目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第105話 どんな顔

「ありがと、彼氏さん。私のワガママを聞いてくれて♡」


 頭がクラクラする程の甘過ぎる匂いが、俺の全身を包み込む。


 密閉された薄暗い世界に、俺と三葉の二人きり。


 あまり視界が良好じゃないからだろうか。研ぎ澄まされた嗅覚が必要以上の過剰な情報をキャッチし、脳を揺らす。


 そして嗅覚だけじゃなく、聴覚も。僅かな衣擦れ音や彼女さんの呼吸音を鮮明に頭に伝え、俺の理性を溶かそうとしていた。


「どう? 寝心地、良い?」


「そ、そうだな。とても寝られそうにはないけど」


「ふふっ。それって、私にドキドキさせられちゃってるから?」


「……よくお分かりで」


 もはやベッドの寝心地を確かめるほどの余力など、俺には残っちゃいない。


 今はただ、目の前の彼女さんから与え続けられる情報を処理するだけで手一杯だ。というか、それすら間に合っていないし。


 だが、いつも通りじゃないのは俺だけではないらしく。


「お布団の中で彼氏さんの匂いに包まれるなんて、夢みたい。すぅっ……♡」


 徐々に、徐々に。彼女さんの様子もまた、おかしくなっていく。


 吸う息は長く、吐く息は短く。鼻をひくひくとさせながら俺の胸元にぴっとりと顔が引っ付くと、そうして呼吸のストロークが乱れ始めた。


 三葉の匂いがたっぷり染みついたお布団と、本人に囲まれて。俺にとって鼻腔をくすぐる匂いが彼女さん一色になっていくように。三葉もまた、至近距離にいる俺の匂いを吸い込み続けることによって、同じような状況に陥っていたのだ。


「しゅー君の匂い……やっぱり、好き。嗅いでるだけで落ち着く」


「は、恥ずかしいからあんまり嗅がないでくれると助かるんですけどね」


「や♡ そんなの、ご馳走を前に待てしろって言ってるのと同じ。無理に決まってる」


 ご馳走、ね。


 匂い程度のものを言うにはオーバーな表現だろ、なんて。そんな言葉が頭の中で浮かんで、すぐに否定されて消える。


 だって三葉にとっての俺の匂いがそうであるように。俺にとっての三葉の匂いもまた、ご馳走と言って相違ないほどに大好きなものだから。


 それだけ、やはり好きな人の匂いというものは特別なのだ。女子だからとか、美少女だからとか。そういうことではなく。他の誰でもない、三葉の匂いだからこそ。それだけの価値があるとハッキリ言い切れるものになる。


 そうして。恥ずかしいという気持ちは本当ながらも、自分の中で折り合いをつけて抵抗を諦めると。さっきまで俺の胸板にぴったりと引っ付けていた両の手がすすすっ、と動いて、腰元に触れる。


「腰、ちょっと上げて」


「ん? こ、こうか?」


「えへへ……ぎゅう♡」


 更にその手はそのまま、俺の身体を両方向からしっかりとホールドして。抱きしめるような形で、包み込んだのだった。


(か、かわ……っ!?)


 はい可愛い。可愛いが過ぎる。


 匂いを嗅がれ、全身密着状態での真正面からの全力ハグ。こんなもの、喜ばない男がいるはずもない。


 的確に男のツボを捉え、「きゅんっ!!」とでも音が鳴る心の中のスイッチを連打するかのようなその行動に、俺は思わず上を向きながら悶絶する。


 しかしその行動は、イコール俺がハグに喜んでいると証明するようなもの。そんな俺を見て、三葉は笑みを漏らしていた。


「ドキドキしすぎて、おかしくなっちゃいそう?」


「わ、わざわざ聞かなくても分かるだろ! こんなの、そうならない方がおかしいって……」


「ん。私も同じ。心臓、ドクンドクンッて。聞かせてあげたいくらい、大きい音が鳴ってる。きっとこれは、私の自慢の彼氏さんがかっこよすぎるせい」


「っ……お、お前な。そんな顔でそんなこと、言うなって」


「ふふっ、そんな顔って? 私今、どんな顔してる?」


「どんな顔って、それは……」


「教えて、彼氏さん♡」


 コイツ、分かってるくせに。あえてそれを俺に言わせようっていうのか。


 鬼畜だ。でもきっと、それは俺からすればの話で。きっと本人はただ純粋に、俺の口から言わせたいってだけなんだろうな。


 三葉の、今している顔。俺をじいっ、と見つめ、とろんとした瞳を鈍く光らせる、そんな顔を言い表す表現。


 俺にはそんなもの、一つしか思いつかない。一つしか思いつかないからこそ、困りものなのだ。


「本当に、言わなきゃダメか?」


「ダ〜メ。思ったことをそのまま言って。そしたら、彼女さんが喜ぶから」


「……分かったよ」


 本当、甘いな。こんなことを簡単に承諾して。


 彼女さんが喜ぶ、なんて。そんなことを言われてしまっては嘘すらつけないじゃないか。


 どうやら俺にはもう、思ったことを素直に告げることしかできないらしい。たとえどれだけ恥ずかしい目に合うか分かっていても、だ。


 仕方ない。俺が三葉に翻弄されてこうなってしまうのはいつものことだ。


 腹を括ろう。そもそも、どうせこの彼女さんはちゃんと言うまで絶対逃してくれないだろうしな。


「今の、三葉は……」


 だから今、願うことはただの一つだけ。


 どうか、俺の感じていたものが間違いではありませんように。こんなの、もしただの俺の勘違いだったら恥ずかしいなんてどころの話じゃないからな。


 でも、何故だろう。不思議と、そうなる気はしていなくて。彼氏さんの心を読むの術ならぬ、彼女さんの心を読むの術が使えるわけでもないというのに。どこか、自信があった。


「今の三葉は、俺のことが大好きって。そんな顔、してます」


 そしてこの発言が正解だったのかはもはや、聞くまでもなく。



 真っ赤になった俺の顔を、それが聞きたかったと言わんばかりに見つめてくるその様子を見れば……一目瞭然だった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?