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第十話:善人とエゴイスト

 加賀美が指先をわずかに動かしたかと思うと、二体の式神が歯を見せながら僕を挟むように飛びかかってくる。結界がなければ首元を噛みちぎられている軌道だ。その直前でかわしながら逆手に短刀を振るも、俊敏な動作で逃げられて指の一本しか切り飛ばせない。


 少量の血飛沫と同時に毛髪が切断面から垂れ下がる。恐らくはそれらを贄に作り上げた式神だろうが、彼らは負傷したことなど微塵も意に介さず次の攻撃体勢を取り始めた。


「貴方に改めて訊きたい。自らの行いで人を殺めた自覚はあるかい」


「無論。だがそれは私の行いではなく、正当な対価なのだよ、青年」


 悠然と紫煙をくゆらせている加賀美へと間髪入れず距離を詰めるが、やはり式神に行く手を阻まれた。所詮は子供程度の大きさしかないそれを蹴飛ばすように突き抜けて、短刀を彼めがけ逆袈裟に振るう。当たった──と安堵したのも束の間、甲高い金属音が響いた。


「煙管……咄嗟に防ぎましたか」


「御生憎様だが、その程度で倒れるくらいでは──おや、若人は気が強くていらっしゃる」


 鍔迫り合いになると判断した刹那にみぞおちへの突きと蹴りを交わしたが、たかが素人の格闘術ゆえに容易く防がれてしまう。加賀美が気味の悪い笑みを浮かべたと同時に悪寒がして身を引くと、こまねが声を上げたのに被せて足元を式神が駆け抜けていった。


「貴殿は我々のことをどこまでご存知だ? 話してみたまえ」


 ほぼ一瞬で距離を詰められた刹那、煙管の持ち手に鈍い色が光る。針か刀でも仕込んでいたと判断して咄嗟に上体を反らした瞬間、結界がそれを阻む音がした。やはり仕込み槍だ。そのまま心臓を狙った第二突が迫るのを直覚しつつすんでのところで距離を取──ろうと思ったが、しかしまだ防げる。そう判断して短刀を突こうとした瞬間、加賀美が目を見開いて逃げるように僕から離れた。その間を埋めるようにまた式神が行く手を防いでくる。


「すべて推測の域を出ない……が、貴方が作り上げた神とやらが邪神であることは明白だ。神託というのも嘘八百だろう。貴方はなんらかの理由で神を仕立て上げ、無辜の民から純真たる信仰を得た。それが神としての格を成立させる要素となっている。違いますか?」


「ふっ……その通りだ。では、私が何のためにこんなことをしたのかは? なぜ進んで人の上に立ち、人の善意と信心を利用し、邪教でもって神を崇めているのか……分かるか?」


「……っ!?」


 加賀美が何かしらの仕草をしたと同時に、目の前の式神がまた形を崩していく。子供の成り損ないから異形に姿を戻したと思いきや、また何かへと変貌するかのようだった。じっと後ずさりしてこまねの横に並んだ時には、二体はしっかりと形を留めてそこに存在している。だから僕は目を背けざるを得なかったのだ。浅い呼吸で辛うじて平静を努めていた。


「先生、あれってもしや……」


「ふむ──貴殿はどうやら、たいそう化生がお嫌いらしい。よく私の前へ立てたものだ」


「……これも仕事なのでね」


 強がって吐いた声が震えていることに気付く。それもそうだろう、なにせ僕がいま見ているのは──療養時代に嫌というほど幻視した、あの化生のうちの二体なのだから。


 加賀美の異能は特定の何かを贄に式神を顕現させることと、術者の敵対する相手のトラウマを探り、それに変化させることだろう。なんらかの要因で僕の心が探られたらしい。


「……数年前の酷い記憶だ。こんなもの、どうやって分かったのです?」


「“視えた“のだよ。貴殿が精神衰弱で希死念慮に陥っている光景が」


「だから、これを今更ながら再現したと? 性格の悪い御方だ……大嫌いですね」


 反吐が出る。どうしてこんな仕打ちを受けなければいけないのだ。そう思うと、無性に憤りのようなものが胸の内から湧き出てきて、変に乾いた笑みが洩れていく。きっと今ならなんとかできるかもしれない。そんな淡い期待を込めて、隣に立つこまねに目配せした。


 短刀を握り直し、二体の化生を見つめる。片方は辛うじて童子らしい姿をしているものの、口は顔を二分するように縦に裂け、眼球は上へ下へと忙しなく動いている。もう片方こそ人間の形をしっかり留めているものの、至るところから無数の蛇が臓器を食い破るようにうごめいていた。いったいどうしたらこんな異形が生まれるのか甚だ疑問だが……。


 不快感を顔に滲ませながら、やや速い脈を無視して駆け出そうと足に力を込める。


「……私とて、こんな異能の使い方は想定していなかったのだ」


 枝の折れる音に混じって、加賀美が小さく呟いたのが聞こえた。思わず身体が硬直してしまう──が、直後、二体の式神が襲いかかるのを確認した僕は咄嗟に短刀を振るう。


 口から覗く不揃いな歯と無数に迫る蛇の手に行く手を阻まれながら、いつの間にか皮膚に血が滲んでいながらも彼に言葉を投げかける。話を聞かずに事を進めるのは簡単だが、既に一人の人間を殺めている加賀美に対して楽な選択肢は取らせたくなかった。


「まるで貴方が最初は善人だったみたいな物言いですね」


「私は間違いなく善人だった! 生まれついての異能者でありながら人のためになるような能力を持ったことを誇りに思いながら生きてきたのだ! 式神を使役し、悪しきものから人を守るそれの何が悪い? 貴殿に糾弾されるいわれは微塵もありはしないのだ!」


「いかなる理由があろうと、過去の功徳にすがっている時点で終わりです──よっ!」


 結界へ巻き付いてきた蛇の胴体を切り落としながら、返す刀で童子の眼球にも刃を突き立てる。直前で回避されたが傷を付けることには成功したはずだ。そのまま二体を突き飛ばしながら、僕は青筋を立てて向かってくる加賀美の手首を狙い低く身をかがめる。


 ──が、彼の動作に異変を感じたのは、短刀の切っ先が鮮血に滲み始めた直後だった。


「まさか……!」


「貴殿にも教えてさしあげよう。身内を亡くした私の深い絶望をだ!」


「っ──こまね、逃げろ! 早く!」


 直感で何が起きるのかを分かってしまったから、僕は加賀美よりも彼女へと意識を向けた。踏み込んだと同時に二体の異形がこまねに迫りかかって、しかし彼女は呆然と立ち尽くしたまま何もしない。咄嗟に投げた短刀も軌道が逸れたせいで地面に刺さってしまった。


 化生の牙がこまねに食らいつく直前、なんとか腕を掴みながら引き戻して距離を取る。顔を覗き込むと正気に戻ったようだったが、その表情は明らかに恐怖でこわばっていた。


「大丈夫ですか? 堂主が来るまではどのくらいかかりそうかな」


「早くても、十分はかかる、かと……。見つけてくれるのは簡単ですから」


 だけど、と彼女は震えた声で告げる。なぜか僕たちに追撃をしてこない化生と加賀美を一瞥した刹那、酷い悪寒とともに動悸がして、思わずその場で嘔吐してしまった。何かを叫んでいるこまねの声も耳に入らない。ただこの感覚が数年ぶりだと気付くのは一瞬だった。


 ──逢魔時の茜が深く沈んでいく。濃い影が地面に色を落として、逆光に照らされた彼らの姿は酷く異様に見えた。影に同化するように二体の式神は融解し、そこから形を留めない何かが起き上がってくる。人ではない。異形でもない。それすら超越した存在──。


「……やはり、貴方のやっていたことは許しがたい。人の信仰を私利私欲に使うなど」


 発狂しそうになるのを堪えながらおぼつかない足で立ち上がる。動悸も吐き気も多少は治まったものの、この嫌悪感や邪悪さが拭い取れたわけではない。だから、そっと手を握ってくれた彼女の温かさが身に沁みた。いつの間にか解けていた結界も張り直してもらう。


「貴殿に許してもらわぬとも結構だ! 身内を亡くした私の痛みが分かるか? 守るべき相手も消えたのち、私はどうすればよかった? すがる者もいないのだ! 他の人間なぞはどうにもならん! だからせめて、私の最期くらいは望むようにと──!」


 加賀美はそう叫ぶと、仕込み槍を大きく掲げたかと思いきや自分の心臓に突き立てた。僕たちが止める暇もなく傷口からは鮮血が滲んで、引き抜いたそこから鉄さびた臭いが充満する。音を立て滴下した血は地面を染めていきながら、明らかにあの異形へと向かっていた。


「もしや、ここで自害するつもりですか……!」


「……いえ、恐らく、それだけではないかと」


「ちっ……。こまねは彼奴あいつを見ていてください」


 小さく舌打ちをして、異形を避けつつ放り投げた短刀を拾い上げる。そのままうずくまっている加賀美を地面に押し倒しながら、僕は衝動的に首筋へと切っ先を突きつけた。


「自分のエゴに他人を巻き込んで、それが失敗したら自分だけ死ぬつもりですか?」


「ふっ……。どうせ最初、から……死ぬことは決めていたのだ。ただ──強いて言えば、いくら後追いとも……痛苦に喘ぐことへの恐怖があった。彼奴あやつにはそれを……叶えてもらう」


「馬鹿な物言いはやめてください。貴方を殺すくらいなら今の僕でもできる」


 口元から垂れた血を拭うことも額に張り付いた髪を掻き上げることもせず、彼はただ、恍惚にも似た笑みを浮かべていた。間近に迫った死を心待ちにしているのだろうか。それが酷く不快で、今にでも切っ先を喉元に突き立ててしまいそうになる。こんなやつが、自分のエゴのためだけに無辜の人間を殺したのだ。最低限に軽蔑すべき相手のはず、なのだから。


「貴殿が私を殺そうとも……彼奴が報復するゆえ。どちらにしろ殺されるのだ……貴殿は。それが私の──命を引き換えに命じたエゴイズムの……ゴホッ……成れの果てなのだから」


「……それならば僕が先に貴方を殺します。貴方は人間として軽蔑すべき相手だ」


 きっと今、ここで彼を殺したら、その感触も光景も記憶として残り続けるのだろう。こびりついて離れない悪夢のように、数年前の発作みたく思い起こされるのだろう。それでも此奴こいつだけは、人間の皮を被った畜生にしか見えないのだ。死なせる価値すらないのだ。


「貴方とは初対面でしたが、ここまで嫌いになれて幸いでした。殺す踏ん切りがつく」


「やってみたまえ──殺す前に貴殿の首が飛ぼう」


 じっと目蓋を閉じたその瞬間、ほんのわずかにだけ瞳に反射した深い茜とともに、大きな影のようなものを捉えた。それが何だか訝しむ暇すらなく短刀を掲げ、はやるような心地で脈を打つ心臓の痛みを感じながら、ひとまず前門の虎は始末できたと安堵する。


 ──そのはずだった。


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