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第五話:白昼の独白

「神隠しも、場合によっては『魅入られた』ことと同じになるんですよ」



 ──考えてみれば当たり前のことだった。けれど、僕に衝撃を与えるには充分に足る事実だった。兄を失った……否、離別させてしまった一因は、化生ではなく、神による怪異。


 一瞬でも『それなら良かった』と思ってしまった自分が浅ましい。神が相手なら、どうせ対処できない。そんな逃げの一言で、今まで抱き続けてきた罪悪感を解消させるつもりなのか。だったら僕はなぜ、わざわざ丑三堂のもとで業務を始めた? 僕がしたいのは、この陰湿な過去を乗り越えることと、神隠しの真相をいつか究明することだ。逃げではない。



「……こまねのせいですね、申し訳ございません。そんなに焦らなくても大丈夫ですよ」



 胸の内を見透かすように彼女は優しく笑うと、部屋の四隅に指を向けてから手を叩いた。刹那、覚えのある感覚とともに、鋭利な感情の一切が引き波のように消えていく。それが部屋中に張り巡らされた結界──こまねの異能だったと気が付くまでに数秒かかった。



「落ち着きましたか、先生? 少しだけ怖いお顔をされていたので」


「……ありがとうございます、おかげさまで」


「いえ、これがこまねの役目ですから。助手とはこういうものですよ」



 得意げに胸を張った彼女は、「だから」とそのまま続ける。



「先生さえよろしければ、お話、聞かせてもらえませんか? こまねに話して少しだけ楽になっちゃいましょうよ。こまねも……堂主に、そうしてもらいましたから。お返しです」



 これだけ穏やかな声音を最後に聞いたのは、いつだったろうか。身内以外には言えずにいたことを、話してみようかと思えたのは、いつぶりだったか。自分よりもわずか年下の、出会ったばかりの少女にそう考えるのは、彼女が人間ではないあやかしだからだろうか。或いは、僕たちは置かれた境遇がどこか似ているという、幼稚な安堵からかもしれなかった。



「いいんですか。つまらない昔話ですよ」


「ぜひ。こまねは先生のこと、あまりよく知りませんから」



 座椅子の背もたれにそっと背中を預けながら、彼女は柔らかい笑みを浮かべる。異能のおかげだろうか、或いは少女そのものの性格だろうか。自分の思う以上に心は凪いでいた。



「……僕は京都の商家の生まれで、ご存知の通り、成金華族と呼ばれるものでした。今でこそ事業も邸宅もなく、没落華族だの斜陽族だのきっと言われているでしょうが、これでも幼少期はそれなりに裕福で、幸に恵まれたような家族との暮らしをしていたんですよ」



 斜陽族。なんとまぁ言い得て妙な言葉だと思った。今の自分にぴったりだ。



「……兄は僕より優秀だったとか、特に優しかったとか、そんな話はありはしない。どこの家にもいる、普通の少年でした。適度に一緒にいて、適度に遊んでいた。そんな兄弟でね」



 こまねは手帳とペンを取り出すと、話した内容を一語一句も漏らさぬように書き留めていく。その心遣いが嬉しいような、申し訳ないような、はたまた、なぜ自分のためにそこまでしてくれるのだろうという疑懼ぎくさえも生んだ。優しいという枠には収まらないほどの。



 溜息ごとに息継ぎをしながら、滔々(とうとう)と滲み出ていく何かをそのまま吐き出す。普段なら見向きもできないようなことに、彼女のおかげで向き合えている。そんな確信があった。



「あの日は両親も一緒に、家から少し離れた瓜生山のほうへ出かけていました。何かの折、親を待つ間にお寺の境内周辺で遊んでいたんですが、そこがほとんど山林で──ちょうど迎えが来るかという逢魔時の帰り道、林のなかで、兄はひっそりと神隠しに遭ったんです」



「……お兄様は、先生の目の前で消えたんですか?」



「うん。暗がりになりかけてはいましたが、手を繋いで一緒に歩いていて……。それがほんの一瞬だけ途切れて、瞬きのうちに忽然と。代わりに影のようなものが尾を引いて、いま考えれば、あれがこまねの思う神様なんでしょうね。そして二度と戻ってきませんでした」



 話を聞いているだけなのに、彼女はときおり視線を逸らしながら悲痛に顔を歪めていた。人の感情をいたく理解し移入する、それができる人間など多くはない。何かを言おうと言葉を探しているこまねより早く、心のなかで謝ってから「それからだよ」と二の句を継いだ。



「〈勿忘草〉──僕の異能です。あの日から見聞きしてきたものを、すべて覚えているんです。兄が消えた瞬間の恐怖も、通霊となって視えてしまう化生の気味悪さも。僕の無力で兄を死なせたという罪悪感も、それに惹かれてやってくる怪異の数々も。精神をやられた末に希死念慮に陥って、幾度も自殺を試みては失敗した、あの耐え難い療養時代のこともね」



 肯定も否定もせず、ただ聞いてくれるこまねがありがたかった。けれど、これは胸臆のモヤを吐き出すというよりも、苦しみを共有して傷を舐め合うような、そんな行為に近しいのではないか。そう邪推する僕を慰めるように、彼女は陽の射す透明な瞳をこちらに向ける。



「──先生は、これから生きていく先で、叶えたいことってありますか?」



 叶えたいこと。唐突な質問の意図が図りきれなくて、しばらく考え込んでしまった。けれど、答えがないわけではない。小さな深呼吸を何度か繰り返して、少しだけ重い口を開く。



「僕が丑三堂に入ったのは、こまねがいるなら、きっと怪異へのトラウマも克服できるだろうと思ったからだよ。そのうえで、ずっと神隠しの真相を探りたいと考えていた。罪悪感に苛まれ続けるのは疲れたので、何かの形で贖罪を果たしたい。それが今の目標です」



 意地悪な答えだと思われただろうか。けれど、これが僕の本心だった。今の僕にはそれ以外に考える余裕などない。衣食住を足りてなお、過去の清算と贖罪に苛まれ続けている。


 こまねはそっと立ち上がると、そのまま僕の横にやってきて目線を合わせた。いつの間にか握られていた手のぬくもりが、まるで湯気にでもさらされたように熱を帯びていく。想いを込めるようにひときわ強く握ると、彼女は芯の通ったその瞳に、ただ僕だけを映した。



「──でしたら、こまねが最後までお供します。先生に頼っていただける限り、できる限りの協力も尽くします。だから……昔のことは、なるべく考えないようにしましょうよ。身近な人が苦しむ姿を、こまねはもう見たくないんです。今を充実させましょうよ。ねっ?」



 こんな時でも、否、こんな時だからこそ、彼女は健気に振る舞っていた。いま浮かべているこの笑みは、きっと衷心ちゅうしんから僕を想っている。……だけれど、それを素直に受け取れそうにないのはなぜだろうか。やはりこまねの優しさは、どこかに引っかかるものがあった。



「……ありがとうございます。しばらくは厄介になります」



 そんな態度をおくびにも出さないまま、僕はこの笑みと温もりを手放しで受け取る。本当はそうしたいのだ。頼れる相手もない今、自分の置き場所は、この丑三堂だけなのだから。



「ぜひ、そうしてくださいっ。先生の異能は、過去のトラウマを忘れないようにするためではないです。いま起こる些細な幸せを、ずっと覚えているためのものです。異能は、考えようによっては強い武器になるんですよ? 今日のお夕食、楽しみじゃないですかっ?」



 ──冗談なのか本音なのか分からないこまねの笑顔に、少し救われたような気がした。二人でひとしきり笑ってから、「だいぶ内容が逸れてしまいましたね」と、彼女が申し訳無さそうに言う。確かにそうだった。話のもととなっていたのは、単なる怪異調査だったのだ。



「……ふふっ、話を戻しましょう。それで、この地域の神が怪異の根源だとして、どうやってそれを突き止めるのかしらんとは思いました。現状、どこにいるかも分からない状態で」


「そうですねぇ……恐らく、村のどこかで必ずお祀りされているとは思いますが」



 窓枠から身を乗り出しながら、彼女はひょいひょいと顔を覗かせる。僕が見てきた限りだと祠も神社も確認できなかったが、そうなると、あの森のなかにでもあるのだろうか。



「今夜、探しに行ってみますか? そもそも神っていうのは会えるものなんですかね」


「会えるというか視えるというか……。そもそも神様が相手ですので、下手なことをするとお気に触ってしまう可能性もあるんです。明日しっかりと準備をしてからお会いする誠意を見せる、というのでも遅くはないと思いますよ? その間も調査は続けられますし」



 そんなわけで、とこまねは露骨に顔をニヤけさせる。



「今晩は堂主抜きでのんびり休んじゃいましょうかっ! これが出張の醍醐味ですっ」

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