冬の足音が聞こえ始めた晩秋の風は、リシャーナ・ハルゼラインの白い頬を冷たく撫でた。
それでも沈みかけた秋の夕暮れにあたるとぽかぽかと体は温かい。さっきまで学園内の樹木に背をもたれて待ち人を待っていたときは、その温もりが心地よかったはずなのに、今は体の芯から冷え切ったように寒くて仕方なかった。
リシャーナはそっとローブの上から自身の肩を抱いた。
学園を卒業し、研究者としてこのローブを着られるようになって数ヶ月。学生ではなくともこの王立魔法学園に自由に行き来でき、そして学生時代の成績優秀者にしか許されない研究者としての証であるローブは、毎日袖を通すだけでも心を躍らせる。
(でも、そろそろこのローブだけじゃ寒いかもしれないわね……)
風の音が嫌に耳につくなか、リシャーナは眼の前の出来事から目を逸らすようにぼんやりとそう思った。母譲りの長い黒髪が、風によって大きくたなびく。
目の前にいる恋人――マラヤンの美しい銀髪も同じように風にさらわれた。銀色の光の波は、ハッと息を呑むほどに美しい。
風で細くなった彼の瞳が、再びひたとリシャーナを認めた。
「リシャーナ」
呼ばれた途端、その先を拒絶するようにリシャーナの口から鋭い声が出た。
「やめてください! 一体どうしてなのですか? なぜ急にそんなことをいうのです?」
ゆるゆると頭を振ったリシャーナは、怯えたようにその碧眼でマラヤンを見上げる。
(どうしてこんなことになっちゃったの……)
さっきまでは久しぶりのデートだって、あんなに嬉しかったのに。
いつも夜遅くまで研究棟に残っているリシャーナが夕方にいそいそと帰宅する姿に、隣室の教授は珍しいものを見たと目を丸くしていた。
「珍しいね。リシャーナ嬢がこんなに早く帰るとは」
「今日は大事な人が迎えに来てくださってるんです」
恥ずかしそうに眼を伏せつつも嬉しさを滲ませるリシャーナに、老齢な男性教授は眼鏡の奥で目許の皺を濃くして大きく頷いた。
「そうかい。それは嬉しいね」
楽しんで、と見送られたときの浮き足立つ感覚が、今は遠い昔のことのようだ。
待ち合わせは人の来ない学園の隅――二人の思い出の木の下で。
先についたのはリシャーナのほうで、ソワソワと逸る気持ちでマラヤンを待っていた。道中、気にかかる光景を眼にしたものの、考えちゃダメだとその不安は無理矢理頭から追い出した。
それなのにどうだ。
騎士団に入った忙しい恋人と久しぶりだとひとしきり笑い合ってから、「そういえば」とリシャーナが切り出した。
「話したいことってなんですの? なにかありました?」
学園を卒業後、新天地での生活が始まればしばらくの間は忙しくなることは分かりきっていた。それでもマラヤンは、出来るだけリシャーナと予定を合わせてはこうして少しの時間でも一緒にいてくれる。
忙しいだろうとリシャーナが気を遣っても、きみに会いたいからだと甘い笑みで言われてしまうと、それ以上は言えなくなってしまう。だって、恋人に会いたいのはリシャーナだって同じなのだから。
そんな彼が今日の約束を取り付けたときに言ったのだ。話したいことがあるから――と。
なにかあったのかと不安に思ったリシャーナが訊けば、途端に再会を喜んでいたマラヤンの表情が硬くなった。灰色の澄んだ瞳が躊躇うように揺れたと思えば、真っ直ぐにリシャーナを見て告げたのだ。
「リシャーナ、僕たちの関係を終わりにしないか」
その瞬間に夕暮れの温もりも、逢瀬の喜びもなにもかもが遠い所へ行ってしまった。残ったのは、捨てられるという恐怖だけ。
足元からのぼってくる冷たい恐怖に、ローブ越しに自身の両腕を抱きながらリシャーナはさっき見かけた光景を思い出した。
「サ、サニーラ? 私と別れてあの子と付き合うのですか? やっぱりあの子のことを愛してしまったの?」
ここへ来る途中、同級生のサニーラとマラヤンが並んで歩いてるところを見た。二人とも笑っていて、ずいぶんと楽しそうに話をしていた。その光景が頭を埋め尽くし、チカチカと急き立てるように点滅している。
リシャーナから彼女の名前が飛び出ると、マラヤンはまたかとばかりに眉をピクリと揺らし、なぜか灰色の瞳に痛みのようなものを走らせた。
「リシャーナ、何度も言うけれど僕と彼女は決してそんな関係じゃない。僕が愛しているのはきみただ一人だよ」
「でも!」
「たしかにサニーラは何事にも一生懸命で人として好ましく思ってる。でも、愛してるわけじゃないんだ」
――どうして分かってくれない?
言外にそう責められているような気分になるのは、リシャーナ自身がこうして問い詰めることに後ろめたさを抱えているからだろうか。学園を卒業して会える時間が減り、不安になったリシャーナが何度サニーラとの関係を疑ったって、マラヤンはこうして毎回真摯に、そして丁寧に言葉を並べて向き合ってくれた。
繰り返される追求に、決してマラヤンは雑に言葉を投げることも、面倒だと顔を曇らせることもない。
今だってリシャーナを見つめる瞳からはやましさの欠片も見えない。だが、疲れたような諦めが微かに見て取れた。
それに気づいたリシャーナは、申し訳なさでいっぱいになる。一方で、自分でもどうしようもない憤る気持ちが湧いた。
(だってしょうがないじゃない! あなたは
心の叫びは、胸の内でだけ悲痛にこだました。
こんなことを言ったら、それこそ本当に頭がおかしくなったと思われる。今だってサニーラとの関係を異常なほどに勘ぐって神経質になっているのだ。
これ以上彼から見放されたくない。
(私だって分かってるよ……!)
本当は二人がなんの関係もないのだと、リシャーナの冷静な部分では分かっている。一緒にいることが多いのは、国を守る立場で怪我の多い守護隊と、サニーラの属する後方支援の医療部隊では接点が多いからだってことも。
並んで歩いていたって、恋人のように触れ合っていたわけでもない。ただ同級生と話をしていただけで、甘い雰囲気があったわけでもない。
冷静な自分はそう分析して、必死に落ち着くように声を上げている。でも、頭に染みついた光景が、情報が、リシャーナの心を騒ぎ立てるのだ。
サニーラの豊かな稲穂色の髪がマラヤンと並んでいる姿を見ると、もう自分でも制御できないほどの感情に襲われるのだ。
「お願い、あの子のところに行かないで……」
とうとう涙ながらにリシャーナはそう訴えた。彼の隊服の袖口をそっと握り、縋るように声を震わせる。
涙ぐんだリシャーナの碧眼を前に、マラヤンも辛そうに目を逸らした。
――お願い、私を一人にしないで。
そう祈るようにはらはらと泣きながら見上げていると、不意にマラヤンは意を決したように意志の強い瞳を向けた。
袖口を掴んでいたリシャーナの手をそっと解き、すくい上げるように握りしめる。
温かな彼の体温と真っ直ぐな瞳に、リシャーナの胸が期待で高鳴った。
撤回してくれるかも。そう希望を持ったのも束の間、マラヤンは静かに訊ねた。
「リシャーナ、きみは
「……え?」
困惑したリシャーナが見つめ返したが、マラヤンの瞳は至極真面目な光を宿していた。
「
「どうしてそんなこと訊くのですか? 当たり前じゃないですか? 好きです。愛しています。だから別れるなんて言わないでください!」
お願い、私のことを愛してください……。
か細いリシャーナの哀願に、マラヤンの指先がピクリと動揺を示した。葛藤するように硬く力の入った手がリシャーナの白い手を握る。しかし、不意に力が緩んで、それと一緒にマラヤンは微笑んだ。
まるでリシャーナがなんて答えるか分かっていたかのように見えた。
それは決してリシャーナの愛の言葉を喜んでいるようには見えず、むしろこちらがハッと息をのむような淋しい笑みだった。
「マラヤン……?」
どうしてそんな顔をするの?
彼の真意が分からない。一体あなたはなにに傷ついているというの。
「リシャーナ」
困惑するリシャーナを呼ぶ声は、温かく愛情に満ちている。しかし、そこには別れを決意した確固とした響きを感じた。
咄嗟にそれを感じ取ったリシャーナは、涙を目許に膨らませてゆるゆると首を振る。
「いやです、マラヤン。お願い」
幼い子どもが駄々をこねるようなリシャーナの訴えに、マラヤンは嬉しいような苦いような曖昧な笑みを浮かべた。
「きみのことを本当に愛してた。淋しがりで、でもそれを見せられない強がりな愛しいきみを」
触れ合った手が、離れがたいと言うようにきゅっと力がこもった。そのもう一方の手は、リシャーナの頬を撫でる。
「でも、僕たちはもう一緒にはいられない」
惜しむように何度も輪郭を撫でた指が、やがて離れていく。
「僕のせいで変わってしまうきみを、これ以上見ていられないんだ」
恨んでくれ。その言葉とともに、すくい上げられた指先に小さなキスが落ちた。
そうしてくるりと背を向けたマラヤンは、一度も振り返らずに去って行った。
夕暮れと夜空の混じる空の下、リシャーナは追いかけることも出来ずにはらはらと涙を流して立ち尽くしていた。