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第十二話:こまねと云ふ少女

 生まれてこのかた、誰かに守られたことはあっても、守ることはほとんどなかった。幼少期から今に至るまで、兄やら両親やらの手を借りて生きてきた。強いて言い訳をするならば、僕には守るべき相手などいなかった、というのが正直かつ明快な答えかもしれない。


 ──次に目を覚ますとしたら、きっと三途の川を渡る直前だろうと思っていた。見慣れぬ天井と窓硝子から射す容赦のない斜陽に、僕は瞳を焼かれるような感覚がして目を細める。


 消毒液アルコールの鼻を突くような匂い、作務衣の生地が肌に触れる柔らかな感触、視界の端に恐らく控えているであろう誰かの気配、リノリウムの床に揺れる、輪郭が曖昧な影──。


「……完全に死に損ねたね」


「──っ、んぅ……? ふぁ……」


 僕が呟いたのに反応したのか、聞き慣れた声が傍らから届く。ゆっくり顔を傾けると、予想通り、少女が椅子に座っていた。はっきりしない目元を手の甲でこすりながら、何度か目蓋をしばたかせる。一瞬だけこちらと視線が合うと、彼女は怯えたように肩を跳ねさせた。


「えっ、あっ、その……! ……っ、わたし、えっと……始め、まして……?」


「……? すみませんが、僕の眼鏡をいただけますか……?」


「へっ……!? あ、眼鏡はこちら、です……! 申し訳ございません……っ」


 明確な違和感を抱きながら、いつも装着している眼鏡をかける。曖昧な輪郭を描いていたものが鮮明な物体そのものに切り替わって、だから目の前にいる少女もこまねである、ということは、いくら病床に伏している自分であっても見間違えるはずはなかった。


「こまね……ですよね」


「っ……そう、です」


 服装も顔かたちも僕の記憶と変わらない。女給のようないつもの装いに、ウェーブの入った白髪、二又に分かれた尾。記憶喪失で僕のことを忘れているにしても、なぜここまで態度が違うのだろう。無邪気ないつもの調子ではないだけで、物寂しく思えてしまうのだろう。


 そんな僕の胸中を知ってか知らずか、こまねはずっと手の中に仕舞っていたらしい手帳を取り出した。寝起きの時、記憶を補完するために必ず読み返すための手記だ。細い指先でページを繰っていくうちのを眺めているうちに、彼女は息を呑んで小さな悲鳴を上げ始める。


「えっ、あ……なんで……? なんで、こんな……」


「こまね……? どうしたんですか? さっきから変ですよ」


「っ、違うんです……。先生が悪いとかじゃなくて、こまねがっ……」


 嗚咽だったものが形を帯び始めていく。眦から頬を伝う紅涙を手の甲で拭いながら、彼女はひたすら首を横に振っていた。ただごとではないと身体を起こそうとしてようやく自分が負傷していたことに気付く。痛む腹部を押さえながら起き上がり、震える手を握った。


「っ……大丈夫ですよ。どうしたんですか? 何かあったなら話してください」


「だって……! だって、先生を負傷させてしまった、のはっ……こまねの責任で……! 守るって言ったのに──大怪我させてしまって……! 失望、されちゃうから……っ」


 締まる喉を無理やり震わせたかのようにこまねはまくし立てると、子供に返ったのかと思うほど酷く泣きじゃくりながら僕の手を振りほどいた。それがなぜだか分からないくらい自分にとって悲しかったから──きっと表情に出ていたのだろう、彼女も一瞬だけ辛そうな顔をすると、僕の前から逃げるみたいに立ち上がってそのまま部屋を後にしてしまう。


「っ、なんで……」


 まだ、よく状況がよく分かっていない。慰めようと手を伸ばしたものが、すべて拒絶された気がした。普段のこまねなら絶対にそんなことはしないと、無意識的に思っていたから。悲しいのか悔しいのかも分からないまま、ただ滲んだ涙を手の甲で乱暴に拭い取る。


 ──彼女が座っていた椅子の傍らに、あの手帳が落ちていた。きっとあれには事の顛末が仔細まで書き残されているのだろう。読めばこの現状を理解できる、そう思っても、なんだか拾い上げて頁を開くのがはばかられた。まるで彼女の本質を知ってしまいそうだったから。いつも見せていた態度とは違う暗い部分を、見てしまいそうな気がしたから。


「──起きて早々、こまねが迷惑をかけたね。申し訳ない」


「……堂主、ですか。対面するのは久方ぶりな気がしますね」


「君たちが出張に出て二日、君が入院してから五日だ。よく寝ていたね」


 肩をすくめて小さく笑いながら、入口から身を乗り出した彼は中折れ帽を掲げて挨拶をする。軽く会釈をした僕に頷くと、革靴の音を鳴らしながら手帳を拾い上げて椅子に座った。


「あの子があそこまで子供みたいに泣きじゃくっているのを見たのは久々だったよ。私は帰り際だったのだがね、いきなり抱きつかれたもので、腹が涙で濡れてしまった。ほら」


「……やはり、こまねにも何か事情があるんでしょう? 僕が過去に兄を亡くしていることと同じように、彼女にも似たような経験が。最初からどこか違和感があったんです」


 堂主は深い瞬きを一度だけすると、小さく息を吐きながら「そうだね」と告げる。それから無言のまま手帳を差し出されて、僕は反射的に伸ばした手を我に返り引っ込めた。


「こまねと組んだ君にはいつか伝えようと思っていた。或いは彼女から伝えるものだと……いや、それは厳しいか。だけれど、これを読めば彩佳くんの違和感は解消されるはずだ」


 読みたまえよ、と押し付けられるように手渡される。本人のいないところで、本人の語らない事実を知る──そんな恐怖と罪悪感が綯い交ぜになって、いつの間にか吐く息は細くなっていた。それでも僕は知らなければならないのだろう。せめて丑三堂にいる限りは。


 栞の代わりにペンが挟まれている部分を開くと、綺麗な字で手記が綴られていた。


『先生を負傷させてしまった。わたしが絶対に守ると言ったのに、最後になって安心してしまった。信頼していると言ってくれたのに、期待に応えられなかった。わたしはいつも前に立ってくれる堂主に憧れていたけれど、それならどうして自分が前衛に出れなかったんだろう。少なくともわたしが前衛に出ていれば、先生が負傷する確率も低かったはずなのに。


頼られて舞い上がっていた。少しでもいいところを見せたいと躍起になっていた。なのに、最後になって怖がってしまった。心のどこかで、能力的に先生を信じきれていなかった。状況を打破するための、あの咄嗟の一言がなければ、わたしはそのまま死んでいたと思う。けれど、先生に重症を負わせるくらいなら、自分が死んだほうが良かったのかもしれない。


先生はわたしを頼って丑三堂に入ってくれた。過去のトラウマもわたしがいるから克服できるかもしれないと言ってくれた。事実、戦っている時の先生は、結界があれば問題なさそうに見えた。それだけ期待と信頼をもらっていたのに、わたしは先生に応えられなかった。失望されても仕方がない。いちばん怖いことが起きたら、わたしはどうしたらいい?』


 一滴や二滴どころではない。涙の跡が一つの大きな染みになって、それがいくつもいくつも浮かんでいた。書きながら泣いたというよりは、まるで読み返すたびに泣いているみたいな──まだ新しい、湿ったばかりの部分を指でなぞりながら、そんなことを思う。


「……残酷ですね。記憶を留めるためには絶対に手放せない。見返すたびに耐え難いほどの自責の念に駆られたうえ、泣き跡で、それを知るのが初めてではないと気付くのですから」


「あの子は君がここに入院した日から、ずっと付かず離れずで傍にいたのだよ。今は二人で見舞いのために近くの宿に下宿している。だけれど、こまねはそこに戻らないんだ」


 負い目を感じているのだろうね、と呟きながら、堂主はふと立ち上がって窓を開ける。少し離れたところから往来の雑踏が聞こえてきた。吹き込む風は柔らかく髪を撫でていく。


「彼女の献身性は出会った当初から変に感じていたんです。ここにだって、自分が死んだほうが良かったとまで書いている。どうしてここまで他人の評価を気にするんですか?」


「ふむ……。彩佳くんは、こまねがなぜ常にあの服装なのか知っているかい?」


「仕事をしている感が出る、人に尽くせるのが嬉しいからその気持ちを忘れないようにするため、それと堂主には恩があると言っていました。初日の朝に話してくれたことです」


「おや、そこまで言ったのか。なるほど、まぁ……あながち間違いではないからねぇ」


 彼は小さく笑うと、少しだけ困ったように髪を掻き上げた。それから言い淀む……というよりは言葉を選ぶようにしばし沈黙する。まくった着物のたもとから煙草を取り出すのを見たけれど、それを咎めるような余裕も空気感もここにはなかった。ただ、火は付けない。 


 咥えたままの煙草を唇の上で転がしながら、堂主は哀愁を秘めた声で言葉を継いだ。


「──あの子は、親兄弟や集落から孤立して見捨てられたようなものなのだよ」


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