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第13話

 チムシーの採取に出かけた日から三日。

 ようやくリシャーナは研究室へ復帰することが出来た。

 魔力が安定するまで一日は病院で……その翌日は寄宿の自室でずっとベッドに横たわっていた体は、起き上がると強ばった筋肉が悲鳴を上げた。

 ゆっくりした動作でどうにか身支度を済ませて研究室へ向かうと、廊下でばったり会ったヘルサが、いやに慌てた様子で駆け寄ってきた。

「リシャーナ嬢、体はもういいのかい?」

「はい。ご迷惑をおかけしました」

 恭しく頭を下げたリシャーナに、ヘルサはほっとしたように肩を落とした。

「いやいや、大事にならず良かったよ。きみが病院に運ばれたと聞いたときは本当に驚いてね」

「本当にお恥ずかしい限りです。まさか魅了魔法を使うような魔獣がいるとは思わず……」

 学生ならばいざ知らず、一介の研究者がこの様では笑われてしまう。

 落ち込むリシャーナだが、ヘルサはそのことに関しては苦言をいうことはなく、

「次は念のために騎士団から護衛を派遣してもらうのも手かもしれないね」

 と、慰めるように助言した。

 ヘルサにはそれよりも気になることがあるようだ。難しい顔で顎に手を置いては唸るように言った。

「それにしても、魅了魔法を使う魔獣か……たしか小さな白い生き物だと言ってたね?」

「ええ。ちょうど両手で抱えられるくらいの大きさで、私の膝ほどの高さでした」

 病院で眼が覚めて早々に、リシャーナは騎士団から聴取を受けた。

 そのときの情報がヘルサにも伝わっているのだろう。ヘルサは魔獣に関する分野を専攻としており、その中でも魔獣が魔法を使用するメカニズムについてを主に研究しているのだ。

 正体不明の魔獣の捜査に関して、騎士団からヘルサに協力がきていてもおかしくはない。

 本来であればやたらに話を広めるものでもない。どこで市民に話が漏れて不安を助長することになるか分からないのだから。

 しかし、ヘルサであれば事情も知っているし、この人が守秘義務を破るとも考えにくい。

「このぐらいのサイズで長い耳がある魔獣か……」

 自分の両手で宙に円を描くように魔獣の大きさを想像するヘルサに、リシャーナはつけ加えた。

「とくに異質だったのはつい目を奪われる真っ赤な瞳と、その額にある赤い鉱石だと思います」

 そう。なにせリシャーナはあの血のように赤い瞳と目を合わせてから、頭が霞がかったようにぼんやりしてしまったのだから。

 あの瞳が相手の精神に働きかけるための仕掛けの一種となっていたのだろう。

 けれど、魅了魔法のような相手の精神を害する魔法は、文献でしか見たことがない。

 そんな危険な魔法が使える魔獣ともなれば、国が把握していないはずがないのだ。

(しかも、ヘルサ教授だって知らないなんて……)

 そんな魔獣が果たして存在するだろうか。

「鉱石か。たしかに鎧のように自身の体に石を纏う魔獣もいるけれど」

「見た限りでは額にあっただけでした。それに、あの鉱石には魔力が宿っていたと思います」

「魔力つきあ……自分の体に魔法をかけて守りを固めるものもいるが……」

「あれには術式は加えられていなかったと思います」

 ただそこに存在するエネルギー源としての魔力と、実際に働きを付与された魔法では性質が異なるため、気配も変わってくる。

「チムシーのところに誘導したというのも気になるなあ……」

 そう言って黙り込んでしまったヘルサは、頭の中の引き出しを必死に探っているようだ。

 リシャーナもなにか手がかりはないかと、あの日の記憶をもう一度反芻してみる。

 と、そのとき。

 ――リシャーナ! もしかしたらそれは!

 ふとユーリスの言葉を思い出した。

(そういえばユーリスはなにか知っているふうだった……)

 彼に訊けば、新しいヒントが得られるかもしれない。

「ユーリスがもしかしたらなにか知っているかもしれません。あの魔獣に心当たりがあるようでしたので」

「……ユーリスくんが?」

 きょとりとしたヘルサに、リシャーナは大きく頷いた。

 チムシーは近づかなければ危険はなかった。けれど、そこまでおびき寄せるものがいるならば話は変わってくる。

 万が一あの生き物が街道を通る商人や市井の人の前に現れたなら……そうなれば被害は増えていくだろう。

 そうなる前に対策を立てなければならない。

(ユーリスに話を訊いて、それで騎士団のところに報告にいかないと……!)

 そうと決まればユーリスに訊ねてみなくては。

 見渡した研究室には、まだユーリスの姿はない。

(いつもならもう来ていてもおかしくない時間なのに……)

 とくに今日はリシャーナが身支度に時間がかかって遅くなった。いつもなら、ユーリスはとっくに着いているはずだ。

 首を傾げたリシャーナは、ヘルサにおずおずと訊く。

「ヘルサ教授、ユーリスを見ていませんか?」

 そこで、ヘルサは思い出したようにあっと目を開いてリシャーナと向き直った。

「すまない。これを一番始めに伝えなくてはいけなかった……実はユーリスくんのことなんだがね」

 申し訳なさそうにヘルサが告げた言葉に、リシャーナは目を丸くして驚いた。

 目抜き通りからしばらく歩いたところに、低所得者向けの集合住宅街がある。

 そのなかの一つの前で、リシャーナは手元のメモから顔を上げた。

「ここが、ユーリスの家……?」

 古びた木造の三階建ての住宅には、枯れた蔦が外壁を伝っている。清潔感はあるものの、明らかに年季が入っていることが分かる住宅と自身のメモとを、リシャーナはしばし見比べた。

 けれど、ヘルサからもらったメモの住所は、たしかにこの建物の二階を示している。

(お金がないのは知っていたけれど……)

 それでもユーリスと目の前の住宅が結びつかない。

 貴族籍を出たといっても、彼から気品や優雅さが失われていないからだろうか。どうにも記憶の中の豪華な貴族邸宅に住まう姿がなくならないのだ。

 驚いて呆けていたリシャーナは、はっと我に返って外階段で二階へと上った。

 軋む階段にどことなく不安をかき立てられながら、そろそろと一つの部屋の前に行き着く。

 ドアベルを鳴らしたが、しばらく待っても応答がない。

(どうしたんだろ……風邪だとはきいてるけど……)

 ヘルサを通して聞いたのは、熱が出たのでひとまず今日は休む――ということだけ。

 口ぶりからしてそこまでひどい様子ではなかったが、まさか悪化して倒れているのではないか?

 心配になったリシャーナが激しくドアベルを叩く。と同時に、ドアが開かれた。

「リシャーナ? どうしてきみがここに?」

 現れたのは、どこかぼんやりした瞳のユーリスだった。

 寝間着の上に厚手のショールを羽織った彼は、リシャーナを認めると瞳をゆっくりと瞬いた。

 自宅だからか普段のフードはなく、明らかに熱があるとわかる赤い頬と潤む瞳がハッキリと見える。

 汗ばんだ頬と倦怠感故の怠そうなゆったりした仕草に、どことなく妖しい魅力を感じてドキリとしつつ、リシャーナは手元のバスケットを掲げた。

「具合が悪いと聞いてお見舞いに来ました。すぐに帰りますから、お気になさらないでください」

 買ったばかりの果物とちまたで話題の氷菓子を詰めたバスケットに、ユーリスの瞳がゆっくりと移動する。

 差し出すと、彼はされるがまま受け取った。

「一応具合が悪くても食べやすい物を選びました。氷菓子は出来るだけ早く食べてくださいね」

 それじゃあ――後ろ髪引かれつつも、リシャーナはそう言って背中を向けた。

 さすがに男性の一人暮らしの部屋にあがるわけには行かない。こんなところに顔見知りの貴族がいるとは思えないが、万が一があっては大変だ。

 と、リシャーナが階段のほうへ一歩踏み出したとき、ようやく頭が追いついたのか慌てたユーリスがバスケットから顔を上げた。

「リシャーナ! ここまで来てもらったんだ、せめてお茶でも――」

 引き留めようとしたユーリスだったが、熱のせいか追いかけた足ががくりと崩れた。

「ユーリス!?」

 ふらりとよろめいた体を、リシャーナが慌てて抱き留めた。触れたユーリスの体の熱さに目を瞠る。

(こんなに熱が――!?)

 いつものユーリスであればすぐにでも身を引いただろう。いや、そもそも体勢を崩したところでリシャーナが受け止めずとも持ち直したはずだ。

 それなのに、今の彼はリシャーナにぐったりと体を預けて荒く息をしている。

 本当は立っていることだって辛かったのだ。

 それなのに、リシャーナが渡したバスケットは落とさないように両手でしっかり抱えているものだから、いじらしい姿にリシャーナの胸がきゅうと疼いた。

(どうせ部屋にあがらなくたって、この建物に入っているところを見られたら同じこと)

 なによりユーリスが体調を崩したのは、あの雨に晒されてリシャーナに魔力を分け与えたせいだろう。

 ――ならば迷うことなんてない。

 リシャーナは魔法でユーリスの体を補助しつつ、彼の肩に腕を通してどうにか立たせ、部屋に入った。

 ユーリスの住居は、ベッドルーム兼リビングのこぢんまりした部屋と、あとはキッチン、バスルームとトイレのついた簡素なものだった。

 家具はほとんどなく、部屋の中央にある小さな丸机と、安い宿場にあるような寝具。

 そして、部屋の壁沿いにずらりと並んだ本棚だ。

 質素な部屋の中、その書物の存在だけがどこか異質だった。

(ザインロイツ家から持ってきたのかしら……)

 娯楽小説を始め、専門的な図録や資料、果てには古代語で書かれたと見られる歴史あるものまで見られた。

 寝具にユーリスを横たわらせ、リシャーナは圧倒されるようにその本棚を見渡した。

(この本はユーリスの私物だったのかしら……)

 だから持ち出せたということだろうか。しかし、専門家でも無ければ読むことも出来ない古代語の書物などどうやって手に入れたのだろう。

 古代語の解読者は、研究者のなかでも一際国からの補償が熱いことで有名だ。

 その歴史的価値から、読めずともコレクターが存在するほどだ。しかも現存する古代書は、そのほとんどが国の保護書物となるため、市場に出回ることはほとんどない。

 そのため価値はうなぎ登りで、一介の貴族であろうとも易々と手が出せないほどに値はつり上がるものだ。

(それを貴族の当主でもない子息の一人が買えるとは思えないけれど……)

 しかも、それを家から排斥する者に託すなど有り得るだろうか。

(なにか理由があるのかしら……)

 珍しさに思わず考え耽ってしまったリシャーナだったが、ユーリスが呻く声で今の状況を思い出した。

「ユーリス……」

 目を覚ました様子はない。けれど、ぐっしょりと汗ばんだその表情は苦しそうだ。

 持っていたハンカチでそっと汗を拭う。

 これだけ汗をかいているのだ。リシャーナは脱水が心配になった。

 悪いとは思いつつもキッチンに入る。簡易的なもので、料理をしている形跡は見られない。それどころか、食材も飲料もなにも見られなかった。

(もしかしてユーリスは今日食事をとってないのかも……)

 そうなるとますます心配になる。

 部屋に戻り、リシャーナはそろそろとユーリスに呼びかけた。

「ユーリス、ユーリス」

 指先でトントンと彼の肩を叩くと、重たそうに瞼が押し上がった。

「少しでいいので口に含んでいただけませんか?」

 バスケットから取り出した氷菓子を、スプーンに乗せて差し出す。

 ユーリスは焦点の曖昧な視線で見ると、小さく口を開けた。

 子どものようなつたない仕草に、彼が熱のせいで意識が朦朧としているのがよく分かる。

 柔らかく溶け始めたシャーベッド状の氷菓子をこくりと飲み込むと、その冷たさからユーリスの表情がわずかに和らぐ。

「ユーリス、お腹がすいていませんか?」

「お腹……?」

 ゆるりと瞳だけで見上げられて、リシャーナは子どもにするように頷いて微笑んだ。

 すると、自分の腹を力のない手で撫でながら

「すいている……気がする」

 と、呟く。

「じゃあ、すぐに準備しますね。少し寝て待っていてください」

 もう一度ユーリスの汗を拭ってから、リシャーナは買い出しに行くために一度外に出た。

(果物はさっき買ってきたし、もう少しお腹が膨れるものがいいかな……)

 それならお米がいいだろうか。病人食といえば、やはりお粥だろう。

 つらつらと考えながら階段を下りたところ、すぐそばの路地に慌てて人が隠れるのが見えた。

(今、私のことを見てた?)

 しかも気になるのは、明らかに平民が着るような服ではない。品のある外行きのドレスは、貴族の女性が着るものだ。

 市街地ならばいざ知らず、こんな住宅しかないところに貴族がなんの用だろうか。

 リシャーナは気づかないふりをして、その路地の前を通り過ぎる。

 その際、それとなく視線を横に流して通りを見たが、やはり貴族女性とその護衛とみられる男の姿が見えた。

 女性は母と同世代ぐらいだろうか。建物の影で薄暗く、しかも相手に気づかれないように一瞬だったので、ハッキリと確認できなかった。

 もし後をつけられるようなら対処を考えなくては。

 そう内心で警戒を強めていると、不意に話し声は届いた。

「奥様、いつまでここにいらっしゃるおつもりですか?」

「ではロレン、ユーリスの顔を見もせずに帰れというの? わざわざここまで来たのよ? お願い。遠目で見るだけでいいのよ」

 哀願するような女性の声は、思わず憐憫を覚えるようだった。なによりリシャーナは、彼女から聞こえた「ユーリス」の名に咄嗟に振り返ってしまった。

 勢いよく向いたリシャーナに、二人も気づく。反射的に女性の前に出た男の影――その女性の顔を見たリシャーナは、驚きで声を上げた。

「ザインロイツ夫人!?」

 編み込んで後ろでまとめた髪こそ金髪だが、優しげに垂れた瞳はユーリスと同じ鮮やかな緑の虹彩だ。

「まあ……もしかしてリシャーナ伯爵令嬢?」

 驚く女性――ユーリスの母を前に、リシャーナは挨拶の礼をすることも忘れてしばらく言葉をなくした。

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