お客さんから下げられたカップを洗っていた俺に店長が「柳瀬くん!時間!上がって上がって!暇だからあとはやっとくから」
と強制的に手に持っていたスポンジをとられてしまった。
そんなに俺、今日、変だったんだろうか?
「柳瀬くん、明日お休みだから、ゆっくり休んでよ?心ここに在らずだったよ。一日中。具合悪くないって言ってたけど……何かあるなら、私でよければ聞くからね?」
じっと目を覗き込まれた。店長のこういう鋭いところ、羨ましくもあり、ちょっと苦手だ。
でもこの人の凄いところは、むやみには踏み込んでこない所だ。すごく程よい距離を作ってくれる。高校卒業後の進路で悩んでいた時も、相談するきっかけを作ってくれたのは店長だ。
「ありがとうございます。ちょ、ちょっと考え事しちゃって……すみません、迷惑かけてしまって。ちゃんと、水曜からは気持ち切り替えてきますね」
「うんうん、まぁ、心なんて急には切り替わらないんだから、きつい時はきついでいいし。そしたら有給使って休んでも、短時間にしてもいいんだからさ。無理せずに、だよ?」
ペーパータオルで手を拭きながら、店長に頭を下げる。
「はい。それじゃ、今日は上がらせてもらいますね。お疲れ様です」
「はいはーい!美味しいもんでも食べるんだよー?」
頭を下げてバッグヤードに戻り、急いで尻ポケットからスマホを取り出す。
18:10だ。AKITOさんからの通知は入っていない。
待っていてくれるのだろうか?あれから、もう6時間くらい経っている。どこにいたのだろうか?家に帰ってた?
早く、早く行かないと。ずっと待たせてしまっているのかもしれない。
急いでキャップを更衣室のフックにかけ、エプロンをぐるぐると雑に丸めると、トートバッグへ突っ込む。その拍子に朝、迷った末に持ってきたローションのボトルが目に入ってきて、慌ててエプロンで包んで隠した。
早く会いたい、ちゃんと、1週間準備してたよ、っと伝えたい。初めてを、AKITOさんに、して欲しい。
どうしよう、店から出たはいいけれど、心臓が口から出てきそうなほど、凄い音を立てている。このまま壊れちゃわないかな、俺の心臓。
これから、抱かれに行くんだ。あのカッコ良い人に。仕事後だから、汗かいてるから、シャワー先に浴びても良いのかな?汗臭いと思われたら嫌だ。
すぐ始めるのが一般的なんだろうか? それとも、家に帰ってシャワーしてきた方が良いのかな?でも、そうしたらさらに待たせてしまうし……。そんなことすらわからない。未知すぎる世界だ。
そうだ、東口にまだAKITOさんがいなかったら、連絡して、シャワー浴びてくることを伝えよう。そうだ、それがいい。
ぎゅぅっとトートバッグの紐を握りしめ、東口に向かって一歩一歩進み始めた。
東口が近づく度に「AKITOさん、待っていてくれ」と「いや、いなくていい。やっぱり今日無かったことにして」と2つの気持ちが頭の中で戦いあっていて、眩暈がしてきた。
東口出てすぐの、大きな柱に寄りかかっている、黒髪長身、Tシャツの袖からみえる綺麗な腕の筋肉が、スマホを操作するたびに動き、それすらも男らしくてカッコ良い。
自分のひょろっと白い腕が恥ずかしくなって。トートバッグの下に隠した。
AKITOさん、待っててくれた……。
思わず走って抱きついてしまいたい気持ち悪い衝動に駆られたが、両手を握りしめ必死でこらえた。
後ろからそっと、この1週間会いたかった人へと近づく。
「あ、あのっ、お待たせ、しましたっ、」
「お。お疲れ、陽向。って、名札で本名わかっちゃったから……呼び方、陽向でいい?前のままHINAがいい?」
なんでこの人に名前を呼ばれるだけで、胸がぎゅってするんだろう。変なの。
「あっ、ひなたで、いいですっ、ごめんなさい、一日中待たせて、しまって」
「いや、陽向、仕事だったじゃん、謝ることじゃないだろ?てか、だったらもっと早…………っ、いや、なんでもない」
なんだか怒ったように顔を背けられてしまった。何か怒らせてしまうようなこと、してしまったんだろうか?
「そうだ、これ、やるよ。仕事終わりで腹、減ってんだろ?」
「え?」
ガサガサっと茶色の紙袋を渡された。なにこれ?
そっと中を覗くと有名ファストフード店のポテトの良い香りがして、ぐぅーとお腹がなってしまった。
「わぁ!!!ありがとうございます!わぁ、嬉しい、一緒に食べましょ!」
駅の柱に寄りかかりながらAKITOさんにも取りやすいように袋からポテトのケースを取り出す。
疲れた身体にポテトの塩加減が良い感じで染み込む。
AKITOさんは2本だけ食べたあと、あとはいらない。と俺に全部くれた。
申し訳ない気もしたが、お腹が空いていたので、あっという間に食べ切ってしまった。
その間、嫌な顔ひとつせず、食べる俺をAKITOさんは待っていてくれた。優しい……。
食べ終え空になったケースを紙袋へ戻し、小さく丸めて、トートバッグへとしまおうとバッグの口を広げると、あのローションのことを思い出した。
そうだ!!!頑張って買ったローション!返さなきゃ!
「あ、あのですね、あの、1週間、沢山使ってしまったので、えっと、……」
トートバッグの奥にエプロンに包んでおいたローションを取り出す。
「あの、はいっ、これ、ほとんどあの、以前もらったのは使ってしまったので、新品の、です!」
「……」
両手で差し出したローションを受け取ってもらえないどころか、AKITOさんは眉間に皺をよせて、俺が差し出したボトルを眺めている。 や、やば。そうだよな、こんな通行人も沢山いるところで……!本当に俺ってアホだ!
「すすすす、すみませんっ!ホ、ホテルで渡せば良いんですよねっ!こ、こんなところでっ、うわぁぁ、俺、なにやってんだろ、もう、」
俺だけサウナにでも入っているかのように全身から汗が吹き出す。恥ずかしい、本当何やってんの俺。
慌ててトートバッグへローションをしまおうとすると、
右手で掴んでいたボトルをがしっと握り取られた。
「っ……え?」
「陽向がこんなに大胆だったなんて、知らなかったわ。なに?こんだけ沢山、陽向の為にローション使っていいってこと?わざわざ買ってくれたんだ。」
「いっ、いやっ、そうじゃ、なくてっ、あの、もらったの、無くなったままじゃ、申し訳ないな、って」
顔の汗をTシャツの袖で拭っていると、視界が突然真っ暗になった。
え?
腰に熱いAKITOさんの腕が巻きついている……。これ、抱きしめられて、る?ということは目の前のこの良い香りのする布はAKITOさんの肩の部分だよな?
すんっとその布に顔を擦り付ける。清潔感のある、爽やかな香りを鼻いっぱいに吸い込む。いい匂い。
目をつぶって香りを堪能してしまっていると、
左耳に柔らかいものが触れる。
「な、早く、ホテルいこ?早く陽向を抱きたいわ」
初めてピアスを開けた時のように、左耳がジンジンと熱く痺れた。
反則だ!こんな、誘い方。反則だ、そんな余裕のない振りして……。今まで何人に、こんな誘い方、したの?
「なぁ、いい?」
さらに低い声で囁かれて、もう、壊れた人形のように首を何度も縦に振った。