通はこんなのおかしいでしょ? 大丈夫。おかしいことだって、私が一番よく分かってる。だから私は、この世界では異物でしかないの」
その発言に思うところがあったのか、ユーリスの片眉がぴくりと上がった。
「きみはっ! ――例え中身が平凡な少女だって、きみの家族は……少なくても兄はきみを見捨てはしないんじゃないか?」
ハッとなにかを言いかけ、しかしどうにか飲み込んだユーリスが静かにリシャーナを諭した。
「そんなこと絶対にないよ」
「どうしてそう言い切れる」
「それは、……そうなるって分かってるから」
「話をしたわけじゃないのに、分かるのか?」
「……そうだよ!」
詰め寄るように言われ、思わず怯みつつも頷く。少しの沈黙の末、ユーリスが「家族に話をしてみるのはどうだ」と言った。
「そんなこと出来るわけないでしょ!?」
「両親には難しくても、せめてテシャル様にはどうだ? 彼は、きみのことを思っているように見えた」
「無理だよ! それで信じてくれなかったら? 信じたって、
私に一人で、その孤独と苦しみに耐えろって言うの!?
距離を詰めたユーリスから逃げるように、リシャーナが後じさって悲鳴を上げた。
走ったときよりも息を荒げたリシャーナが、それより――とユーリスへ問う。
「……ユーリスはこんな話信じるの?」
「ああ」
「じゃあ、分かってよ……あの人たちとは一応血が繋がった肉親で、そんな人に拒絶されるのは私だって辛い。それに、この世界にはそんな私を受け入れてくれる人もいない……私は弱いから、一人じゃ耐えられないよ……」
泣き言が、月明かりに溶けていく。
「この世界に、本当にきみを受け入れる人は……愛している人はいないと。本当にそう思うのか?」
しばらく沈黙が落ちて、不意にユーリスがひどく淋しそうに呟いた。
石畳に落ちた瞳を上げると、ユーリスが力ない様子で立っていた。届いた声は細く小さかった。風にのせられて、ようやくリシャーナのところに届くほどだ。
どうしてか分からない。けれど、彼が傷ついているのは分かった。
「そうだよ。私はこの世界の人間じゃないから、愛されることなんてない」
緊張しつつも答えれば、ユーリスが大きく顔を歪めた。やるせなさと怒りがない混ぜになったような顔だ。
(どうしてそんな顔をするの……泣きたいのは私のほうなのに……)
ふとその表情に見覚えがある気がした。少しの逡巡後、マラヤンだと気づいた。別れを告げられたとき、サニーラとのことを疑ってかかるリシャーナに、彼もこんなやるせない顔をしていた気がする。
どうして今、思い出したんだろう。
珍しく感情を前面に出したユーリスに狼狽えている内に、いつの間にか彼はすぐ目の前まで来ていた。
「きみだって、今!この世界で生きてるだろう!?」
両手を握ったユーリスの叫びと同時に、木々がざわめいた。痛いほどに握られた手の力強さが、彼の感情の大きさを物語る。
言葉は、衝撃となってリシャーナの体を貫いていた。
なにを当然のことを。そう思った。リシャーナは今ここで生きている。それは当然の事実だ。
当たり前のことなのに、なぜ自分はこんなにも
「そんな当たり前な……」
喘ぐように言えば、「そうだろう!?」とユーリスがさらに言葉を重ねた。
「生きている限り、誰からも愛されないなんて……そんなことはあり得ないよ、リシャーナ」
「でも、私は別で」
「きみだって同じだ。誰からも受け入れらず愛されないなんてない。ましてや、きみであればなおさら」
いやにキッパリと言い切られ、むくむくと反発心が生まれた。
なんの根拠をもって、ユーリスはそんな無責任な慰めをするというんだ。
私が今まで、どんな思いで生きてきたと思っているのか。
自分は誰からも愛されない。そんな世界が嫌で、淋しくて、苦しくて。愛してくれた家族が恋しかった。
いつだって穏やかに見守ってくれている父と母。こんな私を慕っていつも後ろをついて回る妹の鈴。
私を愛してくれていると、なんの疑いもなく信じられる人たち。
その人たちと引き離されたこの世界は、リシャーナにとってあまりに冷たくて淋しいところだ。
苦しみや淋しさは、マラヤンのおかげで一時和らいだけれど、結局彼は離れていって、それでリシャーナは「ああ、やっぱり」って落胆とも諦めともつかぬ感情で改めて思ったものだ。
やっぱり私はこの世界で愛されることはない。だから、淋しいなんて思うもんじゃない。
淋しいとも苦しいとも思っちゃいけない。愛のないこの世界が、冷たいとも思ってはいけない。だってこれは当然のことなんだから。
そう言い聞かせて生きてくることがどれだけ辛かったか。ようやく諦めて、もういいやと思えて――それなのにどうして今そんなことを言うんだ。
リシャーナは怒りさえ湧いた。
「なんの根拠があってそんな理不尽なことが言えるのさ!」
乱暴に手を振り払い、リシャーナは喉がすり切れてもいいとさえ思って叫んだ。――が、すぐにその手を掴まれて引き寄せられた。
「俺が、きみを愛してるからだ!」
波紋が広がるように、ユーリスの言葉は庭園に木霊した。
しばらくは噴水の水音だけが響き、言葉をなくしていたリシャーナがどうにか持ちこたえたところで「え……」という囁きにしかならなかった。
「俺が誰彼構わずそんな話を信じると思うか? リシャーナ、きみだからだよ。愛しているきみだから、俺は信じられるんだ」
抱き寄せられた腕の中、顔を上げれば鼻先が触れ合うような距離でユーリスが言葉を紡ぐ。ユーリスはあまりに必死な様子で、どうにかリシャーナに伝わって欲しいと苦しみ喘ぐようだった。
「万が一、テシャル様やご両親が受け入れなくても、俺がその分きみを愛してる。きみの元の世界の家族の代わりにはなれないだろう……それでも、どうか愛されないなんて淋しいことは言わないでくれ」
祈るような懇願は、切なく甘い響きを持っていた。
月が浮かぶ夜空の下で、いつもより暗い色の緑の虹彩が潤む姿を、リシャーナはただただ呆然と見ていた。
――私はこの世界の異物で、決して受け入れられたり愛されたりすることはない。
そう言い聞かせて平気な顔で過ごしてきた。それが当然なんだと、思い込んできた。
けど、やっぱり元の世界を恋しく思う気持ちはなくならなくて。
ただ大好きなみんなにもう一度会いたいという郷愁だけではなく、その恋しさにはある願望が隠れていることを、リシャーナは本当はもっとずっと前から知っていた。
――誰かに愛して欲しい。
ハルゼラインの両親に、兄に。
一応肉親だなんて言ったが、本当はそんなの建前だ。
五歳まで愛された記憶がある。この十数年、今までいっしょに過ごしてきた。本当はあの人たちのことも家族だってリシャーナは思ってる。
だから、例え貴族として出来損ないだったとしても、受け入れて欲しい。愛して欲しい。
誰かに恋だってして、その人に愛を返して欲しい。そうして、幸せになりたい。
そんな当たり前にも思える贅沢な願いは、本当はいつだってリシャーナの心に種を蒔いて疼いていたのだ。
(だって、そうじゃなきゃこんなふうに思ったりしない)
心臓に火がついたように熱かった。バクバクと弾けんばかりに高鳴る鼓動が体中に巡って、全身で興奮して喜んでいるのが分かる。
歓喜の悲鳴が、喉の奥でひとりでに唸った。
(私を愛してる? ユーリスが、私を?)
嬉しい。嬉しい。それはなんて幸せなことなんだろう。
誰かに愛の言葉をもらえたことが喜ばしい。けれど、それが彼以外の誰かであればここまで昂ったような喜びを感じはしない。
(ユーリスだからだ……)
彼からの言葉だからこそ、リシャーナはここまで歓喜に震えているのだ。リシャーナには、ハッキリとそう分かった。
(私、ユーリスのこと好きだったんだ)
本当は今すぐに彼の背中に腕を回したい。抱きつき返したい。そして、もっと強く強く抱きしめて欲しい。
愛されているのだと、もっと実感したい。
心はそう願ってやまないのに、リシャーナの体は金縛りにでもあったようだった。縫い付けられたように、足が動かない。石にでもなったように、腕が重い。
喜びで舞い上がる心とは裏腹に、理性が警告しているのだ。
――本当なの?
ユーリスは本当に私のことを愛しているの?
疑念が、頭にこびりついて剥がせない。それは、時間が経つごとにどんどん大きく主張していって、あっという間に喜びを上回ってしまった。
ユーリスの世界は今はひどく狭いものだ。一緒に研究を進めるリシャーナや、その関わりで接するヘルサたち。そして、あれから定期的に顔を出している孤児院の人たち。
同じ年頃の女性なんてリシャーナぐらいしかいなくて、しかもリシャーナは彼に働き口を紹介した人間だ。
恩があることを、恋心だと勘違いしている――そんなことだってあり得るんじゃない?
そう思ったら、ますます信じられなくなった。
さっきまでの光が差し込んだような喜びが、そのままひっくり返ったような大きな恐怖となって硬直した足元から這い上がってくる。
「ごめんなさい、ユーリス……」
そっと胸を押しのけ、足先が床を擦るように後じさる。
こんなふうに彼の気持ちを疑うなんて、自分はひどいやつだ。そうは思っても、リシャーナは手放しに喜びに体を任せることなんて出来なかった。
そろそろと退きはじめたリシャーナに、ユーリスの緑眼にショックを受けたような痛みが走った。
それを目にした瞬間、リシャーナの胸も杭で打たれたようにズキンと痛む。
「私、どうしたって信じられないよ」
自分のせいで傷ついた目の前のユーリスから、そして自身の胸の痛みから目を逸らすように、リシャーナは素早く身を翻した。
背後から焦ったように自分を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り向きもせずに庭園を駆け抜けていくと、胸の痛みはどんどん激しくなった。
今すぐ引き返したかった。
嘘だよ。本当は私も愛してる。
そう言って、泣きながらユーリスに手を伸ばしたい。
(でも、出来ないよ……!)
ドレスの裾なんて気にせずに荒々しく馬車に乗り込んだところで、リシャーナの目からどっと涙が溢れ出した。
わっと顔を覆って、この世の終わりみたいに泣き出す。
意志と反して逃げてしまったからか、それを咎めるように心が激しく痛んでしょうがない。
それでも、リシャーナは来た道を戻ることは出来なかった。
(もしマラヤンみたいにユーリスまで離れていっちゃったら……?)
ひどい話だが、マラヤンの時は彼がリシャーナのことを好きだと言ってくれたから、彼を愛したのだ。けれど、今回は違う。
ただ気づいていなかっただけで、この恋情は、ずっと自分の胸の中にあったものだ。
愛してると言われる前から、ユーリスに惹かれていたのだ。心の底から、リシャーナは自分の意志で彼のことを愛している。
そんなユーリスがもし、マラヤンのように離れていってしまったら――。きっとそのときの痛みは今の比ではないだろう。
幼いころから虚勢を張ってどうにか誤魔化してきた傷だらけの心なんて、きっと簡単に粉々に壊れてしまう。
それが恐ろしくて恐ろしくてたまらないのだ。
突然戻ってきたリシャーナに気づいた御者が、待機所から慌てた様子で駆けてきた。小窓を開け、どうにか取り繕った声で家まで帰して欲しいと告げ、そしてユーリスのための馬車をもう一台用意するように頼んだ。
一度待機所へ引き返した御者が戻ってくると、少しずつ馬車は王宮を離れた。
ユーリスとの距離が少しずつ離れていく。そう思うと今度はしくしくと胸が切なかった。
彼の居る王宮を一度窓から眺め、そしてカーテンを閉め切ったリシャーナは声を殺して泣いた。