どうして兄がまだ
てっきり入場して早々に二階フロアに上がったものだとばかりに思っていたのに。
しかし、シャンデリアの眩さの下で輝く白金色の髪も、リシャーナと同じ深い碧の瞳も夢ではない。
想定外のことにリシャーナは驚き動揺を示したが、数秒もせずに持ち直して流れるように頭を下げた。
「お兄様、この度はご婚約おめでとうございます」
書面では伝えたが、面と向かって会うのは婚約が決まって以来初めてである。
事前に話していなかったのに、ユーリスは欠片も狼狽えることなく、リシャーナに合わせて優雅な礼をとった。
二人から恭しい祝福の言葉を受け、女性は恐縮しつつも照れたようにはにかみ、テシャルは壁を張ったような妹の仕草に苦笑した。リシャーナと同じ碧眼に刹那、
「彼女が私の婚約者で、リシャーナと家族になるタリアだ」
家族になる? 血縁の
ゾワリと、心臓を直に撫でられたような嫌悪感が瞬間的に膨れ上がった。
「初めまして、リシャーナ様。こうして会えて嬉しいです」
瞳と同じ橙のスカートを広げ、タリアは美しいカーテシーを疲労した。ユーリスよりも色の濃い焦げ茶の巻き毛がふわりと舞う。
そばかすの散った頬にわずかに赤みが差し、リシャーナへの友好的な言葉に嘘がないことが分かった。
自然的で、けれど品のある礼だ。少女のような愛らしさと、けれど大人の女性としての上品さを持ち合わせた姿は、まさしく貴族として呼ぶに相応しい。リシャーナの胸の内の嫌悪が、みるみる萎んでいった。
「タリア様、家族になるのですからどうか敬称は外してください」
「そうだよタリア。妹が出来ると楽しみにしていただろう? 敬称をつけて呼ぶ家族がいるかい?」
リシャーナとテシャルから言われ、タリアは照れくさそうにしながら「それじゃあ、リシャーナちゃんと呼んでも?」ともじもじと呟く。
「テシャルから話を聞いていて、早く会ってみたかったの」
「お兄様が私の話を?」
「ええ。頭が良くて可愛い妹がいるんだって、よく私に聞かせてくれていたのよ」
――可愛い、妹?
タリアが教えてくれた言葉に、リシャーナの息が一瞬止まった。生ぬるい感情が胸に集まってズクンと疼いた。
そんな愛情の含まれた紹介をされるほど、自分は兄と仲が良かっただろうか。そう思ったが、冷静な頭が囁いた。
(これから結婚する相手に、家族と仲が悪いとは告げないだろう)
納得すると、今度は冬の風が吹き込んだような寒々しさが胸を通り抜けていく。
いかにテシャルがリシャーナのことを語っていたか、タリアは悪戯っ子のように笑って次々教えてくれた。痺れを切らしたテシャルは、焦りと恥ずかしさを混ぜた顔で「タリア」と彼女を呼んで窘める。
そのとき、リシャーナの顔色を窺うようにテシャルがチラリと視線を投げた。
(べつにそんな目で見なくても、嘘だってバラしたりしないのに)
そういじけたように思いつつも、完璧な笑みを載せながら「もうお兄様ってばどんなお話をされたんです?」と困った妹の振りをする。
テシャルはそれを望んでいたんだろうに、なぜか驚いたような――そして傷ついたような顔でぎこちなく「すまない」と答えた。
「それよりもお二人はこのフロアにいてよろしいのですか? 二階の方々へのご挨拶はすでにお済みなのですか?」
兄たちは今日はハルゼライン家の代表として来ているのだ。いくら妹に自身の婚約者を会わせるためといっても、悠長にしすぎな気もする。
「いや、それはこれからだ。リシャーナとは久しぶりだったからね。顔が見たかったんだけれど……」
不意にテシャルの雰囲気が鋭くなった。
さっきまで困ったようにおろおろしていた碧眼がスッと細くなり、リシャーナの隣で置物のように静かになっていたユーリスへと向かう。
リシャーナと同じ青い瞳が向けられると、ユーリスの体が強張った。腕を組んでいたリシャーナにしか分からない程度の動揺だ。けれど、完璧な装いを振る舞うユーリスにしては珍しい。
「お前が父と母の申し出を断わったのは聞いていた。けれど、なぜこの男をパートナーに選んだ?」
あの手紙のことを、両親から兄へ伝わっているのは想定内だ。しかし、今の口ぶりからするとユーリスの諸々の背景まで把握していそうだ。
聞いたこともない兄の低い声を前に、リシャーナの体も固くなった。
「大々的なお披露目はまだだったとしても、お前たちが婚約を結んでいたことを知る者も多い。婚約破棄後に行動を共にすること自体が信じられないのに、まさか貴族籍を抜かれ、家から勘当された者とこうしてパーティーに出るだなんて……」
言葉を句切ったテシャルは、頭が痛いとばかりに手で額を押さえ、長く息を吐いた。――リシャーナに、呆れているのだろうか。
その隣では、おろおろした様子でタリアが自身の婚約者とリシャーナたちを見比べた。
今の状況だけを見てテシャルを窘めないということは、大まかな事情を彼女も把握しているのだろう。
(家族になる人だから……?)
そう思うと、またもやついた重たい感情が体の中で燻った。
「リシャーナ、貴族の中で一度噂が立てばそれは瞬く間に広がってしまう。そうなれば、お前に好奇な目が向かってしまう」
周囲に聞こえないように声量を落とした声で続けた兄に、リシャーナは目を伏せて粛々と聞いていた。
懇々と語る兄の言葉が、自分を心配しているようにも聞こえて口を挟むことが出来なかった。軽率だったという兄の言葉も、理解はしているから余計に。
「テシャル様、申し訳ありません。全て私の不徳のいたすとろこでございます。リシャーナ様は私を不憫に思い、手を差し伸べてくださったのです」
耐えきれなくなったのはユーリスのほうだった。割り込むように頭を下げたユーリスに、リシャーナはぎょっと肝を冷やした。
――違う! 私がユーリスを誘ったの!
そう前に出ようとした矢先、テシャルがユーリスを見下ろす表情のない面持ちにたちまち息が出来なくなった。
青い瞳は、まるで深海のように温度がない。自分の知る兄とは思えないほどに冷ややかで、その姿が記憶の中の母と重なった。
蘇った恐怖で体が固くなった。カタカタと小さく震えてリシャーナに気づき、気遣わしげなユーリスの瞳が向けられた。
「本来、きみが断わるべきところだろう。ユーリス、きみも貴族であったのなら、君たち二人をどういう目で見てくるかある程度予想がついたはずだ」
「申し訳ありません」
リシャーナを気にしつつ、ユーリスはもう一度深く頭を下げた。それを、テシャルはため息交じりに一瞥した。
周囲の者が、少しずつ四人の間に流れる険悪さに気づき始めている。それをテシャルも察知していた。
「リシャーナ。これ以降、周囲に誤解を与えるような行動は慎みなさい。助手も、できればほかの者を探しなさい」
いいね? と言い聞かせるように有無を言わせぬ声で問われ、咄嗟に頷きかけ、はたと制止した。
――私、それでいいの?
そりゃ、あのときのように貴族らしく行儀の良い姿勢で謝罪を申し出れば、この場は丸く収まるだろう。
しかし、ユーリスが全ての咎を向けられた状態で、それを受け入れるのか?
私は、それで本当にいいの?
反芻する疑問に、我知らず体の震えが止まっていた。
頭を支配していた母の面影が遠くなり、代わりに浮かぶのは前の世界の人たち。
――糸田さんて馬鹿だよね。私のことなんて放っておけばよかったのに。
ふと和らいだ表情をした椎名。
――さすが私のお姉ちゃんだよね!
得意げに言ってみせた鈴のこと。
まざまざと思い出される、家族や友人たち。
整えるように深呼吸をする。怯えていたリシャーナの碧眼は、瞬きとともに強い光を帯びた。
「お兄様」
二階へ向かおうとしていたテシャルを呼び止める。振り返った兄はリシャーナの真っ直ぐな視線とかち合うと、唖然としたように瞳を丸くした。
ユーリスもタリアも、引き留めたリシャーナのことを困惑げに窺っていた。
「ユーリスのことを助手へ誘ったのは、私自身です。彼の言うように憐れんだだけ……などということは、決してありません」
リシャーナの隣で、ユーリスが息を呑んだ。
キッパリと言い放ったリシャーナに、テシャルの形の良い唇が戦慄いた。小さくなった碧眼が、リシャーナに釘付けになって離れない。
驚きに染まる兄の表情は、子どもが一瞬で大人になったのを見たような――そんな驚愕と、新たな気づきを得たようだった。
「このパーティーに誘ったのも、苦言を呈したユーリスを説き伏せたのも私です。お兄様の言うことも理解は出来ます。軽率だったという自覚もあります」
そこまでひと息で言って、リシャーナは息をついた。そしてほんの少しの躊躇いとともに、再びテシャルをひたと見た。
「私がハルゼラインの名を傷つける恐れがあると判断したならば、どうぞ見捨ててください」
「な、リシャーナ!?」
「今日だって、お父様とお母様から頼まれて私のことを探していたのでしょう? どうぞあの二人にもお伝えください」
「リシャーナ、それは違う!」
珍しく狼狽えた兄の姿に、リシャーナも意固地になって首を振った。もういいのだと言わんばかりに。
そのとき、会場に流れていた演奏が変わった。人知れずホールの端に人が集まり、中央にスペースが出来る。そこに、若い男女のペアが何人も手を取って向き合い始めた。――余興であるダンスの時間だ。
照明が中央へ向かうもののみに絞られ、リシャーナたちの周りも暗くなる。
ふと暗くなった視界にテシャルの目が一瞬天井に向かった。そのすきに、リシャーナはユーリスの手を取ってホールの中央へと歩き出した。
「リ、リシャーナ?」
「ダンスの時間です、ユーリス。こういう場では若い者が積極的に踊らなくては」
背後から兄が呼ぶ声が聞こえた気がしたが、構わず人波を抜けて照明を浴びながらユーリスと向かい合って両手を繋いだ。
ふと来た道を辿るように目を向けると、肩を落としたテシャルを慰めるタリアの姿が見えた。
その仲睦まじい様子に、チクリと胸が痛んだけれど、もういいのだと振り切った。
あのままユーリスに罪を被せたままにしておけなかった。誇らしいと言ってくれた妹に、胸を張れる姉でいたかった。と同時に、リシャーナはもう解放されたいとも思ってしまったのだ。
失望されて追い出されることを恐怖し続けるより、いっそもう縁を切って終わりにして欲しい。
――リシャーナ、あなたが奇異の目で見られてしまう。
――お前に好奇の目が向かってしまう。
手紙の中で父や母が言う度に、兄の言葉をきいたときに、もしかしてと期待が頭をもたげるのはもうやめたいのだ。