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第10話

 研究棟の廊下を進みながら、リシャーナは恥ずかしさと後悔が混ざったような複雑な心持ちだった。

(あんなふうに正面から言わなくたって良かった気もする……)

 思い出されるのは先日のユーリスとのことだ。

 木陰で向かいあいながら、リシャーナはこの十数年の鬱憤を晴らすように彼に言葉を投げてしまった。

(ユーリスにとってはそれが常識だったんだもん……なのにあんな怒ったように強い言葉で言ったりして……)

 彼が死すら過ぎるほどに苦しんでいることを知り、たしかにリシャーナは貴族の理念というものに怒りが湧いた。

 だが、ユーリスの気持ちにもう少し寄り添うことも出来たんじゃないかと、そんなふうにも思う。

 自分の常識外のことを突きつけられた時の困惑や恐怖を、リシャーナは誰よりも分かっているはずなのだから。

 言ったことに後悔はないが、もう少し言葉を選ぶべきだったと思うのだ。なにより、感情的になっていた自覚があるからこそ余計に……。

 あのあと、ユーリスとともに事務棟に行って購入書籍の申請をしたが、そのときの彼はどことなく晴れた顔をしていた。彼にとっていい方向で受け止めて貰えたようで、それだけが幸いだった。

(ユーリスと一緒にいると、なんでか取り繕うのが下手になる気がする……)

 この十数年。リシャーナは社交の場でもハルゼライン家にいても、貴族の子女としての仮面を外すことなど一度もなかった。

 母に叱責されたあの日からは――。

 そこでふとリシャーナは立ち止まった。窓ガラスの向こうの早朝の薄い青空に、兄の瞳を思い出した。

(そういえば、お兄様にだけは言ったことがあったっけ……)

 あの日、覚えたての礼儀作法を駆使して母に頭を下げたリシャーナを部屋の外に連れ出してくれたのは、兄であるテシャルだった。

 五つ上のテシャルは、すでに王立魔法学園の中等部に入学していて、ちょうど長期休みだったので帰省していたのだ。

 ぎこちなく、けれど必死に頭を下げたリシャーナが憐れに思えたのか、テシャルは母に一言添えてリシャーナの手を引いた。

 幼い妹を部屋まで送り、彼はどうしたらいいのか分からない困惑した顔で澄んだ碧眼を揺らしていたのを覚えている。

 兄はリシャーナがある程度大きくなる頃には、全寮制の王都の学園に入ってしまっていたので、顔を合わせる機会も少なかった。

 そのため、年の離れた妹にどう接していいのか分からなかったのだろう。

 迷った末に、テシャルの成長途中の手がゆっくりとリシャーナの黒髪を撫でた。

 そのせいか……それとも相手が子供であったからか、リシャーナは火がついたように泣きだした。

 ビクリとしたテシャルは、途端に泣きわめく妹を前におろおろし始める。

 そんなテシャルの困惑など構わずに、幼いリシャーナは言った。

「私たちは……貴族は、痛いときに痛いと言ってはいけないのですか?」

 ヒクヒクと嗚咽に喉を揺らし、顔を涙でぐちゃくちゃにしながら懸命に声を振り絞った。

 途端、おろおろしていたテシャルはピタリと動きを止めて息を詰めた。そうしてしばらくの間、リシャーナの言葉を自分の中に落とし込むように黙っていた。

 やがて、彼はその幼さの残る手で再びリシャーナの頭を撫でたのだ。

(そういえば、あのときお兄様はなんて言ったんだっけ……)

 思いっきり泣いて感情が振り切っていたせいか、当時の兄の表情も言葉も朧気だ。

 長期休みにしか会えないテシャルと、リシャーナは距離を掴みかねていた。

 糸田清花としての経験もあるせいだろうか。年上の兄妹というものに対し、どう接していいのかが分からないのだ。

 テシャルは今、領地に戻り、将来家督を譲り受けるために父の元で経験を積んでいる。

 最後に会ったのは高等部の卒業前に帰省したときだろうか。

 (たしか婚約者の人を紹介したいって言ってたっけ……)

 そのときは連絡するから時間を取って欲しいと言われて承諾したが、半年以上経った今も、その連絡とやらは来ていない。

 (まあ、滅多に家に帰らない妹にわざわざ別で時間をとることもないか)

 両親はすでに向こうの令嬢とは顔合わせを済ませているのだ。

 わざわざリシャーナと時間を取らなくたって、結婚すればいつか会うことになる。

(お兄様も結婚か……)

 テシャルはすでに二十半ばになる貴族の子息だ。結婚するのは当たり前だし、むしろ遅すぎたともいえる。

 この世界では、結婚は貴族の家同士の繋がりのためだ。兄とて例外ではないだろう。

(相手の人はどんな人だろ……)

 愛せる、とまではいかなくても、どうか気の合う人であって欲しい。

(たった一人の兄妹だし、幸せぐらいは祈りたいよね……)

 貴族じゃなければ、もしかしたら清花と鈴のように仲良くやれた未来もあったのだろうか。

 兄の優しげな面立ちを思い浮かべてそう思ったリシャーナだったが、考えても仕方のないことだと割り切った。



「来週、東の森にチムシーの花の採取に行こうかと思います」

 研究室で会って早々に切り出したリシャーナに、ユーリスは瞳をしばたたかせた。

 以前は深く被っていたフードは、今は形ばかりに浅く被せられていて、さらりと揺れる細い茶髪の下の緑が前よりもよく見える。

 表情も、どことなく感情を大きく表している気がした。

「チムシーの花を……?」

 ぼんやりと繰り返されたので頷くと、ユーリスはすぐに見当がついたらしい。

 得心したように顎を引いた。

「ああ。もしかしてあの蜜か……」

「はい。チムシーの蜜を一度使ってみようかと思います」

 この世界では、動植物にも例外なく魔力が宿っているが、保有する魔力量によって呼び名が異なる。

 魔力をより大きく有し、魔法を扱えるものを魔獣と呼び、植物のなかで他生物の魔力を養分として成長するものを魔植物という。

 魔植物は魔獣のように攻撃的な魔法は使わないが、代わりに人間や魔獣たちから魔力を奪い取る手段を持ち得ており、ときには魔獣よりもよほど被害が観測されることがある。

 チムシーは、茎や葉にある柔らかな棘や、その蜜に触れたものの魔力を乱して吸収することが出来るのだ。

 今、ユーリスのバングルには魔鉱石という魔力を有する特殊な鉱石を用いている。

 魔鉱石の中には、魔力を発するものと、逆に魔力を消失させてしまうものがある。

 バングルである抑制装置には、消失の性質を持つものが使われていた。

「そのバングルの魔鉱石では、魔力の消失量を調整することが出来ず、常人であればつけた瞬間に体内から魔力が完全に消滅して命に関わります」

 だが、ユーリスがつけていてもケロリとしているということは、消失量には上限があるということだろう。

 それは魔力量の多いものが触れなければ分からないことだ。そして、わざわざ命の危険を犯してまでそんなことを試す人もいなかった。魔鉱石が稀な存在であるということも起因しているかもしれない。

 今まで劣化や鉱石の質で消失量に差があることは知られているが、限界値を詳しく調べたものはいない。

 いつかは詳しい消失量を計測したい、とリシャーナは思っている。

 リシャーナの説明に、そこまでの代物だとは思っていなかったのか、ぎょっとした顔でユーリスは自身の手首を見た。

「私が誤ってそのバングルに触れた時には、気づけば三日の月日が経っていました」

 やっとその魔法具の危険性を認識してくれたユーリスに、つい愚痴のように呟いてしまう。

(あれは本当に迂闊だった……)

 魔鉱石そのものでは効果が大きすぎることは分かっていたので、魔法でわざわざ細かく砂状にし、かつごく少量を使用したが、それでもあれほどの一気に魔力を吸い出されるとは思ってもいなかった。

 指先がほんの少し触れた一瞬で、リシャーナの視界は暗転したのだ。

 幸いだったのは、隣室にいたヘルサがすぐに気づいて応急処置をしてくれたからだ。

 目が覚めた時にはすでに魔力は回復していたので、リシャーナとしては寝て起きたような感覚だった。

 あっけらかんとしたリシャーナの言葉に、ユーリスは今度はリシャーナを見てぎょっと目を見開いた。

「魔鉱石では魔力の抑制量が多すぎるので、今度はチムシーの蜜などで新しい試作品を作ろうと思います」

 なにより、魔鉱石は魔力の「消失」だが、チムシーなどの魔植物は魔力の「吸収」である。

 上手くいけば、魔力を抑制しつつ、吸収した魔力を蓄えておく備蓄品としての役割も期待できる。

「試作品が作成出来れば、申し訳ありませんがユーリスに試用をお願いしたいと思います」

「それはもちろん。むしろそのつもりだったよ」

 当然のように受け入れられ、リシャーナはひとまず安堵した。

「それでは、来週の採取日は研究室には来ずに直接現地に向かいますので、ユーリスはわざわざ出勤しなくても大丈夫ですよ」

 ゆっくり休んでください、と告げると、「え」と虚をつかれた緑の瞳が当惑した。

 そんな彼の反応に、リシャーナも戸惑ってしまう。

「なにか不都合でもありましたか?」

「いや……その、俺も一緒に行くつもりだったのだけれど……」

 ぽつりと落ちた言葉に、数秒の沈黙。

「こういうときのための助手だろう?」

 と、ユーリスにおずおずと言われ、「そうですね」とリシャーナは微笑んだ。

 集合は午前十時に王都の東門前。

 事前に申請を出しておいた採取許可証と、魔法学園所属研究者の名札を下げ、いざ門の警備兵へと声をかけた。

 警備兵が許可証と名札を確認しているうちに、手際よく出門表へ記帳を済ませる。

 書類の返却の際、警備兵がつけ加えた。

「実は本日は東の森のさらに奥で、討伐隊の訓練が行われているんです」

 そこで警備兵は、なにかに気づいたように顔を上げた。遠くを見るようなその横顔に、リシャーナもつられて顔を向ける。

「二番隊!」

 警備兵が呼びかけたのは、離れたところを歩いていた討伐隊の制服を纏った男性二人だ。

 気づいた彼らが振り返ってこちらに近寄ってくる。その特徴的な輝かしい銀髪に、リシャーナは目を瞠った。

(――マラヤン)

 久しぶりの邂逅に、心臓の音がわずかに速くなった。

 マラヤンも、遠目にリシャーナに気づくとその灰色の瞳をかすかに見開いた。

「どうした。なにか問題でも?」

 討伐隊の一人が言うと、警備兵は首を振ってリシャーナを手のひらで示す。

「今日、こちらの魔法学園の研究者――ハルゼライン嬢たちが採取のために東の森にはいるので、念の為紹介をと思ってな」

「なるほど」

 そこでマラヤンの隣にいる討伐隊員は、リシャーナとユーリスに向き合った。

「進入防止用の結界を張ってありますが、万が一ということもありますので、あまり森の奥までは行かぬようお気をつけください」

「分かりました」

「緊急時用の救援弾は持っていますか?」

 心配そうな面持ちで、マラヤンがリシャーナに問う。

「ええ。もちろん準備しています」

 言いながら、ユーリスがマントの内側に入れた救援弾を見せる。それを確認した討伐隊の二人は、安心したように頷いた。

 そのとき、不意にマラヤンがユーリスの隠れた顔をちらりと見た。そして、今度は明確にリシャーナの方を向いて訊ねた。

「失礼ですが、隣の男性も学園の研究者でしょうか?」

 討伐隊としての公務中だからか、マラヤンは丁寧な――しかしどこか他人行儀な態度だ。

 そのことにほんの少しだけ淋しさを覚えながら、リシャーナは肯定した。

「彼は私の助手です。ちゃんと学園の許可証も持っています」

 リシャーナの声に続いて、ユーリスが自身の学園許可証を提示した。

 フードで顔を隠す男を不審に思っていたのはマラヤンだけではないようで、討伐隊と警備兵の二人は揃って許可証を覗いてはまた確かめるように頷いた。

「ユーリス……?」

 マラヤンだけがその名前に反応した。マラヤンにしては珍しく、どこか訝る意図を隠さずにユーリスの顔をじろじろと見た。

 そして、討伐隊の一人と警備兵が話し込んでいる横で、それとなくリシャーナの横に来てそろりと訊ねた。

「ユーリスって、あのユーリス・ザインロイツかい?」

「ええ。そうです」

 頷けば、途端にマラヤンの顔色が陰った。

(ああ、そっか。マラヤンはユーリスが婚約者だったことを知ってるんだっけ……)

 そして、その婚約が破談になったことももちろん知っている。

 リシャーナはマラヤンの陰った顔色の理由に気づいた。

 そりゃ元婚約者同士が破談後に一緒に働いているとなると、不思議にも思うはずだ。それに、マラヤンはリシャーナとユーリスの仲が良好的ではなかったことも勘付いているだろう。

(……心配してくれてるんだ)

 そう思うと、どこか嬉しくも感じる。けれど、そこに恋などといった甘いものは付随していない。そのことが淋しくもあり、当然だとも思う。

(マラヤンはサニーラと恋に落ちるはずの人……そのことは十分に分かってたもん)

 けれど、一時いっときはその手を掴んでしまったのは、ひとえにこの世界での淋しさに耐えきれなくなっていたリシャーナの弱さゆえだ。

 そして、サニーラに恋をすると分かっていたくせに、そのことを受け入れられずにマラヤンを裏切り者のごとく責めてしまった。

 明確に二人が想い合っているという確証もなく――だ。

 後悔が、リシャーナの胸に押し寄せた。

(それなのに、マラヤンはまだこうして私を気にかけてくれている……)

 恋でなくなったとしても、嫌われたわけではないみたいだ。

 けれど、それは杞憂な心配だ。

「大丈夫ですよ。なにも心配はいりません。ユーリスは、とても真面目で良い方ですから」

 我知らず柔らかく微笑んで言うリシャーナの横顔に、マラヤンはハッと息を呑んだ。

「きみが、そう言うならいいんだ……」 

「マラヤン……?」

 どうしてだろう。リシャーナは首を傾げた。

 ほっとしたマラヤンの笑顔が、晩秋の日のあの別れ際の笑みに重なって見えた。

「リシャーナ、そろそろ行かないと帰りが遅くなってしまう。今日は雲が多いし、天気が崩れるかもしれない」

 早く行こう、と促すユーリスにリシャーナも頷いて応えた。

「はい。行きましょうか」

 リシャーナはマラヤンや警備兵たちに簡易的な礼で頭を下げた。そしてユーリスと並んで森へ向かう。

(そういえば、この世界でサニーラは誰を選んだんだろう……)本当であれば、彼女は学園を卒業する頃には相手役のキャラクターと婚約をしているはずだ。けれど、そういった話は一向に聞こえてこない。

(ゲームの中ではユーリスとの出来事も語られなかったし、やっぱり原作通りとはいかないのかな……)

 そこでリシャーナはふと思った。マラヤンはもう、サニーラに恋に落ちただろうかと。

 マラヤンもサニーラも素敵な人たちだ。どうせなら二人には幸せになってもらいたい。

 二人とも所属部隊は異なっても同じ騎士団内の人間だ。会う機会は多いだろう。

 この世界でマラヤンしか愛してくれる人がいなかったあの頃は、彼が離れていくことが恐ろしくて仕方がなかった。

 けれど、今は違う。

 どうせ自分はこの世界では異物であり、愛してくれるのは糸田の家族以外はありえないと、マラヤンとの別離からようやく割り切れた。

 孤独感というものは決してなくなりはしないだろうが、今はそれを埋めるための目標が出来つつある。

(そう。とにかく今はこの魔力抑制装置を完成させないと……!)

 今日はそのための第一歩なのだ。

 リシャーナは志を新たに、ユーリスとともに森に足を踏み入れた。

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