「ん、このワイン、すっげー飲みやすい。俺みたいなワインのこと、よくわからない人でも、試しに飲んでみるのに丁度良い気がします」
月曜日、営業終わりの22時過ぎ。オーナーが海外や、知り合いから取り寄せてきた、店にはまだ置いていないワイン5本の試飲会だ。
オーナーが送ってくるということは、このワインはワインリスト入りさせるのがほぼ決定だから
……それをどうオススメするのか、どの料理、どの客層に合わせるのかを、店の方針として決めなくてはいけない。
正直、俺はここの店で働くようになってからワインなり、他の酒も飲むようになった。勉強のためだ。
だから、酒にも全く詳しくないし、大して強くもない。ワイングラス二杯も飲んだら、すぐに頭がふわーっとしてくる。
高橋さんや他のシェフ達は、相当酒飲みらしく……カパカパとワインを空けて行くから恐ろしい……。
それを横目で見ながら、忘れないうちに、ワインの名前、産地、味、感想をメモに書き込んでいく。
全てのワインのボトルが空く頃には、日中の疲れもあってか、ふわふわと眠気が襲ってくるほど酔いが頭の中を回っていた。
「お疲れー!じゃあ、また明日の8時なー!みんな寝坊すんなよー!」
「はい、お疲れ様です」
シェフ達と一緒に、みんなで試飲会を行っていたテーブルを元に戻し、ワイングラスなどを洗い場まで下げる。
俺がワイングラスを洗い終える頃、高橋さんたちシェフはまた白いコック帽を被るとバットを取り出して、鍋に火をかけ始めていた。
もう23時だぞ?これから仕込み、すんのか?シェフって体力、ほんとバケモンだよな……。
店の従業員出入り口のドアを閉め、駅に向かって歩き始める。
足元が少しふわふわする。
あー、なんだろ、これ。
スッゲー疲れてんのに、なんか、なんか、
今、
無性に、あいつの顔、見たいかも。
そんな事を思いながら、尻ポケットからスマホを取り出す。
だいぶ見慣れたコーヒーカップのアイコンをタップした。
『陽向仕事お疲れ。俺も今終わった。
今日会えなくてごめん。でも、今からでも少し会えない?』
酔った勢いだろうか、送り終わって、自分のメッセージを読み返してギョッとした。
待て待て待て!……これ、
だいぶキモくないか?
こんな23時に……もしかしたら、もう寝てるんじゃないか?
いや、やばい、これは。
そうだ、取り消ししよう。
慌てて画面を操作し
取り消しを押そうとする直前……『既読』がついてしまった……。
終わった……。ただのキモい男だ、これじゃ。
な、なんか、間違えて打った、とか、うまいこと言い訳しないと!
ピコン!
うわっ!
『いきます!!!!いつもの東口で、良いですか?』
え?
いいの、か?
寝てこそいないものの、寝る準備とかしてたんじゃないのか?
いつもこのくらいの時間に『おやすみなさい!また明日も頑張りましょう!』とお決まりのメッセージが来ているだろ。
いや、やっぱり、間違いだったと送ろうか……、いや、陽向のことだ……
このメッセージの感じ……すぐに駅に向かいそうな気がする。
夏だとはいえ、こんな遅い時間に1人で駅前で待たせるわけにはいかない。早く、出かけてしまう前に、メッセージ送らないと……
『今から駅に向かうから、また電車乗ったら連絡するわ』
よし、これで、俺が花◯駅に戻ってきてから、電車乗ると送れば、陽向を待たせることはない。
その時に、やっぱり夜遅いから今日はやめようと言おう。
よし、そうしよう。
ふわふわする足に力を入れて、丁度ホームに走り込んできた電車に乗るため、階段を駆け降りた。
一駅で到着した花◯駅の改札を抜ける前に『今から電車乗る』と送った。
よし、まだ家から出ていないだろう……。多分。
しばらくしたら、もう遅いから……とメッセージを送ろう……
いや、待てよ。
まさか、まさか今、もうすでに、いないよな?
一旦、東口に出て、陽向がいないのを確認してから、送ろう。
変に嘘ついて、ややこしいことにならないように。
いて欲しいのか、いて欲しくないのかわからないが、
胸の辺りがつっかえるように息がしずらい。
いつもの東口、陽向らしき人影はない……良かった。まだ来てなかった……。
ほっとして、いつも、自分が寄りかかっている柱に寄りかかりに行こうとすると、
ぽけーっと真っ暗な空を見上げている、あまりに綺麗な横顔が見えて、一気に全身にアルコールが巡った。
「っわぁ!早っ、もういたんだ?俺、さっきメッセージしたばっかなのに」
驚きすぎて、声が裏返った。
まじ、気持ち悪い、俺。
「い、いえっ、今来た所です!」
ぱっと、陽向がこっちを振り向き、にこっと笑う。
今来たところで、そんなゆっくり空なんて見上げるか?
おそらく、最初のメッセージの後に、もう来ていたのだろう。
少し湿っている陽向の髪……きっと風呂も終わって、眠る所だったんだ……風が吹くと、甘いシャンプーの香りがして、誘われるように、陽向の髪に顔を埋めていた。
「いい匂い、する。ごめん、風呂も入って、寝るところだったよな?急に、こんなふうに呼び出したりして……迷惑だったら言っていいから」
自分で呼び出しておいて、何を言ってんだ、俺は……
名残惜しい甘い香りから、顔を離すと、陽向の顔をじっと見る。
白い肌の頬から目元にかけて、薄く、紅く染まっていた。
「迷惑なんて。俺、嬉しかったです!明日火曜で休みなので、お休みですし!」
「そっか、良かった。……っても、俺、明日朝からミーティングあってさ。呼び出しておいて最悪なんだけど、すぐ帰んないと、やばい」
いや、本当に、マジで最悪だよな、俺。
呼び出しておいて、明日早いから帰るって……。
でも、でも、こんな時間に、わざわざ来てくれたことが、
すっげー嬉しい。
なんだこれ。誰かに会えて、こんなに嬉しいなんて、気持ち……。
なんか、身体がぽかぽか、あったけぇ。
酔いすぎか?俺……。
陽向はどんな気持ちで、俺に、会いに来たんだろうか……
色々と頭でぐるぐると考えていたら、本気で酔いが回ったのか、視界がぼやけてくる。
ぐっと強く目を瞑ってから、目の前の華奢な男に、ほぼ体重を預けるかのように、しがみついた。
「ちょっと、陽向パワーちょーだい。疲れた、まじ……」
陽向の肩に顔を埋めると、陽向自身の香りなのか、ボディソープの香りなのか、ふわりとココナッツみたいな香りが鼻先をくすぐった。
「最近満席続きでさ。ま、それはいーことなんだけどさ。今日も仕事終わりで疲れてんのにさ、新しいワインの試飲会もあって、さすがにへとへと。 明日はさっき飲んだワインを入れるかとか、ワインリストの新調したり、お客様への合う料理や、常連さんへのオススメの仕方のミーティング。……なんか、疲れ過ぎたら無性に陽向に会わなきゃって思って……、こんな時間に、ほんとごめんな。」
やばい、酔い回ってる……。何しゃべってんだ、俺。止まらねー。
その後も、俺より遥かに細く小さな男に身体を預けっぱなしで、深く深呼吸しながら、目を瞑っていた。
なんか、落ち着く。
なんだろう、この、感じ。
「ううん。本当に嬉しいです、俺。こんな風に秋斗さんに会えて。今週は、もう会えないと思ってたから……」
陽向の細い腕が俺の背中に絡みついてきた。
まるで子どもでもあやすように、ぽんぽん、と背中を優しく叩かれる。
うっかりすると、そのまま眠ってしまいそうなほど、心地が良かった。
まじ、こいつ、マイナスイオンとか、出てんのか?
すーっと意識が遠のきそうになる。
……どれだけそのまま、くっついていただろう。
夜風が心地よく陽向の髪を揺らし、俺の頭もだんだんとクリアになってきた。
やばっ、俺、なにしてんの!?
冷静になってきて、慌てて陽向の細い肩をぐっと離した。
「っあ、……ごめん、俺。ちょっと、酔い、覚めてきたわ。まじ、ごめん。」
陽向が俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。
そりゃ、そうだよな、突然夜中に呼び出して、こんな風に抱きつかれて
びっくりするわな、普通。
陽向に言うための言い訳を必死で考えるが、上手い言葉が思い浮かばない。
そのうちに、陽向の唇が震えて、目元が潤んできた。
え?何で?怒ってる?
な、泣いてる?
そんな、嫌だったか?
「ん?陽向……?」
謝ろうと顔を見ようとするが、必死で逸らされてしまった。
なんだ、なんなんだ?
さっき見せてくれた笑顔はどこへいったんだ……
あんな風に抱きついたのがキモかったのか?
ならやめろ!と突き放してくれたらいいのに、
こんな泣きそうな顔で我慢しなくていいのに。
「……ひ」
陽向、嫌だったか?
と聞こうとした時、陽向も同時に話し始めてしまった。
「っあ、じゃ、じゃあ、また、秋斗さんの良い時に、連絡、下さいっ、あ、もう、遅いのでっ、か、帰りますねっ、」
……また、
まただ。
また、「俺の」都合の良い時?
じゃあ、陽向、おまえの都合は?
陽向はいつ、俺に連絡したいと思うんだ?
「いや、俺の都合良い時とかじゃなくて、陽向がしたい時に、いつでも連絡してこいよ。なんでいつも、そんな気、ばっか使うんだ?」
ぐしゃりと陽向の顔が歪んだ。
え……俺、なんか変な事言ったか?
「ま、また、月曜日……に」
どくどくどくと血液の流れる音が頭に響く。
俺の顔を見ないようにして、陽向は走って行ってしまった。
なぁ、陽向。
陽向はなんで、いつも、俺と話していると、
どんどん辛そうな顔になるんだ?
なんで、泣きそうになるんだ?
何か、俺に言いたい事でもあるのか?
なぁ、陽向、逃げないで、教えろよ。
俺は……陽向。……お前の気持ちが、知りたい。
さっきまで、温かかった、陽向に触れていた部分は、
夜風に吹かれて、すっかり冷えてしまった。