高橋さんが厨房から顔を覗かせる。
「おい、誰だ!しっかりしろよ!」
「……す、すみま、せん、俺で、す」
口もまともに動かない。
「秋斗?……おい、お前どーした?顔真っ青だぞ。ちょっと、裏いけ。んなんじゃお客様に迷惑かける」
空気を察した坂口さんが、俺の担当席へのフォローにすでに入っていた。
陽向は山本様の顔を見ながら、うんうん、と楽しそうに頷いている。
そっか……
そっか、陽向。
陽向が、幸せなら、いいんだ、
いいんだけど、さ。
なんで、よりによって、そいつなんだよ?
割れたガラスを気持ち悪い胃を抑えながら、塵取りへと片付ける。
その塵取りを持ったまま、ふらふらと事務所の椅子に座り込んだ。
最悪だ。
こんな忙しい日に。
俺、こんな弱い人間だったのか……。
「おい、秋斗、どうした!?とりあえず水飲んで、落ち着けよ?」
オーダーの合間に来てくれた高橋さんの優しさに
みっともなく涙が滲みそうになる。
「俺、山本様……と……俺……ひ、ひなた……」
自分でも何言ってるのか全くわからなかった。
パイプ椅子に座り、テーブルに頭を擦り付ける俺を覗き込むように、高橋さんもしゃがみ込んでくる。
「は?まさか、ひなたちゃん来てんの!?え……?あの5卓の山本様のお連れ様の!? あの、なんとかってアイドルにいそうな可愛い奴!?あれが噂のひなたちゃんか!? へー!ひなたちゃん、レベルたけーじゃん!!いや、いやいや、てか、山本様となんで一緒なんだよ?あの人、とっかえひっかえのゲイで、結構遊んでるって有名だぞ?そんな奴といるってことは……やっぱお前、ひなたちゃんに遊ばれてたんじゃねーの?それか、ひなたちゃんも山本様に騙され……」
「高橋さんー!オーダー入りましたー!お願いしまーす!」
高橋さんが立ち上がる。
「っくそ、はーい!今行く!……とりあえず秋斗は、山本様帰るまで、ここいとけ、な?坂口に任せときゃ大丈夫だから」
バシバシっと背中を思いっきり叩かれた。
……ははっ、いてぇ。やっぱりシェフの腕力、はんぱねーわ。
一度ポロリと溢れたら、どんどんと溢れる方式なんだろうか、
制服の黒いサロンにぽつ、ぽつっと染みができる。
俺、だっせー、な。
「今日は……、ご迷惑をお掛けしてしまい、すみませんでした。明日、一日、きちんと休んで、また水曜日、しっかり仕事します。」
22:46、iPadの打刻をしてもう一度スタッフみんなに頭を下げる。
結局山本様が帰られたのは21時前だった。
そこからの片付けからしか、ホールに出る事が出来なかった。
自分の弱さが恥ずかしすぎる。
「うん、大丈夫、お互いこういう時は助け合うのもホールとして大事な仕事だからね。こんな日もあるよ、ホールだって人間だからね。気にしないで!水曜日から、またよろしくね」
坂口さんが伝票を整理しながら、俺の仕事をフォローしなきゃいけなかった事について怒るどころか、優しい言葉をかけてくれた。
何か、高橋さんから聞いているのだろうか?
いや、聞いていたにしても、違うにしても、
この人の言葉、安心する。
人が、出来ている。
俺も、こんな人間になりたいわ……。
「ありがとうございます。お先に、失礼します」
もう一度深く頭を下げてから、静かにホールと事務所を繋ぐスライドドアを閉める。
まとめられていたゴミ袋を片手に、事務所のドアを開けた。
そこには
片付けがひと段落して、コーヒー缶を持ちながら、電子タバコを咥えている高橋さんが、店裏のフェンスに寄りかかっていた。
「あ、高橋さん……、お疲れ様です……今日は、色々と、すみませんでした……」
「ん、ありゃー、キツいわな。気にすんな!……っても無理だろうけど……、秋斗が前向けるようなこと、手伝えることあったら言えよ?ジムでも、肉食べ放題でも、飲みでも付き合うからよ」
ぽんぽんっと、肩を軽く叩かれただけで、
またじわっと涙が滲む。
俺の涙腺はどうやら壊れたらしい。
「ありがとう、ございますっ……ははっ、飲みは、もう、勘弁っす。忘年会ん時、次の日のきっつさ、まじハンパなかった……一日中ベッドで死んでましたからね」
「お前、あんなんで二日酔いしてんのかー!?よっわいなー!今度は朝までちゃんと付き合わすからな! まぁよ、こんな日はパーっとビールでも飲んで、エロ動画でも見て、抜いて、スッキリして眠れーそれに限るぜ!な!」
ホント、相変わらずな下品さ。
でも、やべぇ、
そんなのが嬉しく感じてしまうほど、
俺は相当、心にダメージをくらっているらしい。
「はい……」
これ以上話していると、またポロリと目から気持ちとは裏腹な水分が溢れてきそうになり、
頭を思い切り振る。
ガシャン!とダストボックスのステンレスの蓋を引き上げ、ゴミ袋を放り込んだ。
ん、お疲れー という高橋さんの声に軽く頭を下げながら、従業員用出入り口のフェンスの鍵をしめた。
電車で一駅……。アパートのある花⚪︎駅へ戻ってくる。
毎日、毎日、電車に乗るため、家に帰るために、
あいつの働いているHARE coffeeの前を通らなければいけない。
これが、本当に精神的にきつかった。
カフェの前は毎回、ほぼダッシュで通り過ぎる
何度か待ち合わせたあの、東口の柱も
通るたびに目をつぶって、見ないようにする。
そこにあいつが、またいるんじゃないか、とアホみたいな事を考えてしまう自分が嫌すぎる。
歩きで出勤しようかとも思い、何度か挑戦したが、
出勤前はいいにしても、仕事終わりの足がパンパンな状態で、20分近く歩かなきゃいけないのは、キツすぎた。
何度か2人で行ったコンビニ、ラブホへ通じる通り
頭の中では懸命に忘れていこうとしてんのに、
普通に生活しているだけで、どうしてもあいつの顔がいちいち浮かんでくる。
これが未練ってやつなのか?
はぁ、いっそのこと、引っ越そうか……。
職場近くの……でもなぁ田⚪︎駅周辺、ここら辺より家賃高いって聞くしな……。
はぁ、もう、すべてが嫌んなる。
山本様が帰ったのは21時近かった……
その後、駅近辺のラブホで……陽向……あいつに、今頃、抱かれてんのか……?
あいつにも、あの甘い声、聞かせて
柔らかい身体、抱かせてんのか……?
俺だけが、陽向のそこ、見れたんじゃねぇのか……
ツンとしたあの赤い唇に、キス、させてんのか……?
あの眼鏡に抱かれて、乱れる陽向を想像してしまい、
そんな自分が嫌で嫌で嫌すぎて、頭を壁に打ちつけてしまいたくなる。
23時過ぎだか、まだぽつりぽつりと人は歩いている。
終電まで間も無くなので、足早に歩いている人も多い。
そんな中、頭を打ちつけていたら、さすがに通報もんだ。
必死に理性を保とうと
がっーーーっと頭を左手でかき乱していると、
コンビニの明かりが見えた。
そうだ、ビールでも買っていこう。
高橋さんも言ってた。
一気に飲んで、酔って、あいつのこと、
今日までのこと、全部忘れて、ぐっすり眠りたい。
そうだ、そうしよう。
コンビニへ向けて足を早める。
コンビニ前の段差に座り込んでいる人影が見えた。
……げ、酔っ払いか?
ウザ絡みするような奴じゃなきゃいーけど。
たまにコンビニ前で力尽きたように、眠っている奴も見かける……
まじで、コンビニの迷惑だからやめろよな、本当さ。
いい大人が。
あまり関わりたくはないが、でも今日はどうしても飲みたかった。飲まなきゃ多分、眠れない。
膝をかかえるようにして座り込んでいる人…を回り込むようにして、様子を伺う。ん?女?男?
どちらかわからない……
……
……。
まて、
あのコート……。
ベージュのふわふわとしたコートにとても見覚えがあった。
コンビニの明かりの逆光でもわかる、サラサラとした茶色がかった髪
コートの袖からのぞく、細く白い綺麗な形の手首。
俺……知ってる……。
……
その人は、ひく、ひくっと、肩を振るわせていた……
……な、泣いてる……?
違うよな、まさか、違う、よな?
どうしよう、
どうしよう、
どうしよう。
やめろ、関わるな、帰ろう!
でも、
でも……
好きな奴が泣いてんのに、見て見ぬふりして放っておける? そんなわけが、
ない。
肩を震わせながら座り込んでいるその人に
恐る恐るそっと声をかけた。
「ひっ、陽向……?どうした……?」