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第十一話:犠牲

「先生、後ろっ! 横に避けてください!」


「っ……!?」


 加賀美の喉元に刃を突き立てた──と思った刹那、轟音そのものが鼓膜から脳髄を揺らしていった。逸れた軌道に悪態を吐く暇すらなく僕はその場から逃げるように距離を取る。夜闇に紛れたなかで目を凝らしてみると、結界が破壊寸前といえるほどひび割れていた。


 直後、生々しい音とともに血飛沫が目の前にこびりつく。肉塊がちぎれ、骨を折り砕き、咀嚼するかのような音。異形はどこからともなく腕を出し、指で握り、口を開いていた。先程よりは辛うじて人間の形を捉えている何か。あれが──きっと、仕立て上げられた神だ。


「先生、逃げましょう! 邪神をこのまま相手するのは命の危険に関わりますっ!」


「どこへ逃げる!? 追いかけられた先に民衆がいたら巻き込みかねないでしょう!」


「だったら先生だけ逃げて堂主を待っていてください! こまねが足止めを──っ!?」


 土煙が目の前で立ち昇る。宵の色が深みを増して、まるで海の底にでも閉じ込められたかのようだった。枝葉の梢から微かに注ぐ逢魔時の日暮れが、今だけは酷く不気味に見える。


「厄介なことになりました。加賀美が喰われたようで、彼奴の形態が……」


 僕の隣に控えたこまねは、そう呟きながら何かを睨みつける。闇に慣れつつある目で捉えたのは、土煙の晴れ間から覗く人型の異形だった。どす黒い影に染みる蘇芳色の血。離れ離れにこちらを見つめる双眸。剥いた牙。皮膚を突き破る無数の蛇──ただ人の形をしているだけの、恐らくはその場しのぎの肉体。神にとっては肉体などどうでも良いのだろう。つまるところ、あの異形よりも使い勝手が良いからそうした──というだけの話であって。


「……彼は最初から、こうやって自分に仇なす人物を殺すつもりだったのだろうね」


「はい。しかも死を引き換えにした呪詛のようなものなので……厳しいです」


 どこを向いているのか分からない瞳がこちらを見据える。怖気立ったような悪寒と金縛りのような感覚を無理やり振り払いながら、手に短刀を握っていたことを思い返す。


 僕より実践経験がある彼女でも容易ならない事態なことは百も承知だ。だからお互いに尻込みしている。詰まる息と痛む心臓を押さえながら、異形から目を離さず声を発した。


「堂主が来るまであと五分だと信じましょう。それまでここで耐えます」


「……正気ですか? 下手したら先生は死ぬかもしれませんよ?」


「あいにく、その手の言葉は僕に効かないので。今まで自殺未遂は経験してきたからね。それよりも──こまねがいなくなるほうが、堂主にとっては辛いのではないのかしらん、とは」


「……そんな意地悪なことをおっしゃるのでしたら、こまねが命がけで先生を守りますよ」


 ──まただ。また彼女はそう言うのだ。今まで感じてきた過度な献身性と優しさの表面には、何か形容しがたい違和感がある。どうしてこまねは、ここまで僕を大切にしてくれるのだろう。否、もとを辿れば彼女は、自分から見れば面白いくらい、人間好きに映っている。


「……信じていいんですね? 僕はこまねを頼って丑三堂に入ったんですよ」


「はいっ。そのお言葉がいただけるだけで、こまねは頑張れます」


 屈託のない笑みとともに、僕と彼女を囲う結界が幾重にも重ねられていく。声にもならない声を発している異形を改めて見据えながら、手の中に収めた短刀を一回転させて感触を確かめた。ここからは堂主が来るまでの時間稼ぎになる──が、どこまで耐えられるか。


「僕たち二人とも、命がけだね。気に食わない相手を捕らえたかっただけなのに」


 音もなく地面を這ってくる蛇の群れを蹴り飛ばしながら、まずは彼奴の目を潰そうと画策する。結界の効果を信じて一気に距離を詰めると、そのまま身を低くかがめて逆袈裟に短刀を振り上げた。蛇が盾のように身体をくねらせ、雨降りのように血がほとばしる。


「穢らわしいですね……臭いが染み付くでしょう」


 鮮血で視界の一部を塞がれたゆえに動作が遅れた。それを拭おうとした刹那、これが好機と見たか異形は口を大きく開いたらしい。何かがこみ上げる音に悪寒がして退避の姿勢を取るも、次の瞬間には生ぬるく鉄さびた臭気が目の前を真っ暗に覆い尽くした。


「先生、そのまま後ろに下がってください!」


 こまねの叫び声とともに何かが爆ぜる音がする。それと行き違いに一瞬だけ異様な吐き気がしたものの、それもすぐに収まった。視界も戻ったのは結界を張り直したおかげだろう。今回は上手くいったものの──僕にとってこの瞬間は命取りにも近いものになってしまう。


「こまねも後方支援を入れますので、先生は先程と同様にお願いしますっ」


 大小さまざまな立方体が異形の四肢を覆い尽くし、圧縮するように爆ぜていく。欠損した肉体の一部は煙に巻かれたように失せ消え、しかし数秒後には傷跡も治癒していった。


「そんな能力があるなら先に言ってくださいよ!」


「体力の消耗が激しいので奥の手なんですっ! 結界に割く力の間借りです!」


「限界まで攻勢に出てください! 体力的にはどのくらい保ちそうですか!」


「保って数分です! 先生のことは最低限しか守れないので注意してください!」


 僕が脚を踏み込むと同時に、もはやこまねが前衛なのではないかと思うほど後方支援が激化する。倍加していく立方体は異形の行く手を阻み、着実に肉塊をえぐり取っていった。湯水のように湧いてくる蛇の盾を振り払いながら、薄い結界に微塵の傷もつけぬよう懐に潜り込む。僕がその右目を短刀で突き刺そうとした瞬間、彼奴の動きが拘束された。


「よし……!」


 声にもならぬ咆哮を鼓膜に受けながら、右へ左へと振るわれる重い連撃をことごとくかわす。しかしこの一撃で周囲の立方体は爆ぜて消え、瞬間的に異形の動きが自由になった。


 ──刹那、突如として彼奴が力を溜めるように身をかがめる。数秒ともいわずこちらへと距離を詰められるほどで、防ぐか守るか逡巡する間もないまま僕はこまねに叫んだ。


「こちらに結界を──っ……!?」


 言い放つと同時に妙な違和感があることに気が付く。異形が向けている軌道。

 ──僕を見ているようで、僕じゃない。そう察知した時には既に遅かった。


「っ、違う、こっちじゃない! 結界を張るのはこまねだ!」


 彼女の反応を確認する暇もなく、叫びながら彼奴の軌道を邪魔するように身を晒す──が、先程までとは一転して僕を気にする素振りすら見せない。むしろ通りがかりに殺す気か。


 こちらを殺したとて次はこまねだ。一人が時間稼ぎしたところで何になる? なぜ彼女を守る? そんな問答が頭の中を渦巻いて、しかし身体は既定事項のように動かない。いつの間にか異形の牙が僕の視界を覆い尽くした瞬間、動悸とともにこまねの悲鳴が聞こえた。


「何やってるんですか先生!」


 瞬間的に亀裂の軋む音と破砕音が連なる。視界の端を微かに捉える牙が閉じられる刹那、頭を喰いちぎられないようにと身を引いた。幾重もの結界がすべて割れていると気付いた直後、また地面に伏せたくなるくらいの動悸と悪寒、倦怠感に苛まれる。それを意地で堪えながら冷や汗に滲む短刀を固く握りしめ、渾身の力を振り絞って彼奴の腹に突き立てた。


「──けほっ」


 か細い咳払いにも似た声が異形の傷口から漏れ出る。そう思った直後、僕の脳髄を揺さぶられたかのような目眩と酷い嘔気がしてその場にうずくまった。動けない。否、まるで金縛りにでも遭ったかのように、眼球だけしか動かせなかった。そんな自分を冷酷な瞳で一瞥すると、彼奴は溜息のような音を鳴らして、ひときわ大きな蛇をただ一匹だけ首元に這わせる。


「……僕などこれ一匹で充分だと? やってみたまえよ」


「先生、挑発しないでくださいっ! こまねがなんとか……!」


 傷口から溢れる鮮血が手を汚し、地面へ落ちて着物の生地へと染みていく。それが余計に鼻を突いて、しかし動こうにも動けない。死が間近に近付いているというのに、不思議と恐怖はなかった。あるのはただ、彼女を死なせてしまうかもしれないという不安だけだ。


「ちっ……!」


 段々と首元が締め付けられていく。骨が軋んで音を上げる。呼吸がまったくできなくなったのを合図に大蛇は頭をもたげると、そのまま大口を開けて噛みつこうとした──が、した、だけだった。耳障りな音が脳を震わすと同時に、異形は予想通りこまねへと肉薄する。


 口を立方体で塞がれている大蛇を横目に、身体の自由を直感した僕も彼奴の後を追う。狙いは始めから彼女だったのだ。結界の強度を痛感したうえに、僕への心理的な影響をも戦闘の最中で看破した。結局のところ、最初から負けたようなものだったのかもしれない。


「こまね、短刀の柄を……! そこに押し込んでください!」


 治まらない動悸と目眩を意地で押し込みながら、こみ上げそうになる嘔気を我慢しつつ叫ぶ。おぼつかない足で彼奴を追っても届かないのに、しかし彼女との距離は既に接近できるところまで迫っていた。首を搔かれるほんの刹那でも、こまねは僕を見て頷いてくれる。


 ──甲高い絶叫が聞こえたのは、その直後だった。


 駆けた異形の行く手を阻むように小さな立方体が虚空に浮かぶ。それが突き刺さったままの短刀を押し込んで彼奴の傷口をえぐった。身をかがめたその一瞬で僕は彼女の傍まで距離を詰めると、うずくまっている異形から遠ざけるようにこまねを突き飛ばす。


「これで……!」


 咄嗟に彼女から取った短刀を逆手に構えながら、血走った目でこちらを睨む異形の正面に立って勢いを殺さぬまま心臓へと突き立てる。皮膚を裂き、肉を削ぎ、骨をも削る嫌な感触を手のひらに捉えた瞬間、またもや絶叫にも哄笑にも似た声が宵の林に響き渡った。


「──っ、けほっ……!」


「先生っ……!?」


 こまねの声が、どこか遠く聞こえた。澄み渡るような森閑のなかを、僕だけが佇んでいる感覚。甲高い耳鳴りのような音だけが弾けるように反響して、でも、それも一瞬だけだった。


 ──腹部が焼けるように熱い。皮膚も肉も骨も既にえぐれているはずなのに、ただひたすらに熱かった。身体の中からコテを当てているのではないかと思うほどに熱かった。


「ぐっ、う……!」


 引き抜かれたそこから滔々と血液が流れ出る。指数本ぶんの穴が空く。貧血のように強い目眩がひとつして、口の中に溜まったものを吐くとまた血だった。崩折れる暇もなく地面を拝む。臭気だけが鼻に溜まる。いつの間にか閉じかけた目蓋はもう上がらない。


 ──死ぬのだろうか。わずか二十年と少しで、これが僕の幕引きになるのだろうか。実家が裕福でも、決して望んだ人生ではなかった。目を背けて逃げ続けてきたようなものだ。こんなものはきっと、兄が迎えた死に様に比べれば、よほど恵まれているかもしれない。


 ──どうして僕は、わざわざ命を賭してまで彼女を守ろうとしたのだろう。自分よりもこまねのほうに価値があったから? きっとその通りだ。けれど、今だから思う。僕が他の人間を毛嫌いしても、こまねに対してそうは感じなかった理由。結局はお互い、似た者同士なのだ。過去に闇を抱えた者同士、少なからず親近感と情が湧いた。それだけのことだ。


 ──ふっと笑んだ口元から鉄さびた味がする。自分の最期がこんなものだというのは予想だにしていなかった。彼女は何か叫んでいるだろうか。相討ちには持ち込んだはずだが、万が一のことを考えれば、彼奴に捕らわれずに逃げただろうか。聴覚の失せかけた意識でもう一度だけ耳を澄ましてみる。少なくとも泣き声はしない。叫び声すらもしない。


 ──ただ、どこか遠くのほうで、あの胡散臭い堂主の叫び声が聞こえた気がした。

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