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第三話:騒がしいモーニング

 往来に面した僕の部屋は朝になると賑わい始めた。だから早々に床から出て、暇潰しに店の本を物色している。寝起きの近眼には、硝子灯の明かりも小さな文字も厳しかった。



「……しかし、あの人のデスクはどうしてこんなに乱雑かな」



 畳の小上がりに座っていても、視界の端に入ってしまうほどの存在感。椅子に座って卓に向かう彼の姿が思い出された。細かい挙止動作も、発言の一つ一つに至るまで、すべて。



「──『彩佳くんに異能の有無は訊かない』か」



 昨日、そう言われた。僕、或いは僕たちにとって、異能は過去の強いトラウマを喚起するものだから。堂主はそれを身に沁みて分かっているからこそ、僕に告白を強いていない。



「……異能と呼べるほどのものでもないけれど、好きな能力ではないね」



 〈勿忘草〉──いわゆる瞬間記憶。兄を死なせたあの日から今日に至るまで、日々の苦悩も、他愛ない会話の内容も、没にした原稿の文章も──見聞きしたすべてを僕は鮮明に覚えている。それはもちろん、兄とはぐれた、あの瞬間さえもだ。まるで一種の呪いだった。


 いや、無力ゆえに目の前で失ったからこそ、この罰を贖罪にしているのかもしれない。



「……ちぇっ」



 少しでも意識を向けると、映像が鮮明に思い出される。それを別の記憶で上書きしながら、震える手を無理に動かして本の表紙を閉じた。水でも飲もうと一呼吸おいて立ち上がる。


 硝子戸を抜けて廊下へ戻ると、奥に台所、右手にお手洗いと風呂場に向かう扉があった。ちょうど階段から寝巻き姿のこまねが降りてくるところで、慌ただしそうにしている。



「おはようございます。そんなに慌ててどうしたんですか」


「えっ? あっ、いや、お手洗い、に……?」



 起きたばかりなのか、髪や襟元も最低限しか直されていない。彼女は焦点の揺らぐ瞳で僕をじっと見つめると、なにやら訝しげに首を傾げてからハッと耳と尻尾を逆立てた。



「──わっ、堂主ーっ! 大変です! 泥棒ですよ泥棒っ!」


「ちょっ、何を寝ぼけてるんですか、僕が泥棒なわけ……!」


「いーえ! こまねは貴方のことなんて知りませんっ!」



 何を勘違いしているのか、犬歯と爪をむき出しにして臨戦態勢になっている。



「綺月です! 作家の綺月彩佳ですって! 昨夜からここに配属された……!」


「知らないです、御託はいいですっ! とにかく堂主に引き渡しを──!」



 慌てて階段を駆け上がっていくこまねの後ろ姿を呆然と眺めながら、僕はまた、彼女に抱えた違和感が一つ増えたことに気がつく。……朝から面倒な騒ぎになってしまった。





「……その、綺月先生。先程はご迷惑をおかけしました」


「事情が事情ですから、まぁ怒りはしませんが……」



 書店街の入口にある純喫茶は、モーニングを摂る人が数人いた。珈琲とトースト、スープの香ばしさに包まれながら、「お詫びです」とご馳走してもらった朝食に二人で手を付ける。



「しかし、定期的に記憶が喪失する、なんてことがあるんですね」


「そうですね。こまねはおおよそ一日から三日周期で……寝起きに。いつもは枕元にある手記を見てから記憶を補完するのですが、今日はお手洗いに行こうと急いだもので……」



 すみません、と折れた耳ごと頭を下げて、彼女はメイド服のエプロンから例の手帳を取り出す。珈琲を一口含みつつ昨日のページを見せてもらうと、確かに僕のことが書かれていた。



「ごめんなさい、こまねが昨夜のうちに伝えておけば良かったのですが……」


「……あまり頭を下げると髪の毛がスープに入りますよ。はい、手帳」


「あっ、ごめんな──あっ、また……えへへ……。ありがとうございます」



 苦笑いを浮かべながら、こまねは素直にトーストをかじる。自分のなかで納得したことを執拗に謝られるのも、あまりいい気がしない。これではせっかくのモーニングも興ざめだ。



「ちなみに……これは、異能とは別の体質なんですか?」


「はい、生まれつきです。故郷で苦労はしましたが、今は堂主のような理解者もいますから」



 その柔らかい笑みは、きっと嘘ではないのだろう。ただ、窓硝子から射す陽光よりは、ほのかに影があった。ましてや彼女は猫又だ。今でこそ善良な人間に変化しているあやかしとはいえ、もとは人語も話さない化生だ。自然淘汰の輪のなかでは、例外はいずれ排斥される。



「……そうですか。しかしあの堂主も変な人ですね。こまねが騒いでも起きないとは」


「えへへ、まぁ。本当に面倒な時は動いてくれるのですが……そういうことですっ」



 下手すれば往来にも響くようなこまねの声は、堂主を起こすまでには至らなかった。その違和感から冷静さを取り戻した彼女に、「お詫びです」と朝食へ連れられたのが十数分前だ。


「ところで先生」と、彼女が最後のトーストを飲み込みながら話を切り出す。



「今日はこれから業務の予定があるのですが、大丈夫ですか?」


「……大丈夫ですが、開店は深夜からでは?」


「あ、お店は休日になっています。本日は別に聞き込みを、と堂主に言われていまして」



 こまねより一足早く食べ終わった僕は、ナプキンで口元を拭きながら目線で先を促す。彼女はほとんど残ったままの珈琲に口をつけると、少し顔をしかめてから手早く席を立った。



「詳しいことは……えほっ、お会計のあとに、説明……します」


「……珈琲、飲めないんでしょう。ずっと手を付けてませんでしたよ」


「そっ、そんなことないですよ? 喫茶巡りがこまねの趣味ですし……?」


「いっそ純喫茶の給仕でもやればお似合いだと思いますけどね」


「えっ、お似合い? えへへ、そんな──って先生! 行くのが早いですっ」



 こまねの様子がおかしくなってきたところで、僕は先に店を出る。急いで会計をしている彼女を横目に見ると、服装的にボーイと一緒に給仕をしているほうが似合いそうだ。


 しかし急な外出だったとはいえ、なぜ普段着ではなく女給姿のままなのだろう。昨日の出張も僕は外出着の装いだったのに、こまねは当たり前のようにメイド服で隣を歩いていた。



「はぁ……お待たせしました。いったん書店街のほうに戻りましょうか」


「聞き込み、ですよね。店の近所ですけど、何をするんですか?」


「ふふん、それはですね。いわゆる情報収集と宣伝を兼ねているんですっ」



 なぜか得意げな笑みを浮かべると、彼女はそのまま歩き始める。白毛の髪と尻尾がよく揺れていて、仕事の話をするや否や楽しそうだ。人員が増えたのがそれだけ嬉しいのだろう。


 こまねはわずかに僕のほうへ身体を寄せると、声量を抑えて耳打ちしてくる。



「確かに丑三堂は深夜営業ですが、お客はだいたい、店の噂を聞いた人です。裏で怪異の対処を商いにしてる古書店があるよ、って。それを広めるための聞き込みなんですよっ」


「化生とか怪異について実害や噂があれば教えてください、ってことですか」


「御名答です! 月の業務のなかで何日かはこうやって動いているんです。特にここは東京有数の書店街ですし、色々な地域の人がやってくるじゃないですか。うってつけですねっ」



 なるほど、これは今日も化生に遭遇する可能性がありそうだな──と憂鬱になりかけている僕をよそに、こまねは目に入る書店の一軒一軒に顔を出していく。丑三堂の近所ということでお互い知り合いなのか、どの店員とも親しそうに話していた。『人間さんのお困りごとは断れない』と昨日も言っていたし、単純に人付き合いが好きな性格なのだろう。


 向こうは話が終わったのか、小さくお辞儀をしてから小走りに走り寄ってくる。



「お疲れさまです。店主と親しそうでしたね」


「はい、同業ですから。ここらへんの書店はみんなお知り合いです。見かけるたびに挨拶し──あっ、裏の書店の人だ。おはようございますっ! ……ほら、手を振ってくれました」



 その後も、こまねは書店や常連の知り合いにどんどん声をかけていく。その年齢差はまるで祖父と孫のようだった。可愛がられて屈託のない笑みを漏らしている姿は、過去の境遇やトラウマめいたものを微塵も感じさせない。天真爛漫という言葉がよく似合っていた。



「今日は当たりにくい日ですね……いつもはこのくらいでヒットするのですが」



 そんなこんなで十何人目。手分けして聞き込みをしたが、目立った成果は得られない。こまねは苦笑しいしい僕のもとへ戻ってくると、「少し日陰で休みますか」と言った。


 往来の適当な軒下で日射しを遮りながら、軽い雑談代わりに気になっていたことを訊く。



「こまねは、どうしてずっと女給姿なんですか? 外出着のほうが楽でしょう」


「この服装については……そうですね、なんだか『仕事をしている』感が出るので気に入ってますっ。こまねは基本、店だと給仕のようなことばっかりしていますから。あとは人に尽くせるのが嬉しいので、その気持ちを忘れずに……みたいな感じですかねぇ……?」



 ──なにより、堂主には恩がありますから。


 口元に手を当てて、彼女ははっきりとそう告げた。過去を思い返すような表情で、どこか茫洋とした視線──僕を見ているのか見ていないのか、それすらも分からなかった。


 堂主とはどんな関係なんですか、と尋ねようとした瞬間、ふと一人の婦人がこまねを見るなり歩み寄ってくる。彼女は僕たちと視線が合うや、開口一番に口を震わせた。



「こまねちゃん、さっき偶然聞いたんだけどね……田舎のほうで起きた怪異の噂。怪奇小説の題材にしたいって言ったのはそこのお兄さん? うってつけの話があるわよ」


「わっ、お向かいの奥さん。情報提供ですか? ありがとうございますっ」


「貴方たち、ご存知? ──火葬した女性の死体から髪や歯が出てくるってお話」

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