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第4話

 南側の隅にある寄宿舎からしばらく歩くと、ぽつぽつと学生の姿が見え始めた。

 王都の中心部にあるこの王立魔法学園には、リシャーナの利用している寄宿、そして研究者のための研究棟。または学園内の教職員が集う事務棟や図書館。

 そして、中等部の校舎と高等部の校舎が一つの敷地に収まっており、地方の小さな町よりもよぼと大きな面積を誇る。

 このオルセティカでは、魔力制御を学ぶとして、七歳になる年から三年間、初等教育を受けることが義務付けられている。平民も貴族も関係なく義務づけられているため、学費は一切かからない。

 そこでは基本的な読み書きや計算も学べるため、オルセティカでは識字率が他国に比べて著しく高い。

 初等部の学舎は国内のいたるところに点在し、貴族と平民とではもちろん通える学校に違いが出る。学費は無料といっても、貴族はべつに寄付と称して多額の金銭を納めているし、貴族の子弟や令嬢のほとんどは各々家庭教師を雇って教育を施されているため、平民の子どもと同じスタートラインではないからだ。

 初等部で三年間の教育を終えると、平民のほとんどは家の仕事や農業の手伝いに駆り出されるが、貴族はその後の中等部に進むのが一般的だ。

 中等部は全部で六年間。

 王都を含む国内の主要な都市にあり、学生のほとんどが貴族であるがゆえか、軒並み広大な敷地と豪勢な建物で出来ている。

 ほとんどの貴族は中等部を終えた十五歳で領地に戻り、跡継ぎとしての教育を受けるものだ。

 しかし、そんな中でもさらに専門的な知識を学びたい者。また、将来国の中枢で働くことが決まっている高位貴族の家系の者たちは、さらに高度な学習を受けるとして、唯一王都に設立されている魔法学園の高等部に進学するのだ。

 リシャーナはこの夏にその高等部を卒業し、研究者として働いていた。

「おや、リシャーナ嬢。おはよう、今日も早いね」

 自身の研究室についたとき、ちょうど隣室のヘルサが顔を出したところだった。

 リシャーナの父よりも年上のヘルサは、白髪のまじり始めた髪を丁寧に後ろに撫で付けたロマンスグレーだ。

 隣室のよしみだからか、リシャーナが来てからなにくれと世話を焼いてくれている。

「ヘルサ教授。おはようございます」

 そっと片足を下げて柔らかく膝を折り曲げる。略式のカーテシーで頭を下げると、彼は困ったように笑って頬をかいた。

「リシャーナ嬢。私たちはみな教授で同等の立場だ。そう毎回丁寧に頭を下げなくていいよ」

「とは言いましても、私はまだ講義も持たぬ身ですから……」

 研究者として認められると、その研究は全面的に国の補助を受けることができる。

 衣食住にも困らないし、研究にかかる費用も国から援助される。しかも、国の発展のための労働と見なされるため、それなりに大きな給金も発生するのだ。もちろん都度国への研究成果の報告は求められるが、それでも至れり尽くせりなものだ。

 その対価としてはあまりに些細だが、研究者たちはその専門知識を学生に教授することが定められている。

 大体が週に一度、高等部学生への講義が義務づけられているが、リシャーナのように新米はまだ講義を持たない。魔法学園で講義をコマを振り分けられること。それ即ち、その研究が有益であると国から判断されたということ。

 研究者の中では、講義の時間を振り分けられてこそ一人前とも言われている。

 恐縮したリシャーナの言葉に、ヘルサは今度はおかしそうに笑った。声を立てても品を感じさせる笑いは、侯爵家の出だからだろうか。

「研究者になりたての子にそこまで頑張られちゃ、私たちの立つ瀬がないよ」

 大丈夫だよ、と励ますような笑顔でつけ加えた。

「最初の数年はとにかく自分の研究を頑張りなさい。そして少しずつ結果が追いついてくれば、そのうち嫌でも講義をしなくちゃいけなくなる」

「ご配慮痛み入ります」

「……きみはもう少し、肩の力を抜いてもいいと思うけどね」

 言いながら、ヘルサは優雅に手を上げて通り過ぎていった。リシャーナが来た道を戻るように歩いて行く後ろ姿を、リシャーナはしばし眺める。

 空のティーカップを持っているので、きっと一階の食堂へ行ってくるのだろう。

(紅茶のおかわりなど、給仕を呼べばいいのに……)

 各研究室には、給仕を呼ぶためのベルが備え付けられており、好きなときに飲み物や食事を用意してもらえる。

 もちろん一階には食堂もあるが、貴族の多い研究者の大半は各研究室で好きに食事をとっているものだ。

 けれどヘルサは、座りすぎは体がなまって仕方がないと、いつも散歩がてら自身で足を運んでいる。

 次男といえど侯爵家の出だ。

 給仕されることなど、慣れているだろうに……。

(貴族らしくない人……)

 そんなところに好感を持つのは、仲間を見つけたような気になるからだろうか。

 高位貴族でありながら、貴族らしくないヘルサ。一般市民でありながら、必死に貴族のふりをしている自分。

 背中を見送っていたリシャーナは、ふとため息をついてから研究室に足を向けた。そのとき――。

「あ、そうだリシャーナ嬢」

 思い出したようなヘルサの声に、リシャーナは再び振り返った。

「昨日の大切な人との時間は楽しかったかい?」

 朗らかな声に訊ねられた瞬間、ひやりとしたものが体の芯を伝った。

 ほんの刹那、喉がつかえたが、それをおくびにもださずリシャーナはにこりと微笑む。

「……実は、用事が入ってしまって会って早々にお別れいたしました」

 さっきよりも硬くなった声音や笑みに、ヘルサはなにかを察したように苦く笑った。

「そうかい……それは残念だったね」

 会釈をして別れ、リシャーナは早足で研究室に飛びこんだ。入ってすぐの革張りのソファに荷物を放り投げ、奥の仕事机に向かった。

 椅子に腰掛けた途端、組んだ両手に額を押し当てて項垂れた。

「はあ……」

 張り詰めていた息をゆっくりと吐き出す。平静を装ってはいるが体は正直なもので、喉が動揺を示すように震えていた。

 閉じた瞼に濡れた感覚を覚え、手探りにポケットからハンカチを取り出して目許に押し当てる。

 静かな部屋の中でしばらくそうしてから、ゆっくりと離す。わずかに濡れて色の濃くなった布地を無機質な双眸で見下ろしてから、リシャーナは引き出しから資料を取り出して研究に臨んだ。

 美しい碧眼は、さっきまでの涙の気配など微塵もなく乾いていた。

(なにを落ち込むことがあるの……最初から分かってたことでしょ)

 この世界で、リシャーナが誰かから愛されることなどあり得ない。リシャーナはこの世界にとって異物である。

 貴族として生まれながら貴族になりきれないリシャーナのことを、この世界の人間は――常識をは、受け入れてはくれないし愛してはくれない。

 ――私自身を愛してくれるのは、鈴やお父さんやお母さんだけ。

 ふとリシャーナは自嘲的な笑みを浮かべた。

(そもそも、マラヤンが私を愛してるなんて言うことがおかしかったんだよね……)

 温かかった日本での生活は泡沫のごとく消え去り、知らぬ間にオルセティカに生を受けていたリシャーナは大いに困惑した。しかし、戸惑ったのはそれだけではない。

 このオルセティカという国に、リシャーナ――糸田清花は見覚えがあったのだ。

 高校時代、居心地の悪い教室から逃げるように訪れていた屋上で、清花はいつも一人の女子生徒――椎名しいなと一緒だった。

 椎名はいつもゲームや本を持ち込んでいて、つい沈黙に耐えきれなかった清花が不意に訊いたのだ。

 ――それ、楽しい?

 長い前髪で目許を隠した椎名は、チラリと一瞬だけ清花を見て、また画面に眼を落とす。その瞳は昏い色をしていた。

「楽しいよ。これには私を愛してくれる人しか出てこないから……馬鹿にする人も、嗤う人もいない。ハッピーエンドが約束されてる世界だもん」

 思ってもいない言葉に面食らって、清花は椎名の横顔を凝視していた。その視線をどう捉えたのか、椎名は少し不機嫌そうに口角を落とす。

「べつにいいじゃん。ゲームでぐらい、自分に都合の良い世界がみたいじゃん」

 肩を丸めて小さくなる彼女が、清花には傷つけられるのを怖がる子供のように見えた。自分の両手に収まる機械に、彼女は縋っているのだ。

 それを感じ取った清花は、どこかほっとした。

 いつも周囲のことなど我関せずといった様子の椎名だが、そんな彼女でもなにかに縋っているのだと思うと、自分が特別弱いわけではないのだと思えたのだ。

 ――私だって、なにがあっても受け入れてくれる家族の愛情に縋っているから。

「うん。いいと思う」

 泣き笑いで嬉しそうに声を弾ませた清花を、今度は椎名が見開いた眼で見入っていた。

 そのとき教えてもらったゲームが、このオルセティカを舞台にしたゲームだったのだ。

 この世界では、人間や動植物などの命あるものは必ず「魔力」という生命エネルギーを持つ。その魔力を意図的に外に放出し、術式という「命令」を授けることで人は「魔法」という事象を発生させていた。

 魔法には、物体を自由に動かしたり、火や水を生み出したり、光りや闇を発生させたりと多岐にわたる。

 魔法を使えば、他者を害することも簡単にできてしまう恐ろしい世界なのだ。

 そのため騎士団や教育者など、国から許可された者以外の魔法の使用は基本的に認められておらず、子どもたちは平民や貴族問わず、必ず魔力の制御方法を学ぶための教育が義務づけられている。

 そのオルセティカで、サニーラという平民の少女が貴族の養子に入り、魔法学園に入学するところから始まる、恋愛シミュレーションゲームだ。

 膨大な魔力と人を癒やすことに長けた魔法を使うサニーラが、同じ学園に所属する王侯貴族の子息たちと絆を深める物語。

 マラヤンは、そのサニーラの相手役の一人だった。

 リシャーナは実際にゲームをプレイしたことはない。遊ぶ前にこちらの世界に来てしまっていた。

 知っているのは、椎名から聞いた大まかなあらすじや設定たち。そして、メディア展開されていたアニメでの知識。

 そのアニメは、いわゆる「マラヤンルート」というサニーラとマラヤンの恋愛を主軸として描いたもので、清花は二人がどうやって恋に落ち、絆を深めていくのかよく知っている。

 けれど、どうしてかマラヤンは高等部の二年生を終える頃、リシャーナに愛してると告げたのだ。

 戸惑ったリシャーナだったが、十年以上も自分を蝕む孤独感に疲れ果て、彼から差し出された愛情を手に取ってしまった。

(良い夢がみれたと思って忘れよう)

 また一年前に戻るだけだ。

 礼儀作法でガチガチに自分を守り固め、家族への淋しさを忘れるように、前世にはなかった魔力という概念の研究で頭をいっぱいにして時間を消費する。――そんな生活に。

 研究者になったのだって、なにも探究心や向上心からじゃない。

 ただハルゼラインの家に戻りたくなかっただけだ。戻れば、自分は家の決めた相手と結婚して、子どもを産まなければならない。

 そのため研究者というのはうってつけだった。

 国の発展のためという両親の喜びそうな大義名分があり、王都にしか研究機関がないのでハルゼライン領には帰らなくていい。

 研究というものは、リシャーナにとって結婚までの便利な時間稼ぎだった。

 気づけば綺麗だった机の上は資料や本で山が出来ていて、正午を知らせる鐘の音でリシャーナは我に返った。

 昼食に向かう生徒のざわめきが、遠くで聞こえる。

 ぼんやりしていたリシャーナの胃が、きゅうと切ない声で鳴いた。

 思わず隠すように腹に手を当てた。

(そういえば朝はパンを一つ食べただけだもんな……)

 一旦休憩として食堂に向かおう。ついでに図書館に寄って来ようと、借りていた本に手を伸ばす。

 そのとき不意に、自分の指先に眼がとまった。

 ――リシャーナ、きみは僕を愛してる?

 マラヤンの低い穏やかな声が蘇る。

 彼の唇が触れた指先をそっと握り、リシャーナは呟いた。

「……ええ、愛していたわ」

 例えサニーラと恋に落ちる運命だとしても、マラヤンはリシャーナを愛してくれた。

 気の迷いでも、なにかの間違いだったとしても、マラヤンはこの世界で受け入れられることのない異物なリシャーナを、唯一愛してくれた稀有けうな人だったから。

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