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第19話

 すやすやと眠る子どもの姿に、リシャーナは我知らず笑みを浮かべた。

 子どもたちが寝息を立て始めてしばらく経った頃、リシャーナは音を忍ばせて立ち上がって部屋を後にした。

 広間に戻る途中、廊下の窓ガラスの向こうで庭で花壇の世話をするシャンシーたちの姿が見えた。

 さっきまでは広間の机で勉強をしていたはずなので、もう終わったのだろうか。

 広間の扉は開けっ放しになっていて、リシャーナがちょうど部屋に着いたとき、ふと声が届いた。

「ユーリスはリシャーナといつから一緒にいるんだ?」

 聞こえたカイリの声に、思わず足を止めてしまう。

 そろりと室内を覗いてみると、窓を開けたまま足を外に放り出して腰掛けたカイリとユーリスの並んだ背中が見えた。

 足元に冷えた風がそよぎ、リシャーナは小さくなって息を潜めた。バレたらだめだと、なんとなく思ったのもある。

 勉強していた子どもたちは、みんな外に出ているらしい。部屋にはカイリとユーリスしか残っていない。

「ほんの一ヶ月ぐらい前かな……前から彼女とは知り合いだったんだけど、再会したときに助手にならないかって誘われたんだ」

 ユーリスの答えに、カイリは「ふーん」と気のない返事をした。その横顔はどこか拗ねているようにも見える。

 ちらりと横目にユーリスを見たカイリは、続けて問いかけた。

「ユーリスは貴族じゃないのか?」

「ああ、そうだよ……聞くが、貴族に見えるか?」

 こんな格好なのに? とでも言うように、ユーリスは両手を広げて厚手のフード付きマントを主張する。

「だってさ、リシャーナと動きが似てるから……」

 カイリの言葉に、ユーリスはからかうような笑みを引っ込めた。そして、思案深い顔でうっそりと微笑んだ。

「ありがとう……でも、残念なことに貴族ではないんだ」

「なあ……貴族って、貴族としか結婚しないのかな」

 膝を抱えたカイリを、ユーリスがきょとりと見た。若緑を向けられたカイリは、言い訳するように早口になった。

「べつに、その、深い意味はなくて……ただ、リシャーナは伯爵家の娘だから、貴族としか結婚しねえのかなって思っただけで……」

 おろおろし始めたカイリは、顔を真っ赤にしてしまった。

 そんな分かりやすい子どもの慌てように、ユーリスは一目でピンと来たようだ。リシャーナだって、うすうすと勘づいてはいた。

(あの年ごろって、年上の人が綺麗に見えたりかっこよく見えたりするものだもんね)

 その感情は、清花にも覚えのあるものだ。

 なんとなく好かれているのだろうな、と思ってはいたが、こうして面と向かって目の当たりにしてしまうと悪いことをしているような気になってしまう。

(だってあの子が見ているのは、貴族のリシャーナであって私じゃないんだもん……)

 夢を壊してしまっているようで、息が詰まりそうだ。

 けれど、どうせ小さい頃の恋心なんて長続きしないことも知っているので、リシャーナは今は知らぬ振りでやり過ごそうと思っている。

 カイリは緊張した様子で、ユーリスの答えを待っていた。けれど、さっきまでよどみなく答えていたユーリスは、ふと息をのんだように静かになった。

「そっか……彼女は貴族だものな……」

 面食らったように黙っていたユーリスが不意に落とした言葉は、リシャーナやカイリには届かなかった。

 耳をすまそうとしたリシャーナが身を乗り出し時には、ユーリスは気を取り直して微笑んでいた。

「そうだね。彼女は貴族だから、貴族じゃない人と結婚するのは難しいだろうなあ……」

 聞いたカイリの表情が、ぐっと険しくなった。分かっていたけど、分かりたくなかった。そんな複雑な葛藤が見て取れた。

 貴族と平民の恋なんて叶うことはない。それはまだ子どものカイリにだって十分に理解できるほど当たり前なことだ。

 貴族の当主が愛妾として平民の女性を囲うことはあっても、貴族令嬢が平民の男と結婚することはまずない。それでも「難しい」という表現にとどめたのはやはりユーリスの優しさだろう。そうだと自信を持って言える。そのはずなのに――。

(なんでだろう……胸がざわざわする……)

 リシャーナは、自分でも名状しがたい気持ちだった。

 ユーリスはカイリの幼い恋を憂うように眉を落とし、けれど同時に微笑ましく思うように目を細めていた。

 子どもを思う彼の優しさからくるその表情は、どうしてか切ない感情をリシャーナの中にわき上がらせたのだ。

 会ってそう経たない子どもへ向けられる優しさや愛情の中に、いっそ穏やかとでも言えるような、絶対に叶わない願いを前にしたときの清々しい諦念を感じたのだ。

 なにかに急き立てられるように心臓が大きく鳴った。

 彼に駆け寄りたいとでもいうように、思わず足が前に出る。

 爪先が扉を掠め、小さく音が鳴った。

 気づいた二人が振り返ってリシャーナを認めたので、即座に誤魔化すことを諦めて素知らぬ顔で入室した。

「あら、二人だけですか? みんなは外に?」

「ああ、花壇の水やりに行ってるよ」

 近づいて訊ねたリシャーナに、ユーリスが答える。その隣で、カイリは急に現れたリシャーナにギクリとして硬直していた。

「カイリは外に行かなかったんですか?」

「う、うん……ちょっとユーリスに訊きたいことがあったから……」

「訊きたいこと……?」

 本当は全部聞いていたなんて言えるはずもなく、リシャーナは首を傾げた。

 ここで問いかけたって、どうせ二人が真実を言うわけがないという確信があったからだ。

 適当に嘘をついて誤魔化すはずだ。それなら、リシャーナがその嘘に乗っかってあげればスムーズに話を終わらせられるはず。

 そう思っていたが、恋する子どもというのは思いのほか嘘がつけないらしい。

「いや! べつに大したことじゃねーし! リシャーナには全然関係ない話だよ! リシャーナの結婚とかそういうんじゃないから!」

 顔を真っ赤にしながらおどおどするカイリに、リシャーナとユーリスは子どもの純粋さを見せられて驚きつつほっこりと胸が温まった。

 貴族というのは子どもであっても、こうも正直に動揺を表したり口を滑らせたりはしない。

 この孤児院に来ると、貴族理念に染まらぬ子どもたちの純粋な感情というものと接することができる。

 安堵するように温かくなった心に、リシャーナは、自分は子どもたちのこういった素直なところに惹かれて足を運んでしまうのだと思い直す。

 慌てた様子のカイリは、自分でもなにを言っているか理解していないのだろう。

 早口で支離滅裂な言葉を繰り返しているカイリに、ユーリスが助け船を出した。

「カイリはいつも買い出しに行って、たくさんの大人と話すらしい。そのときに聞いた色んな話を俺にも教えてくれてたんだ」

「そ、そう! ユーリスが暇そうだったから、俺が面白い話を聞かせてやってたんだ!」

 カイリは助かったとばかりに顔を明るくして声を上げた。

 これは全くの嘘と言うわけでもなく、リシャーナがいないときに似たような話をしたのかもしれない。そうでなければ、カイリはもっと焦って話を合わせるどころじゃないはずだ。

「そっか。買い出しは当番制ですもんね」

 たしかに、孤児院の中でも年上の部類に入るカイリやシャンシーなら、当番の頻度も高いのだろう。

 その分、ほかの子どもたちより街の大人と話す機会が多いのだ。

 納得したように相づちをうったリシャーナに、カイリはほっとした様子で息をついた。

 それでも居心地悪かったのか、それとも恥ずかしかったのか……。

 カイリは急に立ち上がると「俺も行ってくる!」と、ほかの子どもたちのところに走って行ってしまった。

 二人だけになると、急に静けさが耳を打つように大きく聞こえた。

(なんだろ……ちょっと気まずいかも……)

 あの諦めの気配が過った笑顔は、自分が見てはいけなかった。リシャーナは根拠もなくそう思った。

 そして、今すぐユーリスの手を取りたいような、そんな焦りが理由もなくリシャーナを逸らせる。

 自分でも判然としない心情に困惑してぐるぐる悩んでいると、不意にユーリスが言った。

「そういえば、森で俺が魔法を使ったときの怪我……足は大丈夫だったかい?」

 リシャーナをチムシーから助けてくれたときのことだ。すぐにピンときたリシャーナは、突然だなと思いつつも、スカートで隠れた自身の足を見下ろして頷いた。

「病院で見てもらいましたが、傷もなく綺麗なものです。だから気にしないでください」

 安心させたくて目尻を柔らかく落として言うと、ユーリスも「よかった」と呟いた。けれど、どうしてかその声音は安堵と一緒に残念がるような、そんな気落ちした気配を感じてしまった。

 不思議に思ったリシャーナに気づいたのか、ユーリスはハッとして我に返った。

「ここ、マラヤンとも来たことがあるんだってね」

「在学中に何度か手伝いに来てくれたんです」

「そっか……」

 自分で聞いたくせに、ユーリスはどこか苦い顔で小さく頷いた。

 さっきからぽんぽんと話題が変わる。それは、ユーリスにしては珍しいことに思えた。

 平静のように見えるが、どこか様子がおかしい気もする。いつもだったら熟考した上で話をするのに、今は思ったことがそのまま口から滑り出てしまっていそうだ。そう、まるでさっきのカイリのように。

(そういえば、お見舞いに行ったときもマラヤンとのことを気にしてたっけ……)

 熱に浮かされながら、彼はリシャーナとマラヤンの関係について訊ねてきた。そこまで気にかけることがあるだろうか、とここまで来るとリシャーナも一抹の不安を抱いた。

 気づかないうちに、マラヤンへ対しての未練でも顔に出ているだろうか。

 恋心はないとしても、感じる淋しさから過去に得た心地よさを求めている、なんてこともあり得る。

 そんな傍目から見て分かるほどに、自分はマラヤンへの態度がおかしいだろうか。いよいよ本格的に不安になったリシャーナはそろそろと訊ねてみた。

「もしかして私はマラヤンに対して変な態度をとっているでしょうか?」

 すると、ユーリスは驚くように目を見開いた。

「いや、そんなことはないよ!」

 慌てて否定した彼は、リシャーナを不安にさせたことに気づくとシュンと肩を落とした。

「森で救援にきた彼の様子が、その、あまりにも動揺していて只事ではなかったから……本当に君たちの関係が終わっているとは思えなかったんだ」

 と、ユーリスはそこで謝罪を述べた。

「すまない。理由があったって関係を勘ぐるなんて気分が悪いよな……俺にはそんな資格もないのに……」

 肩に重い物でも載せられたように、ユーリスは深く反省を示した。

「大丈夫ですよ。気になったことがあったらなんでも訊いて下さいね」

 言いながら、ユーリスの勘違いだったことに安心した。

 マラヤンは騎士団への入団を希望する生徒らしく、誰に対しても分け隔てなく手を差し述べることが出来る人だ。

 きっと救援弾の相手が誰であっても、彼は心配したはずだ。

 安堵したからか、それともユーリスと会話ができたことで妙な焦りもなくなった。

 すると、今度は沈黙も心地よく感じられる。

 それはユーリスも同じなのかもしれない。

 冬の風に吹かれながら、遠目に子どもたちの様子をみるリシャーナの横顔をじっと長く見ていたと思えば、彼は不意に穏やかな顔つきになって同じように子どもたちを目で追った。

 寒空の下ではしゃぐ子どもたちの声を聞いていると、ふとユーリスが呟いた。

「さっき、俺が古代語について話をしているときに楽しそうだったと言っただろ?」

「ええ」

「俺にとって本は、寝台の上での時間つぶしだった。とくに古代語なんて、読むのに時間がかかるからうってつけだったよ」

 ――けれど、とユーリスは続ける。

「きみの言葉で気づいたんだ。ああ、これが楽しいって気持ちなのかって。自分は本が好きなのかもしれないって……今日、書店で自分で本を選んだり、子どもたちに読み聞かせをしたからこそ、余計にそう思えた」

 互いに正面に目を向けたまま続いていた言葉は、どこか夢うつつのようにぼんやりしていて、ユーリス自身もその感情を持ち余しているような――降って湧いた感情に揺蕩っているように思えた。

「ありがとう、リシャーナ……きみと再会してから、知らなかったことばかりだ」

 冬の冷気の中でも、一瞬で春だと錯覚するような、そんな温かく震えた声だった。

 顔も見ていないのに、ユーリスが喜びや感動で打ち震えているのがよくわかった。

 彼の喜びが移ったように、リシャーナの心もじわじわと震えていた。

 リシャーナは、そんな自分をすぐに諌めた。

 距離を置かなきゃいけないと、線を引くのだと改めたはずだ。そう理性が訴える。

 それなのに、心はほんの少し開いた二人の距離さえもどかしく思ってしまうのだから、内心で苦い顔をするしかなかった。

 リシャーナたちは子どもたちが口々に寒いと言って部屋に戻ってくるまで、静かに並んで外を眺めていた。

 そのうち昼寝から起きてきた年少の子たちも加わって、屋内でもう一遊びしてから二人は帰路につく。

 孤児院の門まで見送りに出てきてくれた子どもたちのなか、こそこそとカイリが顔を寄せてきた。

「リシャーナ、最近北の森でグスウェルが出たんだってよ」

「グスウェルが?」

 思わず声が出た。

 グスウェルとは、一見すると熊のような見た目の魔獣だ。雌は魔力も弱く、ある程度魔法の使える者であれば大した脅威ではない。

 しかし、雄であれば話は変わってくる。雌に力がない代わりに、雄はそれを守るために魔力はふんだんで、その鋭い爪から飛び出る魔法の斬撃は、遠くの獲物も一瞬で斬りつけることが出来る。

 本来は群れで行動する生き物で、人里近くで見ることなんてほとんどない。それがどうして王都の近くにいるのだろう。

「はぐれ者だって言ってた。きっとリーダー争いに負けて群れから出てきたんだって」

 街で聞いた大人たちの言葉を繰り返したカイリに、リシャーナは合点がいった。

(そっか……住んでた場所にいられなくなって、ふらふらしてるうちにここまで来ちゃったんだ……)

 街で噂になっているということは、きっと騎士団も把握しているだろう。それを肯定するように、カイリが不安そうな顔で見上げて言った。

「今度騎士団が討伐に行くんだって……リシャーナは王都の外に家があるんだろ? 危ないからしばらく外に出るなよ?」

 どうやらカイリはリシャーナのことを心配しているらしい。

 家というのは、ハルゼラインの領地のことだろう。前に話したことを覚えていたらしい。

 覚えていてくれたこと、そして心配してくれたことが嬉しくて、

「今暮らしてるのは王都の中だから大丈夫だよ」

 と、カイリの頭を撫でた。

(グスウェルの討伐ってことは、それなりに大きな討伐チームを組むよね……)

 騎士団に属するマラヤンやサニーラ――二人の友人を思い出し、リシャーナの胸に憂いが残った。

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