化生と神の間には埋めきれないほどの溝がある。理性さえ持たず、我欲のままに行動し、時にして人間に怪異という名の害を及ぼす化生。気紛れに悪戯を起こし、民衆からの信心にご利益で応え、しかし一度でも怒らせようものなら怪異が畏怖を湧き起こす──。
信心による格の違いはどうしても埋められないものだ。あやかし同様、神には理性も知性もある。それが普遍的な存在であろうとなかろうと、根幹たる部分は微塵も変わり得ない。
──こまねが計画の再考を促してきたのは、あれから数時間経った頃だった。
「えぇっ、堂主もいま出張なんですかぁ……!? 来れるの夕方以降って……! ちょっ、待ってください! こまねと先生だけじゃ──私が来るまで事務所での滞在を引き伸ばせ? 無茶ですよ──あぁっ、もう! なに勝手に切ってるんですかあの人は……!」
苛立ちを隠さずに電話のダイヤルを回してから彼女は受話器を置き直す。やや逆立った耳と尻尾を横目で見ながら、僕は受付から少し離れたところでこまねと視線を合わせないように外を眺めていた。怒りに腕を振り回すたびに着物のたもとが揺れて危なっかしい。
……どうしたものかと小さく溜息を吐いた瞬間、手首のあたりに鋭い痛みが走った。
「──痛っ……! なんで僕のこと噛むんですかっ」
「冷静に考えたら先生も馬鹿ですよっ! こまねも先生も戦闘向きじゃないのに、わざわざ相手の本拠地に向かって処理しようとしてたんですよね……!? 無謀すぎますっ」
「わざわざしゃがんでまで僕の手を噛もうとするほうがおかしい」
「おかしくないです、いいんですっ! とにかく、丑三堂の戦闘要員は堂主だけで回っているんですよっ! 堂主が来てくれないことには万全の体勢にはなれませんって……!」
僕の手首に噛みつきながら彼女はああだこうだと声を上げている。喋るたびに牙が当たって痛いのも無視されたまま、ひとまず僕はこまねを半ば引きずって宿の外に出た。
路地に人はいないものの、これだけのどかな村だ。少女一人の声くらい響き渡っていてもおかしくはない。そう思っていたら、どこか遠くで朗らかな子供の笑い声が聴こえた。民家の垣根に背中を預けながら、手首を噛み続ける彼女をそっと振り払って唾を拭う。
「僕の懸念点が一つだけあるんだよ。というのも、こちらの素性が怪しまれているっぽかったの、こまねも分かったでしょう。既に久野さんの話も怪異の噂の話もしてしまった。あちらが馬鹿で鈍感ではない限り、僕たちが調査のために接近したと勘付いているはずだ」
「だったら、なおさら堂主を……」
「いや、逃げられる可能性も大いにあるよ。御神体さえあればきっと教祖たちは問題ないのだからね。小さな祠がどれくらいかの大きさかは分からないけれど、可能性の一つとしては上がる。新興宗教なんてそんなものだ。信者はしょせん、いっときの出汁だからね」
「……まさか先生、変なこと考えてませんよね?」
訝しげな視線で僕を見上げるこまねに、何のことかな、と首を傾げる。
とはいえこの件で頼れる相手などおらず、僕たちだけで解決しなければいけない事件であることは明々白々だ。というのも、化生などに対する怪事件への対処は警察や軍の仕事ではないし、それこそ丑三堂のような一部の私立探偵にほぼ一任されているのが実情だろう。
ましてや自分たちが異能者であることを明かすと話がさらに面倒臭くなる。結局のところできるのは、個人的な範囲に留まった私刑──ということには、なってしまうのだが。
「いったん外で張り込んで、妙な動きをしたら奇襲をかけるとかどうだろう。特に問題がなければ約束通りに乗り込んで、堂主が来るまで時間稼ぎをする……うん、良い案だね」
「簡単に言いますけどねぇ……こまねは先生の身を案じて言ってるんですよっ」
「……とはいえ、僕も真剣ですよ。初仕事を失敗で終わらせたくないですし、単純に今回の相手は明確に嫌いな相手なので。のさばらせておくのは気味が悪いでしょう、こまねも」
「それは、そうですが……しかし……」
彼女は気が進まなそうな表情で視線を彷徨させると、そのまま何も言わずに宿のほうへと戻っていく。やはり難しいか、としょぼくれたような尻尾を眺めながら溜息を吐いた瞬間、こまねはふと振り向いて僕に手招きをした。ほとんどヤケクソみたいな声だった。
「なにボーっとしてるんですかっ。行くんでしょう、町まで!」
◇
夕刻に差し掛かるまであと数十分というところ、僕とこまねは二手に分かれて行動していた。件の新興宗教──如心会の本部がある町のテナントは、そこそこ真新しげなビルディングの二階に構えているらしい。裏手を流れる川とその遊歩道沿いを歩きながら、僕は窓硝子越しに見える部屋の内情をじっと観察する。とはいえおかしな動向は見当たらない。
途中で調達した護身用の短刀が、着物のたもとに忍ばせたぶんだけ重く感じた。
「人の気配はあるし、特に警戒されているわけでもないのかしら……」
石造りの柵に寄りかかりながら、背後を流れる水のせせらぎを聞く。表で待機しているこまねから報告が来る雰囲気もなかった。懸念事項はあくまで懸念事項、僕の気にしすぎだったということだろうか。……それならそれで、予定通り計画を進めるだけなのだが。
裏口から退勤をし始めた勤め人の怪訝な視線を集めながら、懐中時計の文字盤をもう一度だけ見直す。予定の時間まであと十数分というところだ。ここまで来て目立った動きがないのなら、いっそ早めに出向いてしまっても構わないかもしれない。建物の合間を通って表に向かうと、見知らぬ誰かと談笑しているこまねの姿が見えた。何をしているのだろうか。
「──あれっ、先生、どうしたのですか? 見張りは……」
「こまねこそ、どうしてこの少年と話しているんですか」
「あぁいえ、お困りのようでしたので……手助けしたついでに世間話を」
ほら、と尻尾で指された少年が軽く頭を下げる。年端もいかない容貌で、手には包みか何かを握っていた。きっと買い物に出されたとかそういう話なのだろう。恐らく子供にしろ老人にしろ放っておけないのが彼女の性格らしいが、仕事中というのに殊勝なものだ。
彼と同じ目線までしゃがみこみながら、僕は努めて威圧感を与えないように告げる。そもそも、これだけ純真無垢な眼差しをした子供にそんな態度は取れるはずがないのだが。
「君はお使いかい? 偉いね。お姉ちゃんに何か助けてもらったのかな」
「うんっ。でもそろそろお家に帰らないと心配される」
「よし、そうしようか。こまねも僕と一緒に仕事をしなくちゃいけなくてね」
「そうなの? ありがとね、お姉ちゃん! 二人ともお仕事頑張って! んじゃ!」
素直な子供でなによりだ、と微笑ましく背中を見送る僕に、こまねはきょとんとした様子で視線を向けてくる。なんですか、と立ち上がりながら訊いても、「いえ」とごまかされてしまった。彼女は言葉を選ぶように口をつぐむと、やがて意を決したらしく僕のほうを見る。
「先生、そういう優しい話し方もできたのですね。硬派な印象がありましたから」
「……子供相手だけだよ。大人よりかは、よほど純粋だから。子供には気楽に接せるんだ」
「なんですか、それ。子供って言うなら、こまねにはしないんですか?」
「二十歳はもう成人でしょう。とはいえ、こまねが純粋じゃないとは言わないけど」
「えっ、えぇ……? なんですかその理由っ。どういう意味なんですかっ
て……!」
ここでこんな話をしても意味がない。着物のたもとを掴んでくる彼女を無視しながら、最後の確認のため建物の裏手に回ってテナント内の状況を目視する。すっかり大人しくなったこまねとともにエントランスへ向かうと、管理人らしき洋装の男性に声をかけられた。
「失礼、青年。御用はいかがですかね?」
「如心会の本部に用があるのです。貴方がたに話が通っていませんか」
「あぁ、それなら。どうぞお行きください」
建物内部の大階段を示されるまま、軽く会釈してから僕たちは本部のある三階まで進む。細い廊下の先に扉があって、襟を正してからノックをすると、すぐに受付嬢らしき女性が顔を出す。電話で約束をした綺月です、と伝えると、納得したような表情で通してくれた。
「いま代表を呼んできます。席におかけください」
「どうもありがとうございます」
用意されている応接椅子は窓際に二つずつ相向かいになっていて、入り口付近の受付デスクを除けば、ここは一つの応接間らしい。向こうに続く部屋が礼拝か何かの集会所らしく、一瞬だけ開いた扉からは印象をうかがうことはできなかった。ひとまず椅子に腰を掛ける。
「意外と普通の事務所っぽいですね?」
「そうだね。体裁はきちんと整えられているらしい」
「はいっ。先生は教祖ってどんな方だと思いますか?」
「さぁ……。意外と若かったりするんじゃないのかな、とは」
どうかな、と漏らした笑みに被せるみたく扉の開閉音が耳に届く。視線をそちらに向けると、受付嬢の背後に中年ほどの男が見えた。十文様の大島紬に煙管を携えた様は、傍目にも重厚感らしきものを感じ取れる。すぐに立ち上がって会釈すると、彼も慇懃に頭を下げた。
「如心会代表の加賀美と申す。貴殿が話に聞いた文筆家の青年か」
「綺月と申します。こちらは助手のこまねです」
明らかに緊張している様子の彼女に、背中から催促しつつお辞儀を促す。ぎこちない頭の下げ方をしている様子を内心で苦笑しつつ、しかしこれは面倒そうだと溜息を吐いた。また席を勧められるのかと思いきや、加賀美は窓の向こうを一瞥してから重そうな口を開く。
「夕涼みといこう。こんな狭苦しい部屋の中では気も詰まるだろう」
「お心遣いありがとうございます。どのあたりまで?」
「うむ……裏手の遊歩道を上がっていこう」