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第14話

 場所を変え、貴族街にほど近いアンティークな雰囲気のカフェの個室で、リシャーナはザインロイツ夫人と向かい合っていた。

 丸テーブルの上には、夫人のおすすめだという紅茶と焼き菓子が並んでいる。

 店の者が使用人然とした落ち着いた所作で品物を置いて行ってから、二人の間には居心地の悪い沈黙が横たわっていた。

(いや、居心地悪いと思ってるのは私だけかな……)

 温かな紅茶に口をつけ、リシャーナは思った。

 店員に気さくに話していた夫人は、リシャーナにも「温かいうちに食べて」と笑顔を向けた。

 しかし、そのあとからは考え込むように難しい顔をしている。

(あ、美味しい……)

 伯爵夫人が勧めるだけあり、たしかに紅茶は美味しかった。茶葉のほのかな渋みが口に広がるが、決してくどくなくてさらりとした口当たりだ。

 手持ち無沙汰を誤魔化すためだったが、あまりに美味しかったのでまた一口飲み込む。

 再び口に広がる紅茶を堪能していると、不意に部屋の隅に控えた護衛のロレンと目が合った。

 微笑ましそうに笑みを向けられ、慌てて表情を引き締めた。

(いけない……最近ユーリスとばかり接していたから気が緩んでるのかな……)

 彼には感情を露わにした姿を幾度も見せてしまっている。そのせいか、ユーリスといるときはリシャーナはほんの少し心が軽かった。

 すでにみっともない姿を見せているから、どこか開き直っていたのだ。

(この方は伯爵夫人なんだから……しっかりしないと)

 同じ伯爵家といえどリシャーナは子女であり、かたや当主を支え家のことを取り仕切る夫人である。

 なにか無作法があれば、リシャーナだけではなくハルゼラインの家族に迷惑をかけることになる。

 本来であれば、家を追い出されたユーリスについて話題に出すべきではない。彼のことは、ザインロイツにとっての逆鱗であるかもしれないのだから。

(でも、あそこに夫人がいたということはユーリスに関係があるはず)

 リシャーナは彼が人の視線を怖がる理由を知っている。苦しんだ時間を知っている。もし、ザインロイツが再びユーリスにその頃の傷を思い出させるのだとしたら……。

(見て見ぬふりなんて出来ない……)

 音もなくカップをソーサーに戻したリシャーナは、そっと深呼吸をして怯える心を静めた。

「ユーリスはすでにザインロイツから排斥されたと伺っています。そのザインロイツの夫人が、彼にどういったご用件なのでしょう」

 正面から切り出したリシャーナは、夫人の怒りを受け止める覚悟でいた。しかし、護衛のものは驚きつつも剣呑さはみせないし、それどころか夫人は、顔を赤くして怒るどころか青ざめてしまった。

 思わぬ反応に、リシャーナのほうが拍子抜けしてしまった。

 おろおろと動揺している夫人に、なんだかこちらが責めているような気分になってくる。

 やがて、夫人は諦念を匂わせるように微笑んだ。

「そう……あなたはもう知っているのね」

 ――それでも、あの子のそばにいるのね。

 そう独りごちた彼女の笑みには、どこかリシャーナを羨むようなそんな淋しさが見えた。

「ハルゼライン家に理由も告げず婚約を破棄したこと、本当に申し訳なく思っているわ」

 恭しく頭を下げられ、リシャーナは焦って顔を上げるように促す。

 夫人は顔を上げても視線は俯きがちだった。それはハルゼラインへの後ろめたさからだろうか。

 なんとなく、それは違うような気がした。

「知っての通り、ユーリスが貴族籍から排斥され、我がザインロイツとも縁を切ることとなったの……あのころは私たちも動揺していて、自分たちの口から嫡男が排斥されるからなどとてもじゃないけれど言えなかったわ」

 沈んだ様子で言われ、リシャーナは内心で同情を示した。

 そりゃあれだけ完璧で優秀な嫡男が、突如問題を――それも他家の男爵令嬢相手に起こしたなどと信じられなかっただろう。

(あの医師からは、事情知った両親が縁を切ったと聞いたけれど……)

 どうやらリシャーナが想像していたように、冷たくあしらって追い出した……というふうでもないらしい。

 むしろ、そんな息子の姿を信じたくなくて距離を取ったというように見える。

「あの子は今、元気でやっているのかしら……」

 ぽつりと落ちた声はあまりに小さくて、一瞬リシャーナは反応が遅れた。

「ユーリス様は私の見る限り、楽しそうに過ごしていらっしゃいます」

 そこまで言って、赤くのぼせたユーリスの様子が思い出されて「あっ」と声が出た。

 (そうだ。私ユーリスのご飯買いに来たのに……!)

 あれからどれぐらい時間が経っただろう。

 ユーリスの家からこの店までそう長い時間はかからない。けれど、ここで話していた時間と今から買い物をして帰る時間とを考えると、それなりに待たせてしまうことになる。

 急に慌てだしたリシャーナに、夫人とロレンは顔を見合わせた。

「リシャーナ伯爵令嬢……? なにかありましたの?」

「あ、いえ、その……」

 ここでユーリスのことを話してよいものか。だが、リシャーナが迷ったのは一瞬のことだった。

 ――元気でやっているかしら

 あの弱った声の中に、夫人がユーリスへ向ける愛情を感じたからだ。

「申し訳ありません。今、ユーリス様が熱を出して伏せっておりまして……私ユーリス様のお食事の買い出しに行かねばならないのです」

 そう言って退席の許可を申し出たのだが、夫人は難しい顔で黙り込んだと思えば、意を決したように顔を上げた。

「あの、リシャーナ伯爵令嬢」

「はい」

「私も……ご一緒してもよろしいかしら」

 ユーリスと同じ若緑色の瞳に縋るように見られ、リシャーナは思わず了承してしまった。



 なぜかザインロイツ伯爵夫人と平民の集う市場で買い物を済ませ、リシャーナは三人でユーリスの住居へと向かっていた。

「ロレン様、お米重たくありませんか?」

「いえ。さほど重いものでもありませんからお気になさらず」

 二人の後ろに付き従うロレンは、米袋を肩に担ぎながら朗らかに笑った。その余裕そうな笑みに、リシャーナはそれなら……と安堵する。

 本来ならば、ユーリスに無断で買い置くのもどうかと思い、今日の食事分だけ購入する予定だった。だが、店先でついユーリスの家に食材がなにもなかったと零してしまったところ、「それは大変」と狼狽えた夫人がリシャーナの止める間もなく買ってしまったのだ。

 店の食材を片っ端から手に取る夫人を、リシャーナは穏便に言葉を選んで宥めた。

 ロレンはというと、息子のためにあれもこれもと手に取る夫人をにこやかに見守るだけで、リシャーナに加勢してくれはしなかった。

(いや……止めなかったのは自分なんだから、私が気にすることもないんじゃない?)

 買った品物の全てはロレンが持ってくれている。

 手伝いを申し出たが、ロレンには首を振られてしまったのだ。悪いなあと気にしていたが、夫人に言われるがまま元気に受け取っていたのはロレン自身である。

(そりゃ私兵だもん、雇い主には強く言えないだろうけどさ……)

 本来、貴族の令嬢や夫人が荷物を持つなどありえない。

 荷物を任されるのは自分だと分かっているのだから、それとなく助太刀してくれたってよかったではないか。

 どの食材も、パーティーでも開くつもりかと思うほどの量を買おうとする夫人に、都度修正を促して――と苦労をしたリシャーナは、ロレンに対してちょっぴり恨めしい気持ちになった。

 三人でユーリスの住む集合住宅に戻ったところ、そのまま外階段を上ろうとしたリシャーナだったが、夫人を足を止めたことに気づいて振り返った。

「ザインロイツ伯爵夫人はいらっしゃらないのですか?」

「私はここで待っています。ロレン、あなたは荷物を部屋まで運んであげなさい」

 そう言った夫人は階段下で動こうとはしない。

 まさか買い物だけして帰ってしまうつもりなのだろうか。

「リシャーナ伯爵令嬢……あの子には私と会ったことは言わないでください」

 言いながら、夫人はそっと笑んだ。その表情は無理に笑みを象っているように見え、リシャーナの心を落ち着かなくさせた。

 このまま夫人を帰してしまっていいのだろうか。

 そんな疑問がふと浮かんで、リシャーナは思い惑った。その末、思い切って階段を下り、夫人の手を掴んだ。

「あ、ちょっとリシャーナ伯爵令嬢?」

 戸惑う声を背後に、リシャーナはずんずんと階段をのぼって二階のフロアへと進んだ。ロレンは無遠慮なリシャーナの態度にも止めに入らない。ということは、これはまだ許される範疇なのだ。

(だから大丈夫……!)

 怖じ気づきそうな心を、そうやって言い訳めいた思考で奮い立たせた。

 部屋の前まで引っ張って行き、ようやくリシャーナは夫人の手を離した。

「ちょっと、一体なんのつもりなんです」

 貴族の夫人がこんなふうに自分の言葉をないがしろにされることなどないだろう。少し息の荒い夫人の顔には、目一杯の困惑とほんの少しの苛立ちが混ざっていた。

 一瞬、幼いころの母の瞳が過った。けれど、リシャーナは怯まずに返す。

「ユーリスは今、熱で寝込んでいます。お顔を見るぐらいでしたら、気づかれずに出来ると思います」

 言っておきながら、こんな勝手をしてユーリスに怒られやしないかと不安になった。

 彼はもしかしたら、家族には会いたくないのかもしれない。

(でも……)

 ――あの子は今、元気でやっているのかしら……

 あのときの夫人の声が、表情がリシャーナの胸につかえている。

(多分同じだからだ……)

 妹の鈴は、末っ子だからか人に甘えるのが上手かった。学校でも年上にはよく好かれるタイプだ。

 けれど、母はそんな鈴がひどく心配なようだった。

 ――全く、いつまでも甘えたで困っちゃうわねえ。

 この先大丈夫かしら。そう独りごちた母の憂い顔には、愛情故の心配がありありと浮かんでいて、見ている清花の胸もどこかぽっと温かかった。

 そんな母の眼差しと、夫人の瞳は同じなのだ。

 なによりユーリスからは自身を卑下する言葉は聞いても、家族への恨み言というのは聞いたことがない。

(いや、ユーリスだから思っていてもそんなこと人には言わないかもしれないけど……)

 それでも、夫人のユーリスへの愛情を垣間見ていると、大丈夫な気がしてくるのだ。

 なにせ社交シーズンでもないのに、わざわざ自身の領地から王都の下町までやってくるぐらいなのだから。

 返事につまった夫人は、やはり本心では会いたい気持ちがあるのだろう。

 リシャーナは扉を開けると、足音を忍ばせて先に中に入り、ひょこりと眠るユーリスを確認した。

 そのまま玄関まで戻り、夫人を後押しするように「ぐっすり眠っています」と告げる。

 それでもなお二の足を踏む夫人に、後ろからロレンが囁いた。

「奥様、ほんの少しでしたらよろしいのではないでしょうか? ずっと心配していらしたでしょう?」

 より近しい者からの言葉に、やがて夫人はそろそろと家の中に足を踏み入れた。

 狭い廊下をしきりにキョロキョロと見渡しながら歩き、小さなキッチンや部屋にもの珍しそうに目を丸くしていた。

 そうしてベッドに横たわるユーリスの姿を認めると、感極まったように息を震わせた。そして音もなく駆けよると、膝をついてユーリスの顔を覗き込む。

「ユーリス……まあこんなに真っ赤で……」

 憂愁に沈んだ表情の夫人は、その白い指先でそっとユーリスの髪を払った。ユーリスはわずかに身じろぎしたが起きる気配はない。随分とぐっすり眠っているらしい。

 久しぶりに見る息子の姿に、夫人は胸がいっぱいな様子でこみ上げる感情を抑えていた。

 その姿に、リシャーナの心もじんとする。一方で、どこか判然としないもやつきが立ちこめた。

(もう少し二人きりにしてあげよう)

 どうして罰の悪い気持ちになって、リシャーナは寝室から目を逸らして隣接するキッチンへ向かった。ロレンに目配せして静かに荷物を下ろしてもらう。

 二人きりにしてあげたいのはロレンもなのか、リシャーナが使えそうな食器やカトラリー、調理器具を整理していると手伝ってくれた。

 さすがに食器まで買ってくることにはならなさそうだ。

 調理器具も必要最低限には揃っていたので、料理を始めようかと思っていたところで夫人がこちらにやってっきた。

「ユーリスの食事?」

「はい。食べやすいようにお米を鍋で炊いてお粥にしようかと……」

 と、言いかけたところでリシャーナはハッとした。

 貴族の令嬢が料理をするなんておかしいと思われただろうか。内心で冷や汗をかきながら、そろそろと夫人を見る。

 けれど、夫人は不審がっているようには見えなかった。むしろ、どこかそわそわしているような――。

「あの、リシャーナ伯爵令嬢」

「はい」

「私も一緒に作っていいかしら……?」

 おずおずとした申し出に、リシャーナは微笑んで頷き返した。

 二人が料理をしている間、ロレンはユーリスの見張りを買って出てくれた。

 さほど広くないキッチンなので、気を遣ってくれたのだと思う。

 リシャーナが出しておいた鍋を手に、夫人は想像以上に手際よく調理を進めていった。

 けれど、お米を洗うことを知らなかったり、食材を切ることが出来なかったりということもあって、どこかちぐはぐな印象だ。

「ザインロイツ夫人はお料理をなさるのですか?」

 下準備はリシャーナが全面的に請け負う傍らで、思わず訊いてしまった。

「いいえ。お粥これだけよ。普段は料理なんてしないわ。これだって、準備された食材とお米を使っていたから一人では出来ないの」

 ――まあ、今気づいたのだけれどね。

 そう言って気恥ずかしそうに笑う夫人には、茶目っ気のようなものが垣間見えた。その無邪気な笑みは、貴族女性としての凜々しい気高さとは離れたものに感じられ、リシャーナを安心させた。と同時に、なるほどと納得させる。

(そっか。下準備は使用人がやってくれてたからか……)

 キッチンにその家の夫人が立つだけでも滅多にないことだ。使用人たちも、さすがに包丁を握らせることは出来なかったのだろう。

 片方の鍋で米を炊く傍ら、夫人はリシャーナが切った食材に火を通した。

 粗方炒め終わり、米が炊き上がるのを待つ少しの待ち時間に夫人はぽつりと零す。

「あの子は小さい頃からよく寝込んでいたから、苦しんでいるあの子を見ていることしか出来ないのが嫌で……食事の手伝いをするようになったの」

 俯く夫人の懐かしむような眼差しには、幼いころのユーリスが映っていることだろう。そう一目で分かるほどに、彼女は優しい目をしていた。

「体のせいで部屋にこもりがちなユーリスに、退屈だろうって勉強の傍ら絵本をあげたのよ。そしたらあの子、すごくはしゃいで喜んでね……それが嬉しくって何冊も何冊も買ってあげていたら、部屋におさまりきらなくなっちゃって」

 ふふ、と吐息まじりの細い笑い声が届く。思い出話をする夫人の口ぶりは軽やかで、春の木漏れ日のような温かさが感じられた。

 リシャーナの胸も陽差しに照らされたように温かくなった。

(そっか……あの本たちはその名残なんだ)

 生活感のない部屋の中で唯一異質だった部屋を覆う本棚に、リシャーナは合点がいった。

「あの子は本当にいい子でね……絵に描いたような立派な貴族の子息だったわ」

 ふと夫人の顔色が陰った。

「だからこそ、あの子がよそのご令嬢に無作法を働いたなんて信じられなかった。でも、病院で久々に見たあの子の様子は私の知っているユーリスとはまるで違っていてね……」

 怖かったのよ――と、懺悔するような後ろめたい声音で囁いた。

「絶望したわ。もう私の知っているユーリスはいないのだと……あの子は完全に気が違ってしまったのだと思った」

 そこで夫人は唇を噛みしめるように言葉を呑んだ。しばらく黙った夫人は、形の良い唇を戦慄かせながら「それなのに……」と震えた声を出す。

「それなのにまさか……魔力の過剰放出だったなんて……!」

 抑えきれなかった慟哭が、彼女の口からか細く悲鳴のように響いた。わっと顔を覆ってしまった夫人の肩は震えていた。

 リシャーナは静かにその背を撫でて宥めた。

 そして、ユーリスの病名がハッキリしてからの一年半ほどの期間を、彼女はこうして後悔し続けていたのだと思うと憐憫の情にかられる。

 貴族籍を抜かれ、家からも勘当された者を再び連れ戻すことなど出来るわけがない。

 この人は、もう二度と表立って自身の息子と会うことは出来ないのだ。

 せめて事が起きてすぐにその原因が分かっていれば……。そうすれば、ユーリスを跡継ぎの立場から下ろすこととなっても、家族ではいられたかもしれない。

 どう慰めの言葉をかけて良いか迷っていると、鍋が煮立つ音とともに吹き出したので慌てて火を止めた。

 蒸らしている数分で、夫人は目許を拭って涙の名残を消した。

 次に顔を上げたときには穏やかな顔つきだった。

「ごめんなさいね、みっともないところを見せてしまって」

「いえ……お気になさらず」

 炒めた食材に水と調味料を加え、そこにご飯と鶏肉を入れてコトコト煮込む。

 すでに炊き上がったお米を使ったから、そこまで時間はかからなかった。

 最後に溶いた卵を流し入れ、夫人は火を止めてリシャーナを振り返った。

「はい。これで完成よ」

 弱った姿を見せてしまったことを気にしているのか、夫人は大きく笑った。気遣う色を見たリシャーナも、その意を汲むように口の端を上げた。

 微笑むと若緑の瞳が細くなって、わずかに目許に皺が出来る。そんなことにリシャーナは今さら気づいた。

 綺麗な人だけれど、ふとしたその瞬間に年齢というものを感じた。

 自分を見つめる気遣わしげな年上の女性からの笑みに、リシャーナは不意に母の面差しを重ねた。

 狭いキッチンで並び立っているから余計だろうか。

 途端に、胸に郷愁が湧く。

 切なさで疼く心に、鼻腔を通ったどこか懐かしい温かい粥の匂いが沁みて、リシャーナはどうしてか泣きたい気持ちになった。

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