「うわっ!!!!柳瀬くん!?ど、どうした!?」
どうやって店に帰ってきたのかもわからなかった。
気がついたらHARE caffeのレジ前まで戻ってきていた。
「ちょ、ちょっと、ねぇ、すごい、真っ青だよ!?顔……おいで、こっち……ちょ、長谷川ちゃん、吉野ちゃん、手伝って!」
ふらつく身体を二宮店長と、長谷川さんに支えられ、吉野さんがバックヤードの椅子を並べて、簡易のベッドを作ってくれた。そこに優しく座らされて、身体を横に倒す。
女の人達に支えられないと、歩けないなんて。恥ずかしい……。
「ちょっと冷やした方がいい?血の気ひいちゃってるから、あったかいタオルした方がいいか!?」
「え、ひなちゃん、顔真っ白。だ、大丈夫なの?貧血とかかな?病院行かなくて大丈夫かな?」
店長たちが話しているのを、意識が遠くなる中、聞いていた。
ずいぶん長い真っ暗なトンネルを抜けると、そこはコーヒーの香りに包まれた光の世界だった…。
「あっ……!ひなちゃん!!店長!ひなちゃん目覚ましたよ!」
パソコンを打っていた長谷川さんが、俺の顔を覗き込んできた。
女の人に、こんなに至近距離に顔を近づけられた事なんてなくて、びっくりして、一気に脳みそが動きだした。
「……長谷川、さん。す、すみません、俺……。」
椅子のベッドから身体を起こす。少し頭がふらふらするけれど、さっきほどの朦朧とした感じは無くなっていた。
店長がキッチンから急いでバックヤードに入ってきた。手にはトングを持ったままだ。
「柳瀬くん!あぁ、良かった!!どこか、しんどいとこある?まだ、横になっておきなよ!仕事はいいからさ!ゆっくり眠って、元気になったら家帰ろ。心配なら店早仕舞いして、送ってくから。ね?」
「い、いえ、かなり、スッキリしました。すみません、ご心配をおかけしてしまって。……こんなこと、初めてで……と、突然で、俺もびっくり……しました」
店長はカチンカチンとトングを鳴らしながら、時計をちらっと見た。
つられて俺も見るともうすぐ15時になる所だ。俺……1時間近くも寝てた!?やばい……。
「んー、そっか、じゃ、とりあえず何かお腹入れて、大丈夫そうなら、18時までお願いしよっかな。でも、もしキツかったり、しんどかったら、必ずちゃんと言ってよ?これで家に帰ってからまーた倒れましたー!なんてなったら、殴り込みにいくからねー!?」
「ははっ!店長、怖っ!……でも、わかりました。ちゃんと体調と相談しながら、やりますね」
店長はカチンカチン!と再びトングを鳴らしながらキッチンへと戻っていった。
ちょっと、顔でも洗って、スッキリしよう……。
ゆっくりと立ちあがりかけた時、店長がトレーを持ってバックヤードに戻ってきた。
はいっ!と渡されたトレーには、チョコチップマフィンと、トマトたっぷりのサンドイッチ。透明なグラスにはオレンジジュースが入っている。
「え、これ……あの、」
「いいから!食べなさい。お昼、めっちゃすぐに帰ってきてたから、何も食べてないんでしょ? これ食べて、大丈夫そうなら、仕事、続きやってもらうわ」
目の前に美味しそうな物が並び、お腹が思い出したかのようにぐーーーと鳴る。
お腹、ぺこぺこだ。
俺、何してんだろ。プライベートのことで、勝手にショック受けて、そのせいなのか、何なのかわからないまま、何だか急に調子が悪くなってしまって……こんな風に、職場のみんなに迷惑かけて……。
今は、仕事中だ。
もう、さっきのことは、忘れよう。
今日……秋斗さんに会うかどうかは……
仕事をちゃんとしてから、考えよう。
こんな風に、みんなに迷惑かけてちゃ、ダメだ。
俺、しっかりしろ。
真っ赤に熟れたトマトがはみ出ているサンドイッチに、思い切り齧り付いた。
その後は、体調も元に戻り、いつも通りに働くことができた。
明日の分のベーグル生地を捏ね終え、朝、茹でやすいように12等分に分けてラップで包む。まんまるに発酵するんだぞー、美味しくなれよー? ひとつひとつのベーグル生地にこっそり話しかけていると、
店長が包み終えたベーグルを丁寧に持ち、トレーに並べていってくれた。
「柳瀬くん、もう18時だから、ここまででいいよ。お疲れ様。よかったよ、顔色もすっかり戻って。家に帰って、ちゃんっと栄養あるの食べて、ゆっくり眠るんだよ?明日、休みだからさ。 もし、何かまた体調悪いっとかってなったら、遠慮なく私に連絡して?……あぁ、あの、例のお友だちの方が、連絡しやすいか?……ま、柳瀬くんの頼りやすい方に、ちゃんと連絡すること!これは店長命令ね?」
例のお友だち…………秋斗さんの、ことだ。
ははっ、頼れるわけ、ないじゃないか。
あの人は、俺にとって……
「ん?どした?」
黙ってしまった俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。
「あっ、はいっ、店長命令に従いますっ!って、俺、1時間もロスタイムあるから、もう少し、キリの良い所までやっちゃって、いいですか?」
「あ、うん……まぁ、キリのいい所まで、やってくれたら、助かるけど……でも、終わったらすぐ、上がりなよ?」
ぽんぽんっと肩を叩かれた。
まだ……まだ、仕事、していたい。
秋斗さんの事、考えなくていいように。
もうひと種類のベーグルを作るために、強力粉の重さをはかる。
ほぼ毎日やっているので、グラム数はすっかり覚えてしまった。
この抹茶ベーグル仕込んだら、今日、秋斗さんと、会うかどうか、ちゃんと考えよう。今は、今はだめ。出てこないで、頭の中に……。
18時の待ち合わせ時間はとっくに過ぎている。
待っていてくれているのだろうか?
彼氏は先に帰ったのだろうか?
どんな気持ちで、俺に会ってくれるんだろうか?
あのお店で、彼氏さんといる所を見た、と言ったら、秋斗さんは、どんな反応をするのだろうか。
会いたい、でも、会いたくない。怖い。俺の気持ちに、何も答えなんて出ていない。
違う、やめよう、今は、ベーグルのことだけ。
抹茶のパウダーを生地に振りかける。
綺麗な黄緑に染まる生地を無心で捏ねた。
懸命に捏ねた生地を冷蔵庫に入れ終わった。ボウルを洗って時計を見ると、もう18時30分過ぎだ……
「お疲れ様です。お先失礼します。今日は、ほんとご迷惑お掛けして、すみませんでしたっ」
店長とはバイバイと手を振ってくれ、17時からのバイトの松本ちゃんと大葉ちゃんは何のこと?と言うように顔を見合わせていた。
打刻して、エプロンとキャップを取り、椅子に腰掛けた。
退勤したはいいけれど、バックヤードから動けない。
しばらく、座ったままスマホを握りしめていた。
どうしよう、どうしよう。
もう18時40分だ。
立ち上がれずにいると、
ピコン!!
真っ黒だったスマホの画面が眩しくなる。
『陽向?仕事終わったか?忙しいのか?いつもの所で待ってる』
通知画面に、表示された秋斗さんからのメッセージ。
待っててくれているんだ……
ど、どうしよう。
それを開いて見る事すら、今は怖い。
「あれ?ひなちゃん、まだいたんだ?帰らないのー?」
「あっ、か、帰ります!今日は、帰る事に、します!」
やば、頭の中とごちゃごちゃになって、変なこと言ってしまった……
「あははっ、ひなちゃんなーに言ってんのよ。さぁ、今日は帰る事にして下さいなっ!帰ってさ、肉食え、肉!ガツっと食ったら元気なるぞー!そんでビールだ!くー、最高ーっ!」
長谷川さんはいつも、本当に明るいな。俺も、こんな風に明るかったら……、
秋斗さんも、俺のこと、好きになって、くれたかな?
「はい……ありがとうございます。長谷川さんのおかげで、元気でました。決心もできました。帰ります。お疲れ様です!」
「!?え?ん?……まぁ、おつかれぇー」
そうだ、
決心した。
今日は
秋斗さんに、
会わない。
まだ、好き、な気持ちが強すぎるから。
きちんと、気持ちを整理してから、ちゃんと、最後に、話をして、
それで、それで……その時が、最後だ。
スマホをトートバッグの1番下に入れ、エプロンで隠した。
秋斗さんからの連絡が今来たら
粉々になってしまいそうなほど、
ガラス細工で作られたようなもろい決心だから。
でも、
会わない。
会わない。
今日は、会わない!
決めたんだ。
彼氏が、いる人の事
好きになっちゃ、いけない。
そんなの当たり前のこと。
俺のこのいけない気持ち、きちんと決着をつけよう。
この1週間で。
来週、
ちゃんと、さよなら言うために……。
秋斗さんに会わないよう、南口にむかう。
遠回りだけれど、仕方ない。
トートバッグの底がずっと振動している気がするが、
ただ、南口の表示だけを見て、前を向いて歩いた。