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第15話

 調理を終えた夫人は小声でロレンを呼ぶと、そのままリシャーナが止める間もなく帰り支度をしてしまった。

「今はあなたの研究室で働いているのよね? あの子のことをどうかよろしくお願いします」

 家を出た夫人を追いかけたところで、恭しく頭を下げられてしまった。夫人に倣ったロレンまで深く腰を折るものだから、リシャーナは飛び上がるような勢いで制止する。

 ようやく頭を上げてくれた二人にほっとしつつ、リシャーナはそろそろと訊ねた。

「ユーリスには、会っていかれないのですか?」

「……一度でも面と向かって会ってしまうと、歯止めが効かなくなってしまいそうだから。だから、いいのです」

 微苦笑して答えた夫人に、リシャーナはそれ以上なにも言えなかった。

 ピンと伸びた背筋の、美しい後ろ姿が去って行くのを見送った。二人の姿が人影に阻まれて見えなくなってようやく、静かに階段を上って部屋へと戻る。

 すると、ドアの音でちょうどユーリスが目を覚ました。

「ユーリス、目が覚めましたか?」

「リシャーナ? ……どうして、きみがここに」

 どうやら自分が招き入れたときのことは覚えていないらしい。

 ユーリスの瞳は熱に浮かされつつも、今度はしっかりリシャーナに焦点を合わせている。ぐっすり眠ったから、少し回復したのだろうか。

「伏せっていると聞いて、心配でお見舞いに来たんです。ちゃんとあなたが玄関を開けて招いてくれたんですよ?」

「そうなのか……うっ」

「あ、無理に起きないでください」

 上体を起こしたユーリスが顔を歪めたので、すかさずリシャーナは彼の背中を支えた。

 厚手のマントのない寝間着一枚の背中からは、じっとりとした湿り気のある高い体温が伝わってくる。

 見舞いが目的であったことに相違はないが、体調を見た上であの魔獣に関して訊ねてみようとも思っていた。

(でも、この調子だと無理そうかな)

 情報は速いほうがいいだろうが、今すぐにどうにかしないといけないものでもない。

 魔獣のことは騎士団も把握しているし、調査かつ一般市民が巻き込まれないよう、周辺には結界とともに騎士が複数持ち場につけている。

 今はゆっくり休んでもらって、そのあとで訊けばいい。そう思い直したときに、ユーリスは顔を上げるのも辛い様子で、ぐったりと猫背のまま呟いた。

「すまない……わざわざ俺の見舞いのために」

「気にしないでください。ちょうど訊きたいこともありましたし……」

 迷惑をかけた――そう言うユーリスがあんまりに気にした様子だったから、その心労を減らせればとつい口をついてしまった。

 言ってから、リシャーナは言葉選びを間違えたと思った。

「訊きたいこと? それは一体……」

 興味を示し、すぐに反応したユーリスに内心で頭を抱える。

(ゆっくり休んでもらおうって決めたばっかりなのに……!)

 あんな言い方をしたら、真面目なユーリスは用件を訊いてくるに決まっている。そして、聞いたからにはそれに対して彼は真摯に答えるだろう。

 ゆっくり休むどころじゃないじゃないか。

(この方面に用事があったとか、そんなふうに言えば良かった!)

 リシャーナ個人のことであれば、彼は配慮の出来る人だからむやみに踏み込んで訊いたりはしなかったはずだ。

 しかしここまできて誤魔化すのも、余計な気苦労をかけそうでリシャーナは素直に、出来るだけさっぱりした口調で言った。

「先日の魔獣の件です。ユーリスが知っている様子だったので、話が聞けたらなと思っただけですから」

「ああ、この前の」

 ふとユーリスが、重たそうに首を上げてリシャーナをひたと見た。若緑の瞳だけでじっくりと検分するようにリシャーナの全身を巡った視線が、安堵するように柔らかくなった。

「リシャーナはもう元気そうだな……良かったよ」

「ユーリスが魔力を分けてくれたおかげです」

「あれだけじゃ遅かれ早かれきみの身は危険だった。騎士団が迅速に処置をしてくれたからだよ」

 と、ユーリスはなにかを思い出したように口を閉じた。

「ユーリス? どうしたのですか?」

「いや……駆けつけた騎士団員のなかに、あのマラヤンという男がいたんだが……」

 再びピッタリ唇を合わせたユーリスは、言葉にすることを躊躇うようだった。

 若緑色の瞳が、動揺を示すようにゆらゆらと揺れる。

「きみたちは……本当に関係を終えたのだろうか?」

「ええ……そうですが?」

 どうしてそんなことを聞くんだろう。

 首を捻りつつ頷いたが、ユーリスはリシャーナの言葉を正面から受け止められないようだ。

 追求したいのを抑えるように一文字に口を閉じ、揺れる瞳を布団に落とす。

 そのとき、ユーリスはいつもバングルをはめていた手首を、もう一方の手で無意識に縋るように触れた。

 しかし、思った感触がなかったせいか、途端にぎょっとしてワタワタと周囲を見渡し始める。

 熱で浮かされた顔が一瞬で青くなったものだから、リシャーナも慌てて自分の荷物からユーリスの探し物を出した。

「魔法具なら私が預かっています」

 言うがいなや、ユーリスらしからぬ乱暴さで奪い取ろうとしたその手を、リシャーナは少し仰け反ることで避けた。

 ――なぜ? と、ユーリスの瞳が裏切られたような痛みを持ってリシャーナを見た。

 幼い子供の信頼を裏切ったような――そんなひどい罪悪感で胸が痛んだ。

「今はダメです。体が弱ってるのに魔力を抑制したりしたら、さらに悪化します」

 そう言って、ユーリスの視界に入るよう本棚の上に置く。

 すぐにでも飛び出したそうに体を疼かせたユーリスだが、リシャーナの言葉が正論だとよく分かっているらしい。

 ちらちらと気にしつつも、黙って布団の中にいた。

 魔法具はヘルサ経由でリシャーナへと返却されたものだ。

 ヘルサのほうは、洞窟に落ちていたという騎士団から預かってくれていたらしい。

(あんなに焦って探すぐらいなのに、私のために外してくれたんだ……)

 医師からは、同行者が魔力補給をしてくれたため大事に至らなかったと聞いている。そして、洞窟に落ちていたという魔法具の存在。

 二つから導き出される結論に、リシャーナの胸が甘酸っぱく締めつけられた。

 ただ喜ぶだけにしてはどうにも甘さをもたらす鼓動に、自分でも不思議に思う。

 リシャーナが身のうちの感情に戸惑っていると、不意にユーリスが鼻をくんと鳴らした。

「……いい匂いがする」

 ぽつりと独りごちて胃をさする様子が、小さな子供みたいにあどけなくて思わず笑みが零れた。

「体を治すには栄養をとるのが一番ですから。勝手ではありますが、キッチンを使わせていただきました」

 ――食べられそうですか?

 訊くと、ユーリスはこれまた子どものようにこくりと頷いた。

 温めなおした粥を器に盛ってユーリスに差し出す。

 すると、温かな湯気を吸い込んだ彼の体がほっと弛緩した。

 そうして器の粥を見下ろしたユーリスは、目を瞠った。

「これは……」

 一目で見抜くところに、彼にとって夫人のこの料理がどれだけ馴染み深いものであったのかが察せられる。

 緑の双眸が、信じられないとばかりに瞳孔を小さくしていた。

 戦慄く唇と手で、ユーリスはそろそろと粥をひと匙すくって食べた。

 途端、ぐっと鼻頭に皺を寄せて口をへの字に曲げた。まるで、こみ上げる懐かしさや感動を堪えるように。

 強くかみ締めた口が、彼の感情の強さを表していた。

「これを作ったのは……」

 ユーリスは、それ以上言葉に出来ないようだった。言葉にすることを諦め、無心で粥を食べていく。

 研究室や食堂で、ユーリスとは何度も一緒に食事をしたことがある。

 一口ずつ静かに飲み込むゆったりとした食べ姿は、綺麗でほっと見惚れるほどのものだ。

 それなのに今は、温かい粥を運んではその熱気をはふはふと飛ばし、匙を持つ手は休まることを知らない。

 彼がこんなに急いで食す姿を見るのは初めてだ。

 目の前のそれがまるで泡沫の夢とでも思っているのか、消えてしまう前に味わいたいという、彼の望みが透けて見えた。

 言葉を話さない代わりに、彼の瞳は雄弁だった。味わうごとに潤みを増して煌めいた瞳からは、はらりと静かに涙が滑り落ちた。布団に吸い込まれた涙を気にもとめず……いや、もしかしたら食事に夢中で、ユーリスは自分が泣いていることにも気づいていないのかもしれない。

 半分ほど食べたところで、ユーリスはようやく落ち着きを取り戻した。涙の跡に気づいて恥ずかしそうに頬を拭う。

「その、これはどうして……?」

 問いかける言葉が見つからない様子で、ユーリスは漠然とした問いを投げた。

 その戸惑いに、リシャーナは内心で同調した。

(まさかユーリスのお母さんと偶然会ったなんて思わないよね)

 どうして母と同じ味が出せるのか。ユーリスの眼差しには期待と疑念が複雑に絡み合っている。

 頷いてあげたい。けれど、夫人とも約束した手前、ハッキリと申し出るのも悪い気がした。

「買い出しのとき、親切なご婦人に会いまして……その方が作るのを手伝ってくださったんです」

 ユーリスは察しの良い男だ。これだけできっと分かってくれる。

 そしてリシャーナの思った通り、ユーリスはその一言で理解できたようだ。

 泣き笑いのように顔をふにゃりと歪め、彼は「そうか」とただ一言言った。

 二度と味わうことが出来ないと思っていたものとの遭遇――そこに溢れるユーリスの思いが、リシャーナの胸を熱くする。一方で、どことなく薄暗い感情が喜びの裏でざわめいていた。

 火で炙られたように胃がじわじわと熱と重たさを持っていくこの感情は、嫉妬だ。

 見せつけられた家族の絆が眩しくて、醜態を晒して勘当されてもなお愛されているユーリスが、リシャーナは恨めしいのだ。

 ――どうして……

 胸の内で、糸田清花が慟哭している。

 どうして私は家族と離れなくてはならなかったの。どうしてユーリスは一緒にいられるの。まだ繋がっていられるの。

 彼には一切非のない、理不尽な恨みだ。

 理不尽だと自覚があるからこそ、リシャーナは内頬を噛んで決して表層には出したりしない。

 よかったねと、喜んでいるのも嘘ではないのだ。微笑ましさだけを顔にのせるの。

 本心を隠し、仮面を被るのはこの十数年でずいぶんと上手くなったはずだろう。

 まだ騒がしい胸中には知らぬ振りで、リシャーナは自身を奮起した。

 そのおかげか、それともユーリスが自身のことでいっぱいいっぱいだからか、彼がリシャーナの異変に気づく様子はない。

 ――どうして、どうしてユーリスは貴族にあるまじき行いをしたのに、家族に愛されているの!

 ざわつく胸の内……その中の一つの悲鳴が、リシャーナ自身の心を激しく衝いた。

 愕然とした気持ちだった。

(私は、この世界の家族に愛されたいの……?)

 導き出される答えに、内心でいやとかぶりを振る。

 そんなことはない。リシャーナは現状をよく理解している。

 自分は生粋の貴族でも、この世界の人間でもない。だからこそ、リシャーナが――糸田清花自身が愛されることなどありえない。

(ユーリスが愛されているのは、彼がこの世界の人間だから……)

 生まれも育ちも、その精神も、彼は生粋の名門貴族の人間である。なにより、彼の犯した失態は、身体的な魔力の欠陥のせいであり、擁護できる部分がある。

 ――リシャーナとは、なにもかも違うのだ。

 一時いっときはぐつぐつと煮立つようだった感情が、不意に静まってスッと熱が引いていく。

(そう……ユーリスはこの世界の人だもんね)

 助手になってくれて一緒に過ごす時間が長くなっていた。だから距離を間違えていたのかもしれない。

 自分と彼との間に、リシャーナは見えない境界線をそっと引き直した。

 それは自分自身への戒めでもある。

 ユーリスが食べ終えると、遠慮する彼を布団にとどめてリシャーナは食器を片付けた。

 洗って部屋に引き返す。すると、ユーリスは幾分もよくなった顔色で、バングルを手にしていたところだった。

「ユーリス……」

 渋い顔をすると、彼は罰が悪そうに目を逸らした。

「すまない……どうしても落ち着かなくて。ただ食事をしたから調子がいいんだ……だから」

 ちらりと懇願するように見られると、ハッキリとダメとも言いにくい。顔色がよくなったのは事実だから余計に。

(本当に無理そうならこうは言わないか……)

 ここで自分の意地を通して無理をすると、結果としてリシャーナの手を煩わせることぐらい、彼なら簡単に察するだろう。

 その上での判断だというなら、リシャーナがグチグチと指摘するのも憚られた。

「無理はしないでくださいね」

「ああ、分かっているよ」

 バングルをはめたユーリスは、傍目に見てもほっと人心地ついたようだ。

 そしてリシャーナと目を合わせると、どこか驚くように細く息を吸った。

「ユーリス?」

 もしかして具合が悪くなったのだろうか。

 心配したリシャーナがベッド脇に膝を立てて伺う。だが、顔色に別段変わったところはない。

 体調が悪化したわけでもなさそうだ。

「いや、大丈夫だ……」

 言いながらも、彼は茫漠とした表情でなにかを確かめるように自身の胸に手を当てた。

 本当に大丈夫だろうか。

 心配な表情を崩さないリシャーナに、ユーリスがふと呟く。

「バングルをはめても変わらないのは……どうしてだろう」

 要領を得ない質問を、リシャーナはすぐに理解できなかった。

 ユーリスは以前、バングルをしていない状態でサニーラの魔力へ惹かれる気持ちを、恋情だと思い込んでいた時期があったと思い出す。

 もしかしたら、それを言っているのだろうか。

「バングルをしてもしなくても変わらないことがあるというなら、それこそあなたの本心ではないのですか?」

 途端、ユーリスの瞳が見開かれた。その緑の光りに、草原を風が駆け抜けるような透明感をリシャーナは感じた。

 なにかユーリスの中で一つのもやが晴れたような、そんな気がしたのだ。

「そうか……これが、俺の本心。本当に俺は……」

 そう言ってリシャーナに合わさったその双眸には、どこかさっきまでとは違う光りを宿しているように見えた。

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