小さい子どもたちはこの寒空でも駆け回りたかったらしい。けれど、リシャーナが病み上がりだからと職員が言えば、素直に受け入れて室内遊びに繰り出した。
施設内は十数人の子どもが生活できるように一部屋が大きく作られていた。
一階はキッチンや風呂場、また全員が使用できる広間などの共用スペース。二階には四人ずつで分けられた寝室となる。
リシャーナとユーリスは、子どもたちに手を引かれて広間に通された。
人形遊びを強請られ、リシャーナは三歳の女の子から人形を一つ受け取った。
と、ユーリスは大丈夫だろうかと横目に見ると、子どもたちは初めての大人にもの珍しい目を向けつつも、警戒よりも好奇心が勝つのかいろいろと質問を投げていた。
「お兄ちゃんは誰? なんでリシャーナ様と一緒にいるの?」
「俺はユーリスだよ。リシャーナ様とは同じ仕事をしてるんだ」
「どうしてフード被ってるの?」
「うーん……こうしてると落ち着くからかな」
一つ一つ丁寧に答えていくユーリスの様子に、リシャーナは安堵した。
(良かった。大丈夫そう)
小さい子の扱いに慣れていないと戸惑うかもと思ったが、よく考えればユーリスにはいくつか年の離れた弟がいたのだと思い出す。
(私はあんまり会ったことないんだよね……)
パーティーのときに顔を合わせたことがあるぐらいで、話をしたことはない。
いつもザインロイツの両親の隣でちょこんと立っていた、控えめで大人しそうな子どもだ。
ユーリスと同じ癖のない茶髪に、若々しい緑の瞳の愛らしい面差しだった。
ユーリスも美しい顔立ちだが、彼を凛々しいとするならば、弟は可愛らしいという言葉が似合いそうな少年だったと記憶している。
(仲は良さそうだったな……)
パーティーの隅で並ぶ二人は、弟が控えめな仕草でユーリスに耳打ちし、それにユーリスが肩を揺らして微笑んでいた。
リシャーナとは違い、しっかりと兄弟の絆が育まれているその姿が、随分と眩しく見えたものだ。
(弟くんとも、もう会えないんだもんね……)
あんなに仲が良かった兄弟ともう会えない。それはユーリスにとってどれほど苦しいことだろう。
もし自分だったなら――同じ空の下に生きているのに、鈴と二度と話すことも会うことも出来なくなったというなら。
想像しただけで、リシャーナは気が狂いそうな激しい衝動と飢餓に苦しんだ。
いっそ世界もなにもかもが異なる今の方が、よっぽど幸せだと思える。そんな気持ちだった。
ふと暗い顔を見せたリシャーナに、周りの子どもたちが首を捻った。
少し声音を変え、それに合わせて人形が話しているように動かせば、子どもたちはすぐにそちらに意識を向けてくれた。
「同じ仕事ってことはユーリスも研究してるの?」
ユーリスを囲んでいた一人が問いかける。すかさず隣にいたもう一人が「あっ!」と声を上げた。
「だめだよ。ユーリス様って言わなきゃ」
「あ、ごめんなさい」
「俺も謝ります。だから、許してください」
しょんぼりと肩を丸くして小さくなって二人に、ユーリスは困ったように笑って顔を上げさせた。
「俺に様をつける必要は無いよ。貴族ではないからね」
聞こえた会話に、リシャーナはヒヤリとした。その話は、ユーリスにとってあまりにナイーブなものだ。
「貴族様じゃないの?」
「ああ。だから気にしなくて大丈夫だよ」
フードの下で微笑むユーリスに、子どもたちは安心した様子で強ばりを解いた。
リシャーナも内心でほっと安堵する。
「貴族じゃないのに研究者なの?」
「俺はリシャーナ様の研究の手伝いをしているんだよ」
と、そこでユーリスは子どもたちの注意を引くように人差し指を立てた。そして、こう付け加えた。
「俺はお手伝いだけど、貴族じゃなくても研究者になることは出来るよ」
「ほんとに?」
「ああ。貴族でも貴族じゃなかったとしても、誰でも勉強を頑張れば研究者にはなれるんだ」
「ふーん。そうなんだ」
話半分に聞こえた子どもたちの相槌だが、ちらりと横目に伺ったリシャーナには見えた。
その幼い瞳たちは、見たことの無い景色を前にしたような夢見るキラキラした瞳をしていた。
それを目の当たりにしたとき、リシャーナはユーリスがなぜわざわざ補足したのか察する。
子どもたちの夢や希望を奪わないためだ。
昨今では、身分の括りなく優秀な者を雇用する時流となっているが、研究者や名門学校の教員は圧倒的に貴族が多い。
それはひとえに、貴族と平民とでは教育にかけられるお金も時間も差があるからだ。そして質の高い教育を受けた貴族は、やはり優秀な人材として起用されることとなる。
その差を埋めるのは並大抵の努力では叶わない。
しかし、それは不可能というわけではない。
平民で研究者や教師の地位にいるものは、少ないけれど存在する。つまり、叶わない夢では無い――ということだ。
ユーリスはきっと、子どもたちの間に流れる「平民では叶わない」という思想を察した上で、あえて言葉にしたのだ。
はなから無理だと思っているのと、可能性があると知っていることでは、なにもかもが違ってくるから。
ユーリスの優しい声音や表情が思い返されて、リシャーナは鼻の奥がツンとした気がした。
「ユーリスはさ、騎士にはならなかったの?」
「騎士?」
「そう! 騎士かっこいいじゃん! 前にリシャーナ様と来たマラヤン様は騎士団に入るんだって言ってた!」
元気に立ち上がった子どもは、剣を持つように構えて見せた。
溌剌とした子どもの声に、ユーリスの笑顔が固まった気がした。
「へえ、彼もここに来たことがあるんだね」
抑揚の薄い声に、ユーリスの動揺が伺えた。
けれど、それは一瞬のことで、リシャーナがちらりと様子を窺ったときにはもういつもの笑顔に戻っていた。
「俺は騎士にはならなかったな。どちらかというと勉強のほうが好きだったんだ」
「じゃあこれも勉強の本?」
ユーリスの横に置かれた紙袋を、一人がおもむろに指さした。
「これは勉強……っていうわけじゃないかな。俺が読みたくて書店で買ってきたんだ」
袋から出して本の表紙が見えるように子どもたちへ向けた。
「これ、文字?」
「なんて書いてあるのか分かんないよ」
まじまじと覗き込んだ子どもたちは、そこにある文字を見ると一様に首を捻ったり、難しい顔をした。
そんな様子がユーリスはおかしかったらしい。くすくすと吹き出すように笑うと、タイトルと思しき大きな文字を、指先でなぞりながら言葉にした。
聞いた子どもたちは、驚いたように目を見開く。
「え、そんなこと書いてないよ!」
「そうだよ、星ってこうやって書くんだよ」
机の上に広がっていた用紙を一枚乱暴にとった一人が、歪んだ文字で「ほし」と書く。周りの子どももそれに同意するように、うんうんと頷く。
「これはね、昔の人が使っていた文字なんだよ」
どこか子どもたちの反応を楽しむよう、ユーリスはにんまりと笑っていった。その姿は手品のネタばらしでもするようなわくわくした顔だ。
「え、じゃあこれはなんて読むの?」
「この本はなんの本なの?」
身を乗り出した子どもたちの問いに、ユーリスはにこにこした顔で答えていく。そのうち、リシャーナたちと少し離れたところでは、ユーリスを中心とした朗読会が始まった。
明朗としたユーリスの声がおとぎ話を紡ぎ始めると、リシャーナと一緒に遊んでいた少女たちも気にしたように目を向け始めた。
そしてソワソワしたようにリシャーナを見たので、察したリシャーナは促すべくこくりと頷いた。
パタパタと駆け寄る少女に続き、ユーリスを囲う輪は少しずつ大きくなっていった。
いつしか部屋の子どもたちは、全員ユーリスの言葉に耳を傾けていた。
少女たちもみんなユーリスのもとに集い、リシャーナだけがぽつりと残された。
職員も部屋の片隅で作業をしながらも、紡がれる聞き馴染みのない童話に内心で心を踊らせている。
広間に作られた大きな窓からは、冬のぼんやりとした日差しがさしこんでいた。
いつもは寒々しさを助長するようであるその白い陽光は、今はユーリスや子どもを淡い白さで照らしつけている。
紡がれる言葉は、子どもにもわかるような柔らかい表現で、しかし心を弾ませるような幻想さがある。
それらが、遠目に眺めているリシャーナには、どこか近寄りがたい神聖なもののように感じられた。
途端に、離れている少しの距離が途方もなく思え、孤独感に苛まれた。それなのに、耳に届くユーリスの声や物語はどこまでも温かく心にしみ入る。
さまざまな感情がない混ぜになって、自分が今どんな思いを抱いているのか分からない。
けれど、子どもと一緒になってページを追うユーリスの鮮やかな緑の瞳や、緩く弧を描く口許からは目が離せなかった。
そうしてリシャーナが見入っている間に、本は結末まで行き着いたらしい。
「おしまい」
余韻を残すようにゆっくりと告げたユーリスが本を閉じると同時に、聞き入っていた子どもたちがはっと呼吸を取り戻す。
口々に感想を言い出す姿に、ユーリスが見渡してくすぐったそうに笑った。途端、その年相応な十代の幼さを残した笑顔に、リシャーナの胸が高鳴った。
「はーい、みんな読み終わったところでそろそろお昼寝の時間です」
立ち上がった職員の言葉に、年が上の子どもたちは不満そうに口をすぼめ、年少の子どもたちはすでに何人か眠そうにしていたので素直に従った。
広間の隣室には、小さい子のための昼寝用の部屋があり、すでに敷かれていた布団に子どもたちが好きに横になった。
誘導する職員を手伝って隣室に移動する途中、リシャーナはふと言った。
「すごく楽しそうでしたね」
言われたユーリスは、きょとりと目をしばたたいた。思ってもみないことを言われたような顔だ。
「たしかに本を読んであげるっていうのは初めてで楽しかったかな」
思い出すように言ったユーリスに、リシャーナくすりと笑った。
「違います。あなたが古代語を語っていたときのことですよ」
「え?」
「子どもみたいに無邪気に笑っていました」
「それは……すまない。そんなにはしゃいでいたか」
恥ずかしいと眉を落とした彼は、リシャーナの言いたいことを微塵も分かっていなかった。
「あんなふうに楽しそうなユーリスは初めて見ました」
ほんの少し大股で一歩前に出る。そしてくるりと振り返り、目を合わせて囁いた。
「見られてよかったです」
微笑むリシャーナに、ユーリスは目を見開いて立ち止まった。ぽっと頬が赤らむ姿に、リシャーナもだんだんと面映ゆい気持ちになっていった。
ちょうどそのとき、前を行く子どもたちに呼ばれて慌てて追いかける。
反対に、ユーリスは広間に残った年が上の子どもたちに呼ばれてしまって引き返した。
それを背後で聞いたリシャーナは、どこかほっとしながら子どもたちの寝かしつけに赴いた。