忍者。それは世を忍ぶ者の名前。忠誠を誓った主の命令、任務を誰にも見つかることなく熟す隠密活動のスペシャリストのこと。
そしてそんな存在に強い憧れを抱いた少女が、ここに一人。
「行こ、しゅー君」
「はいはい。焦らなくてもまだ時間あるから大丈夫だって」
彼女の名前は佐渡三葉。俺、こと市川駿にとっては幼なじみにあたる人物である。
紫のショートの髪、吊り目で若干冷たいオーラを纏っていつつも非常に整った容姿、そして何よりつい一週間前に俺と共に高校生になったばかりとは思えないほどしっかりと女子らしく成長した身体。
まあぱっと見、本当ただの美少女だ。
え? どこに忍者要素があるのかって? 見てれば分かるさ。
「大丈夫じゃない。あと五分しか時間無いのに」
「五分もある」
「五分は″も″って言わない……」
夕陽が差し込み始めた校舎を出て、グイグイと裾を引っ張られながら。登校する時にも通った道を歩いていく。
何を焦っているのやら。五分前に教室を出れば間に合うことくらい、知っているだろうに。
「三葉なら大丈夫だろ。またいつもの″あれ″使えばいいだけだし」
「そ、それはそう……だけど」
そうこう話している間に辿り着いたのは、俺たちがこの街で小さい頃から何度も来店しているスーパー。
今日は水曜日。即ち、午後五時から野菜の特売が始まる。
現在時刻は四時五十八分。買い物かごを持って入店すると既に店内は異様な雰囲気に包まれていた。
見渡す限り主婦、主婦主婦主婦。勝った顔の中高年主婦たちが腕時計やスマホのロック画面で常に時間を確認しながら、陳列されている特売品に睨みを利かせている。
さて、あと一分。今日の特売はトマトときゅうり、あとはじゃがいもにピーマンか。どれもこれも料理をするうえで使うものばかり。今宵も激しい争奪戦になりそうだ。
が。こちらにはとっておきの忍者さんがいる。悪いけど勝負にすらなりはしない。
たとえ彼女の顔が見知られていて、充分過ぎるほどの警戒をされていたとしても、だ。
「準備、大丈夫か?」
「ん」
「心強いなぁ」
カチッ、カチッ、カチッ。腕時計が秒針を刻み、定刻へと近づいていく。
そしてーーーー
「これより毎週恒例、大特売を始めさせていただきます!!!」
店員の大きな声が店内に響き渡った、その瞬間。誰よりも早く、三葉は動いた。
「忍法•乱れ苦無」
目にも止まらぬ速さで手元から射出されたのは、根本に凧糸がくくり付けられた四本の苦無。左右の手で二本ずつを器用に操るとやがてそれらは周りの誰にも当たることなく、一直線に野菜へとヒットした。
主婦たちが総出で手を伸ばしたのはそれから数秒後のこと。一瞬にしてどれが最も品質が良いかを見極め、人でも殺すのかというレベルの殺意を纏って奪い合う。
しかし、それを嘲笑うかのように。彼女らの頭上をそれぞれの野菜が一袋ずつ舞う。相変わらずとてつもない妙技……いや、忍術だ。
「むふんっ。私の忍術に勝とうなんて百年早い」
ぽすっ。ぽすぽすっ。やがて中を舞っていたそれらは一点に収束すると、彼女の手元へと吸い込まれて。そのまま俺の持っていたカゴに放られる。
正確無比な苦無捌き。周りの誰にも当てることなく目標を捉え、それどころかあんな荒々しいことをしておいて傷の一つもつけずに、ゴム製の苦無を上手く引っ掛けることで手元へと吸い寄せてしまうこの技量。
これを忍術と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。
三葉には代々受け継がれてきた忍者の血縁があるわけでも、ましてや秘伝の巻物があったわけでもない。
それでも。憧れという感情を武器に努力を続けこの域に達した技は、間違いなく忍術だ。
「しゅー君、褒めて。私頑張った。なでなでして」
「分かった分かった。そんな期待に満ちた眼差しを向けられなくてもそれくらい……って、おい。ちょっと待て。一袋足りなくないか?」
「気のせい。なでなで」
「あっ、お前! ピーマンの袋無いじゃねえか!」
カゴの中身を確認すると、そこにあったのはトマト、きゅうり、じゃがいもの袋のみ。
確かに投げていた苦無は四本だったはず。いやまあ、あれだけの早技だったから確信があるわけではないけども。
何はともあれ、だ。
「わざとだろ」
「……知らない」
「目ぇ逸らすな! ピーマンだけ嫌いだからって取らなかったな!?」
「で、でも他の三つは取った! なでなでされる権利はある!」
「開き直りやがって……っ!!」
今日の晩御飯はピーマンの肉詰めだ。何があってもピーマンだけは買ってくるよう、母さんにキツく言われているのに。
コイツ、完全にわざとピーマンだけ取るのをやめやがった。確かにピーマンは三葉の嫌いな食べ物ランキング三本指には入る猛者だが。看過するわけにはいかない。
なにせピーマンの肉詰めは他ならない俺の大好物なのだ。共に食卓を囲むからこそ三葉にも飛び火するとはいえ、こんなことをされては困る。
「なでなではお預けだ! 四袋、ちゃんと取れてたらいっぱいしてやったけどな!」
「そ、そんなっ……」
しゅん。まるで餌を取り上げられた犬かのように。さっきまではキラキラしていた瞳から光が消え、三葉のただでさえ華奢な身体がより小さく縮こまる。
なでなでくらい、と思うかもしれないがな。甘やかしてばかりでは駄目なのだ。四袋中三袋しっかりと獲得しているとはいえ、失敗は失敗。しかもそれがわざとなら尚更、中途半端にご褒美を与えることはしてはいけない。
「なでなでには、ピーマンがいる……けどピーマンを渡したら、今日の晩ご飯に出てくる……」
「あのなぁ。いい加減ピーマンくらい食べられるようになれって。もう高校生なんだしさ」
「す、好き嫌いに歳は関係ない。しゅー君は好きだからそんなことが言えるの」
んなこと言われたって、なぁ。
というかコイツ、何を悩んでるんだ?
いくら三葉とはいえ今更取りに行ってももう間に合わない。そうこうしているうちに特売品はそのほとんどが他のお客さんの手に渡り、今は人だかりで見えないが恐らくもう一袋たりとも残ってはいないだろう。
だからそもそも、悩むこと自体無駄な行為のはずなのだが。コイツ、天秤にかけるみたいに……まるで″渡そうと思えば渡せる″と言わんばかりの口ぶりだ。
「とにかく、だ。なでなでにはピーマンを手に入れるしかない。やっぱり今回はお預けだな」
「ま、待って。今考えてるから」
考えてるったって、とっくに結論は出ただろうに。
まあ、特売品は諦めて今回は普通に別でピーマンを買って帰るとするか。少し値段は上がってしまうが、一応三袋の戦利品はあるからな。怒られることもないはず。
……と、そんなことを考えながら。特売品に群がっていた人達が散っていくのを見て、その場を離れようとしたその瞬間。
ーーーースッ。
「え?」
「これで……こ、これでなでなで……もらえる」
どこから取り出したのか。ふるふると震えながらこちらに伸ばされた三葉の手には、ピーマンの袋が握られていた。
「もしかして、取って隠してたのか?」
「取れなかったことにしたら、その。ピーマン食べなくてよくなるかも、って」
「……」
そんなに嫌か? ピーマン。
しかし……うん。
三葉はちゃんと四袋、全ての特売品を確保した。一度は隠したものの、苦手なピーマンだって差し出した。
これは、ご褒美をあげないわけにはいかなくなったな。
「ったく。あるなら最初から出せよな」
「……ん」
差し出された小さな頭の上に手のひらを広げ、そっと撫でる。
二、三回手を左右に動かし続けると、やがて三葉の方から頭を擦り付けてきた。
相変わらずの甘えんぼだ。手を離そうとするとそれを押さえつけてきて「もっと」と目で訴えてくるし。もう少しこの愛嬌を周りにも振り負ければ友達の一人や二人くらい、簡単にできただろうに。
三葉は言葉を選ばず言うならかなりのぼっち気質だ。俺以外に友達が一人もいないどころか、まともに話せてすらいない。
嫌われているとか、反対に嫌っているとか。そういうことではなく、だ。原因は間違いなく三葉のこの吊り目と無表情、そしてコミュニケーション能力の低さだな。まあ正直は話俺も友達が多いわけではないし、あまり人にとやかく言える立場ではないけれど。
「えへへ……」
(しかし本当、見れば見るほど……)
可愛い。その一言が、瞬時に脳内をよぎった。
いやだって反則だろう、こんなの。
髪はさらさらで、匂いもほのかに甘くて。おまけに芸能人顔負けの整った顔面で嬉しそうに「えへへ」なんて漏らしてくるんだぞ? こんなの、可愛いと思わない方がどうかしてる。
それに俺の場合、余計に……
「やっぱり私、しゅー君のこと好き。こうやってなでなでされてる時間が、一番落ち着く」
「っ……!!」
三葉が俺に向ける″好き″。それは友達や幼なじみに向けるようなlikeではない。
どうやら彼女は俺のことを一人の男として、好きらしい。
それを知らされたのは、つい十日前のこと。
入学式を三日前に控えた……あの日のことだった。