今日という日ほど、自室に戻るのが怖いと感じたことはなかった。
(…手、震えてる。影奴戦うときは、一度もこうならなかったのに)
インペリウム・ホールで現体制派入りを決めてからしばらく、私は頭を抱えたままどうすべきかを考えていた。
けれどもどれだけ頭をひねっても妙案は浮かんでこず、かといってカナデに黙っていられるような内容でもなく、最終的には『素直に伝える』という極めて簡単で…そしてつらい選択肢だけが残った。
それしかないことを理解すると私は立ち上がり、ふらふらと寮へ戻る。どうやら頭を抱えるだけの不毛な時間はさほど長続きしていなかったようで、時刻は逢魔が時…まだ夜にはなっていなかった。
私は面倒なことは先延ばししないようになるべく気をつけていたけれど、この日はどうしても部屋に戻ろうとする足が重く、いっそのこと学園からの脱走すらしたくなっていた。無論、そんな行為はより最悪の事態を招くだけだ。
(…もしも、カナデもついてきてくれるのなら)
万が一、本当に期待できないけれど、カナデが私と一緒に来てくれる未来を想像する。
するとほんの一瞬だけ私の心は鉄球のような重りから解放され、なんの後悔もなく戦えそうなのを実感できる。守るべき存在がずっと一緒にいてくれるのなら、私は…多分、学園の醜い裏側からも目を逸らしてしまうのだろう。
(…カナデ、私は優しくなんてないよ)
今もどこかで魔法少女たちが苦しんでいるというのに、私はすぐそばにいる人のことしか考えられない。カナデはきっとここではないどこかにいる人たちに心を痛めているだろうに、私は目の前しか見えない。
カナデは、そんな私ですら優しいと言ってくれた。
(…だから、そんなあなただけは守る)
模擬戦のときに受け取ったカナデの体温を思い出しながら、私は最後の勇気を振り絞って自室のドアを開いた。
「おかえり、ヒナ。お風呂沸かしてあるわよ」
「うん…ただいま、カナデ」
ドアを開くと同時にカナデが迎えてくれて、その表情は初めて出会ったときとは比較にならないほど落ち着いていた。つり目がちな目には室内灯よりもあたたかな光が宿っていて、視線が合うとそれだけで私の気持ちは安らいでいく。
でも、これから私は…この安らぎを自ら捨てる。そのとき、彼女はどんな顔をするのだろうか?
「今、お茶を入れるわ…疲れていそうだし、一休みしなさい」
「…うん」
カナデの味方でいると約束した日から、彼女はますます献身的に世話を焼いてくれた。これまではお小言とセットでなにかをしてくれていたのに、今はどこまでも自然に、それこそ家族に対するような柔らかさで世話をしてくれる。
カナデは実家だと長女だから、きっとこんなふうに妹や弟の世話を焼いていたんだろう。その頃のカナデはこんな悪意に包まれた世界を知らなくて、大変でありながらも充実した日々を過ごせていたんだと思う。
そして、うぬぼれを許してもらえるのなら。私とわかり合ってからはこの部屋にそうした日々を見いだしてくれていて、今も苦しみから解放されたわけじゃないけれど、そうであっても…カナデは、ここを居場所だと感じてくれていた。
…失いたく、ないな。
「ほら、お茶よ…ねえ、今日はとくに疲れていそうだけど…どうしたのよ? まさか、また面倒ごとに巻き込まれたんじゃないでしょうね?」
「…大体そんな感じ」
クッションに腰を下ろしていたらローテーブルにお茶が入ったカップが置かれ、向かい側にカナデが座る。その心配げな質問に回答すると「はぁ、またなの?」と呆れ、それでも続きを促そうとする面持ちには私を支えようとする…慈愛と表現してもいい、自分を省みない彼女らしい優しさがあった。
そんな優しさを失わなくていいよう、ずっと私が守りたかった。
いいや、今だって守りたいと思っている。でなければ、現体制派に入るなんて選択肢を選ばないだろうから。
だけど、私は知っている。私のこれはきっと独りよがりで、こうするしかなかったという現状をカナデへの思いやりに転嫁しようとしていた。
それなら、せめて。大切な人には正直でいよう。
「……私、現体制派に入ることになったの」
「……は?」
正直であることは、きっと素晴らしいこと。偽りだらけの世界においてそうあることは、最大限の誠実さであるように思えた。
でも、今の私たちにとって、それは…価値がない。
だって、目の前の大切な人は…一瞬で表情を凍り付かせて、以前よりも険しく鋭い目になっていたのだから。
「……悪趣味な冗談は嫌いよ。いくらアンタでも、手が出そうになる」
「……本当だよ。ここ最近、ずっと勧誘が続いていて…遅かれ早かれ、入ることになっていたと思う」
表情だけでなくその声音もナイフのように鋭さを増し、私の鼓膜を一瞬で切り裂く。それでなにも聞こえなくなったとしたら、どれだけ気持ちが軽くなるんだろう?
「…なんで。なんでよ…なんでっ!!」
お願い、許して。あまりにも弱い願いを口にしなかっただけでも、私はそこそこ強くなっていたのかもしれない。
カナデは両手でローテーブルを叩き、お互いのお茶をこぼす。いつもの彼女ならすぐさまふきんを取ってくるのに、そんな余裕はなかった。
「アンタ、あいつらのことはもう知っているでしょ!? 捕まりそうになって! 学園のクソッタレなシステムを押しつけてきて! それなのに、なんで!」
「…私が入ることで、自分を…カナデを、守れるから」
「私はそんなこと望んでいなかった!! 私はただ、アンタが味方でいてくれれば…!!」
「…私はいつだってカナデの味方だよ! だけど! 私は弱いから!」
違う、そんなことを言っても意味がない。
でも、言わずにはいられない。
目の前の人にだけは、否定されたくなかったから。
「…ここでなにかを守るなら、力が必要だから! 私は!」
「アンタはもう十分強いでしょうが! だから、私を…私なんかを! 守るって言ってくれた!」
痛い。鼓膜ではなく、胸の奥が痛い。
その痛みはゆっくりと上に向かっていって、目の奥の神経へツンとした刺激が伝播する。
すると不思議なことに、視界がぼやけてカナデの顔が上手く見えなくなった。
「…アンタがその力を学園のために使うことで! インフラの子たちだって蔑ろにされる! 私は、優しいアンタにそんなことっ!」
「…私は! カナデが! カナデさえが! 無事でいてくれるのなら! それで…それでっ!!」
「…っ!!」
ぼやけた視界の中では、あらゆる出来事の把握が難しいのに。
だけど私が最後の気持ちを吐露した瞬間、どうしてだろう。
カナデは、泣いていた。わからないはずなのに、わかる。
押し殺した声が震えていたから?
優しいこの子を傷つけたから?
それとも…私の弱さと醜さに失望したから?
「……もう、アンタとは一緒にいられない」
そしてあなたは立ち上がった。
今は魔法で能力を強化しているわけでもないだろうに、その動きはあまりにも速く、私の口に引き留めの言葉を言わせないくらい、速かった。
「……カナデっ!!」
選べるほどの言葉もないのに無駄な時間を使って探していたら、ようやく出てきたのは大切な人の名前だった。
けれどそれは勢いよく閉められたドアの音に阻まれ、きっと届くことなく消えてしまったのだろう。
「…カナデ…」
届かないとわかっていてももう一度口にした直後、私は…泣いた。
「…うあっ…ぁ…カナ、デ…」
痛い。痛いから泣くなんて、いつぶりだろうか?
でもこんな痛みはこれまで知らなくて、知りたくもなくて。
大切な人を泣かせてしまったという事実は、こんなにも強い痛みを伴っていた。
(…それでも、私は。あなたを守るから。きっとそれが、私があなたへできる…最後の、こと)
痛い、痛い、痛い。
胸を押さえ、かきむしり、ただ痛みに咽び泣く中、私は最後に残った道しるべに手を伸ばした。
きっと私の自己満足は届かない。いいや、届かないほうがいい。
それでも私は、カナデを守る。カナデがここから解放されるまで、あらゆるものに侵害させない。
だから、どうか。どうか。
(…私のことは忘れてもいい、あなたが笑顔になれるのなら)
どうか、カナデが。笑える日が訪れますように。
その笑顔が私に向かないことはなおも痛みを強くしたけれど、これだけは誰にも奪わせない。奪わせるものか…!!
だから今は惨めに泣くことを許して欲しい、そんなことをもう戻ってこないカナデに願っていた。