目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第20話

 週明けにユーリスとともに王立図書館へ向かったところ、目当ての絵本が無事に見つかった。

 ネノンを通して連絡をしてもらっていたこともあり、事情を話すとスムーズに許可が取れ、持ち出すことが出来た。

 役に立てばと、調査に関わっているヘルサ経由で騎士団に提供してもらったところ、その翌週には捕獲に成功したと連絡が入った。

「そこまで攻撃性の高い魔獣じゃなかったからね。さほど手間取らずに捕獲できたみたいだよ」

 わざわざ報告に来てくれたヘルサの言葉に、リシャーナとユーリスはほっとした。

 魅了魔法は無防備でいるほど効きやすい。反対に、来ると分かって身構えていれば、それなりに対処が出来るものなのだ。

 自分の油断が招いたことではあったが、結果として自身の経験が役に立ったことにほんのり救われた気持ちだ。

「どうしてチーチャムがあそこにいたのかは分かっていないんですよね?」

 ユーリスの問いに、ヘルサは渋い顔で頷いた。

「随分と昔に絶滅したはずの魔獣だからね……召喚魔法で呼び出した、っていうのが有力だけれど、時間を越えての召喚だなんて並大抵の魔力では出来ないはずだ」

「仮に召喚魔法だったとしても、どうしてチーチャムを召喚しようとしたのか……目的も分かりませんよね?」

 ヘルサのいうように召喚魔法というのは、膨大な魔力を使うものだ。

 本来は何人もの魔力保有者が協力し合って行う。

 しかしそれは、同じ時間軸に存在する無機物や生物に関してのことで、現在絶滅した生き物を生存している時間軸から現代に召喚するとなると、さらに膨大な魔力が必要となるだろう。

 召喚魔法とは、本来国の騎士団など組織単位で行われるもので、それはひとえに、そうでなければ必要な魔力を補うことが出来ないからだ。

 よく使われる手段としては戦争だろうか。

 相手の陣営内に凶暴な魔獣を送り込むといったひどい使われ方をしていたこともある。

(でも、国単位で使うようなものを一体誰が……?)

 決して一個人や、一つの家系だけで可能とは考えにくい。

 しかも、それほど苦労して喚びだしたのがチーチャムとはどういうことだろう。

 リシャーナが訊ねれば、ヘルサはいくつかの仮定を語ってくれた。

「考えられるとするなら三つかな……まずあの魅了魔法が必要だった。次に、チーチャムの雑食に目をつけた」「チーチャムは雑食なのですか?」

 あの小さくて可愛らしい姿からは想像出来なくて、思わず声に出てしまった。

 ヘルサはこくりと頷いて続けた。

「チーチャムとチムシーとの共生関係はそれが軸になっているんだ。まず、根を張って動けないチムシーの代わりにチーチャムが餌をおびき寄せる。その餌からチムシーが魔力を吸って動きを奪う。魔力を失った新鮮な肉を、チーチャムが食べるというわけなんだ」

 追加で説明してくれたヘルサによると、チーチャムの牙は骨さえ砕いてしまうほどで、つまり最後にはなにも残らないのだという。

 チムシーに捕らわれた経験のあるリシャーナから、さっと血の気がなくなった。

 たしかに魔力をなくして死にかけはしたが、体ごとバリバリと食われるところだったなんて想像していない。

(あのときユーリスがいてくれてよかった……!)

 改めてそう思いながら、隣にいたユーリスに礼を言うと、彼もほんのり青ざめた顔でこくりと頷いてくれた。

 と、そこでヘルサが口髭を撫でながら続けた。

「最後に、額にある特殊な鉱石だ」

「ああ……あの真っ赤な不思議な石ですね」

 思い出すように言ったユーリスに、ヘルサは大きく顎を引いた。

「そうなんだ。まだ完全な解析は済んでいないんだが、あの鉱石は魔力の干渉を受けないんだよ」

「つまり、魔法が効かないということですか?」

「うーん……説明が難しいんだが、物理的な攻撃は通るんだ。例えば魔法で水を生み出して捕らえたり、火をおこして攻撃したりね。ただ、魅了魔法やチムシーのもつような魔力の混乱、吸収といった魔法など、チーチャムの魔力自体に影響がでるものは一切効果を発揮しなかったんだ」

 驚きだろう? と、ヘルサは眼鏡の奥で瞳を輝かせた。

「しかもこれはチーチャム固有のものではなく、あくまであの鉱石が主となって効力を発揮していることなんだ。あの鉱石に触れた騎士にも、同じような効果が見られた」

「それは本当ですか?」

「ああ、もちろん! 私もこの目で見たので間違いない。もしかしたらチーチャムは、魔獣の生存競争に負けたのではなく、その鉱石の有用性から乱獲されて絶滅したのかもしれないよ!」

 ヘルサは興奮した口ぶりで語尾を上げた。

「たしかにその鉱石が目的、というのが一番可能性としては高そうですね」

 ユーリスの言葉に、リシャーナも同意を示す。

 このオルセティカ国は他国との戦争もなく平和であるが、同じ大陸の離れた国ではいまだ戦火の止まぬところもある。

 そして、戦況を左右するのは攻撃魔法の質と量だ。

 例え兵器や兵士の数で負けていたとしても、魔力保有量が相手よりも格段に多い少数先鋭の部隊が一つあれば、簡単に戦況など変わってしまう。

 それだけ魔法の存在というのは厄介なものだ。しかし、どんなに危険な攻撃魔法であっても、魔力がなければ使うことはできない。

 そのため、戦争においてはどれだけ相手に魔法を使わせないようにするかが重要であり、兵士そのものの精神に影響を与えて魔力のコントロールを出来なくするものであったり、魔力自体を乱したりなくしてしまって魔法を使えなくしたりする魔法や魔法具の存在が増え続ける始末だ。

 近年では、どれだけ相手国からの魔力妨害の被害をなくすか。ということが第一に勝利条件として提示されるぐらい、悩ましい話題となっている。

 しかし、チーチャムの鉱石を一つ、お守りのように懐に忍ばせておくだけで、その問題は解決だ。

 そう思うと、どこか戦争真っ只中の他国が、国がらみで召喚に臨んだとみるのが妥当だろうか。

(でも、チーチャムが発見されたのはオルセティカの王都近くだし……)

 逃げ出したとしても、果たしてオルセティカまでまで来られるものだろうか。

 どうにもその点が腑に落ちない。ユーリスも同じような考えなのか、釈然としないような顔で首を捻っている。

「しかもね、あの鉱石自体が魔力を宿す魔鉱石なんだけど、外から魔力を与えて石にとどめておくことが出来るんだよ! つまり、持ち運びの出来る魔力の貯蔵庫なんだ!」

 興奮した様子を隠さずにヘルサは言い募った。そのあまりの利用価値の高さに、リシャーナとユーリスは唖然としたように口を開いてしまった。



 チーチャムについて一通り報告を終えたヘルサは、るんるんと弾んだ様子で騎士団の元へと向かった。

 どうやらこのあと、チーチャムの魅了魔法についての実験を行うらしい。

 騎士団内ではグスウェルの討伐が最優先事項らしく、そちらに人員が割かれるとのことで、チーチャム出現に関する調査は一時休止とのことだ。

(カイリが教えてくれたとおりだ……)

 嘘だと思っていたわけでもないが、実際に騎士団が事態の収拾に向けて大きく動いているのを知ってしまうと、どこか落ち着かないような気持ちになる。

 図書館への道すがら、リシャーナはそんな不安を誤魔化すように足を速めた。

「ネノン、先日はありがとうございました」

 入室して早々に受付にいたネノンに本を渡しながら礼を言うと、「気にしないで」と軽い調子で言われた。

「今日は一人なんだね」

「ええ。ユーリスは研究室で別の作業をしています」

「そっか。まあ研究者なんて忙しいもんね」

 ネノンは追求せずにすんなりと納得してくれた。そして本の返却作業に移る。

 内心でギクリとしていたリシャーナは、彼女の平然とした横顔にほっと内心で息をついた。

 作業、などとそれっぽいことを言ったが、その実はただの書類整理である。

 しかも必要性もないような、リシャーナが思いつきでお願いしてしまった仕事だ。

 ヘルサが部屋を後にして二人になると、なんとなく居心地が悪い気がして研究室を出てきた。

 もちろんユーリスは一緒に来ると申し出たのだが、咄嗟にリシャーナは彼に仕事を任せてしまったのだ。

(あからさますぎたよね……変に思われてるかな……)

 そう悩んだのも束の間のことだった。だって、それで距離を置かれる分にはリシャーナにとって都合が良いことだからだ。

(ユーリスと一緒にいすぎなんだよね……だから少し離れただけでも気になっちゃうんだ……)

 多分、今までこの世界でこんなに誰かと密に接することがなかったから余計にそう思うのだろう。

 マラヤンとだって、こんなに近しく思えたことはない。

 再会時が、少しイレギュラーだったからだろう。今はユーリスは明るく健康的である。それなら、ほかの人と同じように壁を作り、距離を取るべきだ。

 この世界での、りシャーナが考える他者との正常な距離に戻さないといけない。

「あれ? 一冊足りないけどまだ読み終えてないの?」

「あ、すみません。それは部屋に忘れてきてしまって……また後日持ってきます」

 本当は途中で気づいたのだが、あんな勢いで研究室を出た手前、戻るのが気まずく思えたのだ。

 そのときにはもう図書館が近かったというのもあり、忘れた一冊は次回のときにしようと思い切った。

「へぇ、リシャーナが忘れ物なんて珍しいね」

「私だってたまにはこういうときもありますよ」

 とくに今日は元々くる予定もなかったのに、急に出てくることになったから余計だ。

 ネノンはなにが楽しいのかにんまりと笑いながらリシャーナを見ていた。

 からかう――というよりは、喜んでいるような、そんな不思議な雰囲気で、リシャーナは内心でますます不思議に思えた。

 (なにが嬉しいんだろ……? そんなに珍しいかな……)

 在学中は、とにかく貴族として弱みは見せられないと完璧を演じていた。ネノンからすると、そのリシャーナの印象が強すぎるのだろうか。

 自分の狙い通りに見られていたということは喜ばしいことだ。けれど、同時に虚しくも思えるのはどうしてだろう。

「そういえばさ、もうすぐ建国記念じゃない? 一緒にお祭り回らない?」

「もうそんな時期でしたか……」

 年が明けてそう経たず、オルセティカは建国を祝した祭りを開催する。

 有力貴族や、身分問わず国に貢献した者たちは王宮のパーティーに招かれ、市民たちは大々的な祭りを開く。とくに王都ではみなが祝福ムード一色になって、都全体が華やかな賑々しさでいっぱいになる日である。

 とくに街道には隙間なく露店が立ち並び、街の人々で通路が埋め尽くされるのだ。

 さすがにそんな人混みに入っていく勇気もなく、リシャーナはいつも寮の自室から眩しいほどの照明を遠目に眺めていた。

 ネノンは祝いごとやイベントごとは好きなタイプだが、あの群衆に行くのは気が滅入ると言っていたはず。それなのに、今年に限って誘ってくるなどどうしたというのだろう。

「今ね、街だと占いが流行ってるみたいなんだよね」

「占い?」

「そう。占い師がその人の魔力を読み取って、色んなことを占ってくれるんだって。しかも、一旦全部魔力を抜いて、もう一度体に充満させることで生まれ変わることができる、なんてスピリチュアルなものまであるらしいの」

「魔力はたしかに人によって気配は異なりますが、そんな占いに使えるようなものでもないと思いますが……」

 しかも一度魔力を抜くだなんて、一歩間違えば死んでしまうじゃないか。リシャーナは内心でぶるりと震えた。

 接触も出来ず、視認もだなんてやりたいができない。ただ漠然とそこにあることだけが分かる――それが魔力である。

 魔法の使用後にはさすがにわずかな痕跡が残る。それが色濃ければ人物の特定も出来るだろうが、その人自身を占うなんて出来るわけがない。

 血液であれば親子などの鑑定ができたりとさまざまな情報が読み取れるし、使用できる。だが、魔力は違う。

 個人個人で違いがあるということは分かっているが、あくまで体感的に気配が違うと分かるだけ。

 血液のように分析が出来るわけじゃない。魔法に関しては発展しているが、魔力に関してはまだまだ分からないことだらけなのだ。

 それは専攻しているリシャーナがよく分かっているのだ。

 暗に「それは占いをうたった詐欺では?」と懐疑的なリシャーナが告げると、ネノンはそんなの分かりきっていたのかカラリと笑った。

「いいじゃんいいじゃん。ああいうのは気分いいこと言われて前向きになるためにあるんだよ!」

「そんなに占って欲しいことでもあるんですか?」

 思わず訊くと、ネノンは眼鏡の奥できょとりと瞬いた。どうやら勢いで流行りものに飛びついたが、さほど深く考えてはいなかったらしい。

「どうしようかな……たしか娯楽小説だと大体は恋愛絡みが多いよね。さすがに国の行く末とか大きいことに興味は無いし……」

 ぶつぶつと考え込んだ独り言を聞き、リシャーナは彼女がどうしてそこまで興味を持ったのか察してしまう。

(読んだ本で占いが出てきたんだろうな……)

 それなら、ネノンがあの人混みの中でもわざわざ行きたいと言い出すだろう。

 内心で得心がいったとばかりにうんうん頷いていると、不意にネノンが顔を上げた。

「うん。やっぱりここは恋愛絡みかな!」

「お相手でもいるんですか?」

「いないけど……この先のこととか! もしかしたら出会いがあるかもしれないし」

 ネノンは軽い口ぶりでいうが、たとえいい人に出会えたとして、家のことも考えたら必ずその人と結ばれるとは限らない。

 だからこそ貴族の子女は、恋愛結婚に憧れつつも本気で出会いを求めたりはしない。――のだが。

(もしかして、ネノンは本気で恋愛がしたいのかな……)

 ネノンだって貴族の結婚に関しては十分に承知してるはずだ。だが、万が一今の発言が本気であるなら……。

 そしたら応援すべきなのだろうか、とりシャーナは真面目に悩んだ。

 リシャーナが真に受けたと察したのか、ネノンは慌てて弁明した。

「もちろんその相手と結婚できるなんて思ってないよ? でも少しぐらい恋愛の楽しさっていうのもさ、体験してみたいかなって」

 笑ったネノンからは、夢みる乙女のような切実さ――はなく、どうせなら体験してないと損じゃない? とでもいうような、後腐れのない望みに聞こえた。

「どうせ結婚相手なんて親が勝手に見つけてくるもんね。それがいつになるか分かんないし、ならさっさと適当な相手と遊んで楽しんでおくべきかなって」

 どうせ肉体関係はもてないんだから、長続きはしないだろうし。

 と、ネノンはなんでもないことのようにケロッと言ってのけた。

 その言葉に、リシャーナは少なからず衝撃を受けた。

 ネノンはほかの貴族子女に比べ、自身の夢ややりたいことにたいして諦めというものを知らない。

 だからこそ、こうして図書館管理者の職だって掴み取った。

 そのせいだろうか。ネノンはほかの者とは違う気がしていた。

 親の決めた結婚には反抗し、ずっと自分の夢を追い続けてくれるものだと、リシャーナは無意識にそい思っていたらしい。

 裏切られたような、そんな気持ちだった。

 けれどそんな感情を素直に表に出せるわけがない。

 そうですよね、とリシャーナは慣れたように笑顔を貼りつけて頷いた。

「あ、でもリシャーナは研究者として王宮のパーティーに呼ばれる可能性もあるよね」

「たしかに、その可能性もゼロではありませんね」

 本来王宮で開催される夜会などには、招待された貴族でなければ参加は出来ない。

 けれど、建国祭のような国の発展をより顕著に祝う場では、平民貴族問わず、その功績が国のためになると判断されれば招待される。

 そして、その枠に多く当てはまるのは研究者だ。

 リシャーナの生家であるハルゼラインももちろん招待されるが、参加は当主とそのパートナーである両親だろう。

 リシャーナが参加するとしたら、研究者として個人が招待されるしかない。が、ハッキリいうと招待されたくはない。

 より貴族然とした振る舞いをせねばならないパーティーの場が苦手なのはもちろんだが、両親と久方ぶりに顔を合わせることが気まずい。

 けれど、今それを正直に言うつもりはなかった。

 さっきの衝撃が尾を引いていて、リシャーナは早くこの場から退出したかった。

「それじゃあ、残りの一冊は後日返しに来ますね」

「うん、待ってるね」

 くるりと背を向けたが、背後でネノンが「あっ」と声を上げた。

 咄嗟に振り向くと、彼女は心痛を感じさせる暗い顔で窺い見てきた。

「あのさ、最近サニーラに会った?」

「サニーラですか? いえ、最後に会ったのは一ヶ月ほど前ですが……」

 それがどうかしたのだろうか。と、リシャーナは首を傾げた。

 サニーラと最後に会ったのは、医務室に彼女を運んだときだ。

 そのあと、リシャーナはほとんどユーリスと行動を共にしていたし、二人の接触がないように動いていたので顔を合わせていない。

 ネノンは、少し躊躇うように唇を動かし、そろそろと言った。

「この前会ったんだけど、サニーラってば医療班での仕事が上手くいってないみたいで、ちょっと思い詰めちゃってるんだよね……」

 詳しく聞くと、せっかく任された講義でも当たり障りのない授業しか出来ず、実践でも経験が浅いせいで思うように動けていないらしい。

 聞きながらリシャーナは、そういえば前会った時にそんなことを言っていたな、と思い出す。

(まだ悩んでたんだ……)

 てっきりサニーラのことだから、今ごろは状況を打開して要領よくこなしていると思っていた。

 束の間、それもしょうがないのかもしれないと、そう思った。

 学生時代は一つのことに専念できたが、さにーらは今は実践での治療と並行して講義の準備までしなくてはならない。

 慣れない環境化ではなおさら大変なのかもしれない。

「たしかに前に会ったときも似たようなことを言っていました」

 とくに、自己犠牲をしてでも他者を助けようとする優しい彼女のことだ。

 期待されているのに、結果を出せないのは心苦しいだろう。責任感もあり、真面目であるが故になおさら。

 思い詰めるのも納得出来る。

 けれど――。

 憂い顔で零したリシャーナだが、すぐに顔を上げてネノンを見つめ返した。

 リシャーナの碧眼には、友への心配ではなく、楽観的な軽やかな光が灯っていた。

「でも、サニーラですから。彼女なら大丈夫ですよ」

 だって主人公で、ヒロインなのだから。どんな逆境だって乗り越えていくのだ。

 一縷の心配もなく笑いきったリシャーナに、ネノンは目を瞠った。信じがたいものでも見るように、ネノンの視線はリシャーナに突き刺さる。

「珍しいね、リシャーナがそんなこと言うなんて……」

 そういうことに気づくのは、いつもリシャーナなのに――。

 珍しい――さっきも聞いた言葉だが、その時とは打って変わってネノンは呆然と囁いた。いっそ悲嘆さえ感じられそうで、リシャーナのほうがぎょっとしてしまった。

「心配してないわけじゃないですよ? けれど、サニーラは絶対に挫折したり、後ろを向くような方ではありませんし……」

「それは、たしかにそうだね……」

 同意を得られ、リシャーナはほっとする。けれど、どことなく腑に落ちない雰囲気を感じたので、ことさらに早く退出したくなった。

「それに今は騎士団でマラヤンも一緒にいますし大丈夫ですよ」

 なにかあればきっと彼がサニーラを助けてくれる。

 安堵の弾みでぽろりと口を滑らせたことに、リシャーナは気づかない。だってサニーラとマラヤンの関係は、リシャーナのなかでは当たり前のものだからだ。

 急にマラヤンが話題に上って訝ったネノンの様子にも、リシャーナは全く気づかなかった。

「あのさ、リシャーナってマラヤンと付き合ってたよね……?」

「……気づいてたんですか?」

 こくりと頷くネノンに、観念したように苦笑してリシャーナはつけ加えた。

「でも、学園を卒業してすぐにお別れしてるんです。なにより、私としてはマラヤンにはサニーラのほうがお似合いだと思うんです」

 未練なんてありません。一目でそう分かるように、リシャーナは綺麗に笑った。

 もし今後、サニーラとマラヤンが恋人になったりしたら……。そうしたら、サニーラともリシャーナとも友人であるネノンは居心地が悪く思うだろう。

 だからこそ、いつかのためのフォローだったのだが、リシャーナの思惑通りには受け取ってもらえないらしい。ネノンんの顔色は一向に晴れない。

 さすがにこの話題を長引かせる予定はなかったので、リシャーナはそれとなく笑顔で会釈をして図書館をあとにした。

 外に出てほっとひと息つけるかと思ったが、ちょうど出たところでユーリスが立ち尽くしていた。

 手元にはリシャーナが忘れてきたはずの本があって、わざわざ届けに来てくれたのだと分かる。

「ユーリス……来てたんですね」

「ああ……机の上に忘れているのを見つけたんだ」

「わざわざありがとうございます」

 受け取ろうとしたのだが、それよりも考え込んだ様子のユーリスが気にかかった。

「ユーリス? どうしたんですか?」

「すまない……さっきの話を聞いてしまったんだ」

「ああ……そんなに気にされなくても大丈夫ですよ」

 聞かれて困るような会話はしていない。

 けれど、ユーリスは安心することもなく、どこか観察するようにまじまじとリシャーナを見つめてきた。

「……かつてとはいえ、恋人だった者と友人が想い合うというのは複雑なものではないだろうか」

 零れたのは独り言のような呟きだった。言う気はなかったのだろう。

 ハッとしたように我に返り、ユーリスは慌て始めた。

「すまない! きみがあんまりあっさりと言うものだから、不思議だなと思って……」

「それは……」

 たしかに世間一般でいえばそうなのだろう。しかし、リシャーナたちに関していえば、本来はマラヤンとサニーラが想い合うのが必然なのである。むしろ、リシャーナとマラヤンの関係がイレギュラーなのだ。

 複雑に思うもなにもないのだが、それをそのまま説明できるわけもない。

 だからこそリシャーナは、微苦笑して「たしかにそういう方が多いかもしれませんね」と言葉を濁した。

「マラヤンのことが好きだったのは本当か……?」

 まるで尋問みたいに怖い顔でユーリスが訊ねた。

「もちろん」

 すかさず答えれば、聞いたのはユーリスのくせに面白くなさそうな顔をする。

「きみはあまり他者に対して未練や執着を持たないのだろうか……」

「……そんなことはないと思いますよ」

 十数年経ったって、自分は胸に宿る日本の家族への郷愁を忘れられないのだから。

 ふとよぎった家族の顔に、リシャーナはわびしい笑みを浮かべた。その表情に、ユーリスは心当たりでもあるように驚き、わななく唇で言った。

「スズ、というのがきみの未練の相手か?」

 胸を掴まれたような衝撃がリシャーナを襲った。

 弾かれたように顔を上げると、その勢いにユーリスが驚く。

「なぜ、その名前を……」

 恐怖と警戒が入り交じった声に、ユーリスはやってしまったと瞬時に理解した。

「違うんだ……チムシーの花の採取で洞窟に逃げ込んだだろう? そのとき、意識があやふやだったきみがその名前を呼んでいたんだ」

「……そうですか」

 まさか他者から名前を聞くことになるとは思えず、あからさまに動揺を露わにしてしまった。

 細く呼吸を整えて、リシャーナはニッコリと笑った。

「すみませんユーリス。私用事を思い出してしまったので返却をお願いしてもいいでしょうか?」

「あ、ああ。もちろん」

「今日はそのままお帰りいただいて大丈夫です。私もこのまま帰りますので」

 言うが早く、リシャーナはくるりと反転してやや早足で離れた。かすかに呼ばれたような気もしたが、脇目も振らずに寄宿へと戻る。

 自分で思うだけではなく、他者の口から名前を聞くだけでこんなにもその存在を大きく感じ取れるなんて……。

 自分の中で平面上にしか存在し得なかった世界が、ユーリスに認知されたことで立体的な世界を持ち、差し出された気がした。

 鈴の存在を、より生々しく感じてしまったのだ。リシャーナは、自分はそのせいで狼狽えているのだと冷静に分析していた。

 寄宿に着いて、半ば癖のように自室の郵便受けを確認すると、王宮からの封書が届いていた。

 今度ある建国祭でのパーティーへの招待状のようだ。

(ネノンには断わらないといけなくなっちゃったな……)

 手紙を手に階段を上っていると、ふと背後から呼ばれて立ち止まる。

 追いかけてきたのは、この寄宿の使用人の一人だ。

「ハルゼライン様、もう一通お手紙が届いておりました」

「ありがとう」

 受け取ると、使用人は恭しく一礼して去って行く。それを見送ってから、リシャーナは便箋を引っくり返して差出人を見た。そして目を見開く。

「どうして急に……」

 そこに書かれていたのはもう二年ほど顔を合わせていない両親の名前だった。

 弾かれたように駆け足で部屋に滑り込み、ペーパーナイフで封を切った。

 王宮からのものは思った通り招待状だ。そして、両親からの手紙はというと――。

 まず、建国祭のパーティーには、家を代表して兄とその婚約者が参加するということ。そして、リシャーナが招待されることについて祝福の言葉。

(なんだ……ただの報告か)

 そう思ったのも束の間だった。次の便箋に差し掛かったところでリシャーナの表情は凍り付いた。

 ――リシャーナ、あなたも学園を卒業してもうすぐ二十を迎えます。そろそろ結婚のお相手を決めてもいい頃だと思います。もし良ければ、建国祭でのパートナーはこちらで選出しますので、連絡をください。

 そんなことが母の筆跡で書かれていた。

 このままではリシャーナがほか貴族から奇異の目で見られてしまう。

 と、つらつらと書かれた心配事に、気づけばリシャーナはデスクから便箋を取り出して返事をしたためていた。

 目も耳も触覚も、全ての感覚が遠くに行ってしまったようにぼんやりとしていた。体の内側では感情がいっぱいいっぱいに蠢いているのに、それがなんであるかが上手く認識できない。

 ただ無心で筆を動かした。パートナーに関しては自分で見つけるので両親の手を煩わせるほどじゃない――結婚には一切触れず、そう書き殴った。

 したためたばかりの手紙を手に、リシャーナは部屋を飛び出して階段を下りた。部屋のベルで使用人を呼ぶことすら忘れ、律儀に一階まで降りて窓口にいた者に硬い声で郵便を頼んだ。

 そうして自室に戻ってきて寝室に入った途端、リシャーナはベッドに顔をうずめるように崩れ落ちた。

 膝にはカーペットの柔らかな毛が触れている。それなのにひどく心が冷たかった。

 水中から顔を上げたように、耳も目も一気に感覚が蘇った。

 怒りや悲しみがごっちゃになって体の中でひしめきあっている。大きな感情の波が、リシャーナの冷静な心をさらってしまった。

 体を、心を支配するのは、暴れだしたい激情だけだ。

 自分の喉奥で燻っているのが、呻きなのか嗚咽なのかすらも分からない。

 ただ、どちらにしろ今口を開くと感情のまま声を上げてしまいそうだったから、リシャーナはシーツを握りしめ、顔を擦り付けるようにベッドに項垂れた。

 分かっていたことだ。いつかは結婚しなくてはいけなくなることを。

 ザインロイツとの婚約が破棄になって早々に、次の相手が作られてもおかしくはなかった。むしろ数年も待った両親は随分と優しいものだ。

 どうにか自分の中に落とし込もうと頭を働かせるが、どうしたって心は激しく動揺してしまう。

(私はネノンみたいに割り切れない……!)

 彼女のように、なんてことないと笑えない。それが、生粋の子女との差なんだとありありと見せつけられているようで苦しかった。

(どうしてこんなに受け入れられないんだろう)

 ユーリスとの婚約が決まった幼少期のころのほうが、もっと諦めが良くて受け入れが早かった気がする。

 こんなにも叫び出したいような拒絶感は生まれなかった。

 目の前がはるか高い壁でたち塞がれたような絶望感に苛まれる。

 ――家族が恋しい。鈴に会いたい。

 そうすれば、自分のこの憂いも晴れるような気がした。

 恋しい恋しいと、リシャーナは縋るように思った。家族への淋しさで、結婚への拒否感を覆い隠す。

 リシャーナの心の弱さは日本の家族であるが、心が折れないように踏みとどまらせてくれるのも家族への思いだった。

 シーツに滲む涙は、日本への郷愁や淋しさからだと思い込む。

 浮かんでは消える糸田の両親や鈴の姿。

 そんななか、リシャーナの意識の中で家族と同じぐらい大きく色濃く映るユーリスの姿には、そっと目を逸らした。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?