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第2話

 ――いつだって眼が覚めるときは騒がしかった。

 うっすらと意識がのぼって、瞼の裏に朝日の白さを感じ始めたころだ。

 廊下を走るドタバタした足音の後、控えめなノック音が聞こえる。すぐに「お姉ちゃーん?」と囁くような声と一緒にこそこそと入り込んできた人影は、寝ている姉を見るとくふくふと押し殺した笑い声を上げる。

 姉がおぼろげながら起きていることも知らず、妹はニヤニヤと楽しそうに「清花さやかお姉ちゃーん! 朝だよー!」と今度こそ大きな声で叫んだ。

 そしてひょいと軽い調子でベッドの姉にとびこんで、パタパタと両腕で叩いてくるのだ。

「朝でーす! もうご飯出来るよー?」

「ん~……すずちゃん、早すぎるよ」

 今起きたとばかりにむずがって妹――糸田鈴いとだすずの頭をポンポンと叩いて宥める。すると、すでに中学校のセーラー服に着替えた彼女は、へらりと嬉しそうに笑って「早くないでーす!」と主張した。

「ねえ、早く起きてご飯食べよ。私もう家でなきゃいけないもん」

「はいはい。今起きるよ」

 バスケ部に入っている鈴は、朝練があるから朝家を出るのは誰よりも早い。

 清花は本当はまだ寝ていたって高校には十分間に合う時間だ。けれど、鈴は一人のご飯は嫌だと言って、こうして毎朝清花を起こしにやってくる。

 鈴に促されるまま布団から出て、部屋にかかった制服に手を通す。

 黒のブレザーにグレーのスカートを慣れた手つきで身に纏い、最後に赤いネクタイを締めて完成だ。

 姿見で見えた制服姿に、途端に朝の爽やかさがどんよりとしてしまう。

(嫌だな……学校行きたくない……)

 憂鬱さを覚え、部屋から出ることに躊躇いを感じ始めた頃、また鈴がひょこりと部屋にやって来て着替え終えた清花の姿にニッコリ笑った。

「やっぱり高校の制服かっこいいよね! 私もブレザーでネクタイのとこ行きたいなあ」

 ほんの数ヶ月前の入学前の時期、真新しいセーラー服を前にうずうずしていたくせに、鈴はそんなことを言う。

「鈴は中学校にあがったばっかりでしょう?」

 気が早いねえ、と呆れながらも、内心では鈴のその言葉に救われていた。キラキラした彼女の瞳に見つめられた途端、清花の胸はふわりと浮き足立つように温かくなった。

 体を締めつけ、縛り付けるように思えた制服が、今は誇らしく感じられる。

「すずちゃん」

 戸口の妹を呼ぶと、きょとりと丸い瞳を瞬いた鈴は素直に近寄ってきた。

 肩口で短く切りそろえられた髪をそっと撫でるように整えてから、横髪を耳にかけてあげる。

「こっち側、ちょっと跳ねてたよ」

「え! ほんとに? うわあ気づかなかった」

「こうして耳にかけちゃえば分かんないから大丈夫だよ」

 さ、ご飯食べにいこ。そう言って鈴の背中を押して一階のリビングに行くと、すでに四人がけのダイニングテーブルには、綺麗に朝食が並んでいた。

「おはよう、鈴、清花」

 降りてきた二人に気づいたスーツ姿の父は、読んでいた新聞を畳んでテーブルの隅に置いた。父の声でキッチンから出てきた母は、エプロンを脱ぎながら時計と鈴とを見比べ、「鈴、あなたまだ食べてなかったの?」と渋い顔をした。

 そして、鈴の隣にいる清花に気づくと、ふっと表情を崩して微笑んだ。

「おはよう、清花。あなたも早くご飯食べちゃいなさい」

「うん。おはよう。お母さん、お父さん」

 リビングにある大きな窓からは、早朝の白い陽光が差しこんでいる。それに照らされた家族が自分を見る眼差しは、どこまでも温かくて心地が良い。

 自分を出迎えてくれるその空気が、胸の内で泣きたくなるような喜びがこみ上げた。

(大丈夫、私にはこうして愛してくれる家族がいるから)

 みんながいるなら、大丈夫だ。なんだって耐えていける。

 この制服を着る度に毎朝気が滅入るし、登校時間が近づけば近づくほど憂鬱な気持ちは増していく。それでも、自分の帰ってくる場所があるのだと思えば、家族がいるのだと思えれば不思議と大丈夫な気がしてくるのだ。

 食卓につく三人の姿を、清花は立ったまま眼に焼き付けていると、ふと気づいた三人が振り返った。

「あら? どうしたの、清花」

「お姉ちゃん、今日もお母さんの朝ご飯おいしいよ」

「冷めてしまうから、早く座りなさい」

「うん!」

 柔らかく笑う三人のもとへ足を踏み出した瞬間――突然フローリングが消えて、清花は着地点を失った足からそのまま暗闇に放り出された。

 一瞬で体のひっくり返る感覚。胃の浮くような恐怖感のあと、ハッとは眼を開いた。

「ハッ、ハッ……夢……?」

 しばらくベッドの天蓋を見上げていたが、肩で息をしながらゆっくりと体を起こす。項垂れるように息を整えてから、やがて重そうに頭を上げた。

 乱れた黒髪が顔を覆い、その隙間から覗く青い瞳がぐるりと部屋を一周する。

 さっきまで見ていたような清花の自室じゃない。

 教科書が広がったままの勉強机も、滑らかなフローリングの床も、制服のかかったクローゼットもない。

 横たわっているのは天蓋つきの広々とした豪勢な寝台だし、床には足を置くと埋もれてしまいそうなほど柔らかい絨毯が敷かれている。

 部屋の中央には、派手な装飾のついた暖炉が沈黙していた。夜中は冷えるからと火を焚いてから寝たが、今じゃ燃え尽きてしまって部屋の中には冷えた空気が漂いつつある。

 耳が痛いほどに、静かな朝だ。自分の呼吸の音以外、なにも聞こえない。誰の気配もしない。

 同じ朝であることに代わりはないのに、夢の中とは雲泥の差だ。そう。まるで一瞬で別の世界に紛れ込んだように――。

 そこまで考えたリシャーナは、いやと首を振った。

「ほんとに違う世界だもんね……」

 呟いてから、おもむろにベッドから起きて顔に張りついた髪を整える。そのとき、目許に触れた指先が濡れたことに気づき、ネグリジェの裾で乱暴に目許を拭った。

 暖炉つきの寝室の隣には、これまた天井の高いリビングがある。そこを通り過ぎてバスルームに向かったリシャーナは、白い陶器の洗面台に水をためて顔を洗った。

 泣いたせいか熱を持った目許に冷えた水が当たって気持ちが良い。

 濡れたままの顔を上げると、ふと鏡の中の自分と眼が合った。

 照明のついてない薄暗さのなかに、まるで幽鬼のような黒髪の女がぬっと映り込んでいた。

 真っ青なほどの白い肌を晒しているが、それでも女の顔立ちは美しい。

 キリッと目尻のあがった意志の強そうな大きな碧眼。通った鼻筋に子作りの唇。腰まで伸びた真っ直ぐな黒髪は、乱れていてもなお艶を失わない。

 それでも幽鬼のように恐ろしく思えるのは、その碧眼には光りがなく、生気が宿っていないからだろうか。

 極楽で幸せに暮らしていたところを、突然地獄に落とされたような顔をしている。

 どこか他人事ひとごとのように鏡の中の女をまじまじと観察し、不意にリシャーナはそれが自分であることに気づいた。

「……いっそ黒髪じゃなければ良かったのに」

 この黒髪は母譲りであるが、父は薄い金髪だ。碧眼は父由来のものなので、どうせなら髪だって父に似てくれれば良かったのだ。

 そうすれば、鏡を見る度に昔のことが頭を過ることだってなかったかもしれない。

 ――お姉ちゃん、朝だよ!

 耳の奥に返ってきた鈴の爽やかな声に、鏡の中の青い双眸が一瞬、潤むように光りを携えた。

 それを誤魔化すように水で洗い流して、タオルを手にリビングに戻る。

 熱をもっていた目許も幾分か楽になったし、寝ぼけていた頭もクリアになった。

 昨日のうちに買っておいたパンをダイニングテーブルに置き、寝室に戻ってネグリジェを脱いだ。

 真っ白なシャツにタイをつけ、膝よりも長い黒いスカートを纏う。シンプルな服装ながら、それでも一つ一つは上物の素材で出来ている。

 学生ではないので制服は存在しないが、研究員は私服の上に指定のローブを羽織るのが決まりだった。

 袖口の広がったローブには、研究棟の所属である赤いラインが入っている。ちなみに学園の職員には、それぞれの所属によって決められた別の色が刻まれている。

 手早く身支度を整えてから、リシャーナは隣のリビングに戻った。

 寝室と同じぐらいに広さのあるリビングには、これまた大きな窓と、重厚な作りのダイニングテーブルがある。真っ白な漆喰で仕上げられた壁が眼に眩しいくらいだ。

(これが寄宿舎だっていうんだから、驚きだわ……)

 パンを頬張りながら、リシャーナは見るともなしに部屋を見渡した。

 広々とした寝室とリビング以外に、キッチンや浴室も各部屋に完備されている。そして、それらすべてが一人で暮らすには立派すぎるものだ。

 しかも学園の職員や研究者であれば、無料で利用することが出来る。

 利用時間は定められているが食堂だって併設されているし、一階はフロア全てを使った玄関ホールで、居住者たちのフリースペースにもなっている。

 おまけに学園の敷地内にあるので、通勤時間もさほど気にしなくて済む。

 豪華な建物には実家の屋敷で十分に慣れたと思ったが、やはりまだまだだったらしい。

 半ば牛の乳で流し込むように朝食を終えたリシャーナは、休むこともなく出勤の準備を始めた。といっても、必要なものは専用の研究室に置いてあるので、荷物なんてほとんどあってないようなものだ。

(まさか伯爵令嬢がパン一つで学校に行ってるなんて知れたら、きっとあの人たち卒倒するだろうなあ)

 リシャーナの生まれたハルゼライン家は、王都から東に離れた地域を治める貴族である。実家では身支度は侍女の仕事だったし、食事は全てコックが腕によりをかけた豪勢なものだった。

 本来、リシャーナの立場であれば、こんな寄宿生活なんてしているわけがない。現に、この寄宿制度を使っているのは平民出身者ばかりだ。貴族の者はみな、社交シーズンを過ごすための邸宅を王都に一つは持っているので、必要があればそこを使用している。

 ハルゼライン家だってもちろん王都にやしきを構えていた。研究員として学園に残ると告げたとき、父と母にはその邸を使いなさいとも言われた。しかしリシャーナは、それを断わって宿舎に身を寄せている。

 両親には、自分のことは自分でしたいから。自立心を養い甘えをなくすため……などとそれらしいことを並べ立てたが、本音としてはただその邸を使いたくなかったからだ。

 王都の中心部にほど近いそこは、ほか貴族たちの邸も多く建ち並ぶ。みなそれぞれ己の統治する領地があるので、王都に普段から滞在している者は少ないだろう。しかし、それでも貴族街に住めば誰かしらと顔を合わせる機会はあるはずだ。

 そして貴族同士であれば、休日などに茶会に誘って誘われて……と、交流を持つのが礼儀というものだ。

(それが面倒なんだよね……)

 内心でぼやき、玄関の姿見で最後にタイが曲がっていないか確認してから、リシャーナは部屋を出た。

 薔薇の彫刻が施された扉は、その装飾の愛らしさとは裏腹に重厚なオークで出来ていた。壁も厚く、廊下の足音なんて聞こえるはずもない。なによりここには、廊下を走るような人間は存在しないだろう。

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