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第110話 父と娘

 その日の夜。佐渡家。


「おかえりなさい、パパ♡」


「おかえり」


「……ただいま?」


 一家の大黒柱、こと佐渡猛は。玄関先で既に、その違和感に気づきつつあった。


(ど、どういう風の吹き回しだ?)


 サラリーマンとして多忙を極める猛の仕事帰り。そこに待ち受けていた愛する者の姿が、今日は二つあったからである。


「残業お疲れ様。晩ご飯とお風呂、どっちからがい〜い?」


「へっ? そ、そうだな。じゃあ風呂からで」


「ん、なら私が沸かしてくる」


「あら、じゃあお願い」


「御意」


 しゅばばっ! 


 まるで忍者かのように洗面所へと消えていった三葉によって給湯器のスイッチが入り、僅かに開いた扉の隙間から水音が漏れ出る。


 と、その音が猛の耳に届いた刹那。既に戻ってきていた三葉が、再び目の前に立っていた。


「す、凄いな。動きが目で追えなかったぞ」


「鍛えてるから」


「……なんかフィジカルで目指せる限界を超えてる気がするのは俺だけか?」


「パパだけ」

「パパだけよぉ〜」


「そうか。ママまで言うならまあ、うん。気にしないでおくか」


 猛の疑問は至って自然。正しい感性である。


 しかしこの家族、残りの過半数が普通ではなかった。そのせいでこの有様である。ただでさえ愛する二人の前では強く言えない猛がマイノリティに陥ってしまえば、その疑問が無理やり押し潰されるのにそう時間はかからなかった。


「ふふっ、それじゃあ私は晩ご飯の支度してくるわぁ。三葉? あとはお願いね?」


「ん」


 そして、疑問が押し潰されようとも未だ残る違和感の元凶をその場に置いて。二葉だけがその場から離れ、キッチンへと消えていく。


「……」

「……」


 普段なら自分が帰ってこようとも部屋に篭っているかリビングでテレビを見ているはずの娘の、突然のお出迎え。からの二人きり。


(わ、我が娘ながら何考えてるのかさっぱり分からん! 可愛いけど怖いッッ!!)


 猛は想定外のその事態に思わず、心の中でそう叫んだのだった。


 三葉は元々感情の起伏が表に出づらい。それ故に、関係性の浅い者では彼女の考えはほとんど読み取ることができず、コミュニケーションが上手くいかない場合がほとんどである。


 だが、猛は三葉の実の父。駿よりも早い、文字通り生まれたその瞬間から。家族として膨大な刻を共に積み重ねてきたのだ。


 当然、そのような状態になることなど無い。……はずだった。


「ん」


「な、なんだ!? お小遣いが欲しいのか?」


「え? 違うけど。貰えるなら欲しい」


「……五千円でいいか?」


「ありがと」


 はずだった、のだが。


 アテの外れた猛は、そうやって。実の娘からマイルドなカツアゲを喰らい、財布を軽くする。


 ありがとうと言ってもらえたのがせめてもの救いか。にしても月三万円のお小遣いのうちの六分の一は、中々に高い代償であった。


 しかし、そんな高い金額を支払っても尚。結局根本的なものは何も解決していない。なにせ目の前でこちらに左手を伸ばしながらじっとしている愛娘の考えていることは、未だに何一つ分かっていないのだから。


(て、てっきりお小遣い欲しさの行動だと思ったのに。あの手、何なんだ……?)


 受け取った五千円札をショーパンのポケットに仕舞っても向けられ続ける手。それは間違いなく、何かを欲しているということの証明だった。


 が、その正体は掴めないでいる。猛の困惑は深まるばかりだ。


「パパ」


「ど、どうした?」


 しかしここで。頭をフルスロットルで回す猛が正解に辿り着くよりも早く、三葉が動く。


「スーツ。預かる」


「へ?」


「だから、スーツ。中のシャツはともかく、洗面所に脱ぎ捨てるわけにはいかないでしょ。私が預かってママに渡しに行くから」


 そしてようやく。猛はその手の指し示す意味に気付かされたのだった。


(そういう、ことだったのか……)


 三葉の欲していたものはお小遣いなどではなく、猛の着ていたスーツだったのである。


 しかも欲しいと言っても、当然自分の物にしたいという意味では無く。これからお風呂に入る父を思い、気遣いで預かろうとしていたにすぎない。つまりさっきのお小遣いは本当に勘違いで払い損。だが今更返して欲しいなどと父として言えるはずもなく。猛は、心の中で大きなため息を吐くことしかできなかった。


「パパ?」


「ああ、ごめん。すぐ脱ぐよ。ありがとうな、三葉」


「んーん。たまにはこれくらい、いい」


 しかし流石は父歴十五年になる大ベテラン。心の中で漏らしたそれは、絶対に表には出さない。


 むしろ、一度はため息を吐いて五千円を失った痛みを負った心でも。長い人生を経験してきた猛だからこそ、すぐにプラスの心理に切り替えられていく。


(まあ、俺が使うよりは愛する娘が使ってくれた方が五千円も喜ぶよな。それにこのお出迎えへの対価として支払ったと思えば……屁でも無いな)


 そう。五千円はドブに捨てたわけでも、浪費したわけでもない。


 愛する娘の笑顔のため。そう自分を言い聞かせれば、なんら不都合など無く。それどころか幸福にすら思える。父親とは、そういう生き物なのだ。


「はは、パパてっきり勘違いしちゃったよ。ごめんな、お小遣い目当てだなんて思っちゃって」


「ううん、気にしないで。目的自体はあるし」


「そうだよなぁ。愛する娘の優しい気持ちに理由なんて……ん? 今なんて?」


 と。綺麗にまとめようとしたのも束の間。純粋無垢な目で、三葉はそれを否定する。


 そう。お小遣いが目的じゃなかっただけで、三葉にはちゃんと別の。それも、猛の頭を悩ませる大きな目的があった。


 そのことを知らないのはこの家族内でただ一人。この男だけである。


「あとで話がある。大事な話」


「……ひゅっ」


 ここから始まるのは、父、母、娘の三人で食卓を囲んで行われる話し合い。



 ーーーー家族会議だ。

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