東京の一角にある書店街は、夜にも関わらず学生や客に物色されていた。そのなかに看板を掲げていながら準備中である丑三堂は、出入りをするだけで好機の眼差しに晒される。しかし僕は彼らに目もくれず、デスクで事務作業をしている青年に言葉を投げかけた。
「堂主、当初の話と違いますよ。どうしてただの古書店が怪異に関与するんですか」
「まぁ、お金で騙すような形にしてしまったことは悪いと思っているよ、
古びた木組みの床、壁をくり抜いた本棚、中央に畳の小上がりを設け、入口から最奥に置かれたデスク。卓上の乱雑さから堂主の性格がうかがえ、天井に吊られた硝子灯が電球色を反射させ、詐欺師かくやの柔らかい声がよく通る──それが古書店・丑三堂の光景だった。
「でも君は言ったでしょ? 実家の家業は倒れ、爵位は返上、ご両親は京都へ帰り、家も引き払い、大学は中退したと。ご自身の作家業だって、原稿料も印税も期待できない状況だ」
「だから働こうと職を探していたのに、業務内容を騙した上で依頼を渡すのはあんまりでしょう。ここは古書店じゃなく、怪異に関する商いをしているんじゃないですか。僕が勧誘されたのは、その業務において明確な利があると判断されたから──違います?」
着物の襟を正し、ポマードでオールバックに固めながら、堂主は笑って頷く。その黒髪が一部分だけ線を引いたようにグレーを帯びているのは気になるが、ともかく奥から出てきた女給姿のこまねが水の入ったグラスを各々に手渡すと、そのまま彼の隣に控えた。
「確かに彩佳くんの言う通り、丑三堂は──古書店、兼、探偵事務所だよ。それも深夜にだけ開く、怪異を専門にした、ね。……でも、怪異ならまだしも、化生や神が“視える“者は限られている。だからわざと化生に遭遇させて、本当に”通霊“か確認させてもらったんだ。この能力がないと、そもそも話にならない仕事だからね。絶対に外せない確認だった」
「通霊……視える、ということですか。確かにそうですが、なぜ初対面でそれを見抜けたんです? 僕は道を歩いていたら、いきなり女給姿のこまねに仕事の勧誘をされたんですよ」
「だって先生、作品とかエッセイに書いてるじゃないですかっ。いっとき怪異や霊障に悩まされていたとか、化生が題材の短編作品とか。それを偶然にも見つけたので、これはもしや“視える”側の人だろう、って。幸い作家ですし、身元が割れるのは早かったですよ?」
眦の上がった猫目をしばたかせながら、こまねは満足そうに笑って僕の隣に座る。二本に分かれた尻尾も耳も見間違いではなく、確かにあやかしのそれとして自在に動いていた。
「あぁ、そういうことだったんですね……。往来で『綺月先生』って話しかけられた瞬間、自分のファンかと思って舞い上がっていた自分が馬鹿みたいに思えてきますよ……」
「まぁ、そんなわけだけれど──どうだい彩佳くん、うちで働く気はあるかな。改めて説明すると、事務所としての業務は『怪異に対する調査・解決』だ。場合によっては荒事になるけれど、そこは心配いらない。こまねの優秀な能力があるからね。君も見たろう? 結界」
「見ましたが……あれ、何ですか? あやかしとはいえ、普通の者が特異な能力を持てるはずがないでしょう。狐みたく種族に固有の術というなら分かりますが、猫又が……」
「私も普通の者だけどね、実は能力とやらがあるんだ。むしろそれがなければ、こんな商いはやっていない。この異能力は人妖問わず顕現するらしいけど──今まで見てきた経験で言わせてもらえば……そうだね、怪異や化生に関する
自嘲気味に口角を上げながら、堂主は自分を示し、そうしてこまねに指を向けた。隣で肩を跳ねさせた彼女の反応からすると、この話は初出なのだろう。ただ心当たりがあるらしく、快活な少女には似合わぬ浮かない顔をして、少しの間、呆然と硝子灯を見つめていた。
──だったら、どうしてこんな商いをしているのか。そこまでは訊けなかった。
「……実を言えば、僕も怪異がトラウマです。兄が目の前で神隠しに遭って、そこから帰ってきませんでした。一緒にいた僕がなんとかすれば助かったかもしれないんです。ただ、できなかった。その後悔が十数年経った今でも尾を引いています。それが契機で視えるようになりましたし、そのせいで精神をやられて服薬、酷い時は希死念慮で自殺未遂ですよ」
隣の白髪がしゃらりと揺れる。驚いたように目を見開いたこまねの顔が、思っている以上に近かった。瞳の色は透明で、よく透き通って見える。そんなことに今しがた気付いた。
気まずそうな表情のまま目を逸らした彼女とは反対に、堂主はどこか、触れれば割れてしまいそうな薄い笑みを浮かべている。「私と似ているところがあるね」──そう聞こえた。
「彩佳くんに異能の有無は訊かない。言いたくなければ言わなくていい。それは必ず、自分のトラウマを喚起させるものだからね。でも、君がここに身を置いてくれるというのなら──こまねと組むことを勧めるよ。彼女の異能は結界だけじゃない。あの内部にいると、不思議なことに精神安定効果もあるんだ。だから私はこまねを重宝している。どうだい?」
どこか自慢げな堂主の態度に押されて、ふと隣の少女を見てしまう。恥ずかしそうな、しかし得意な面持ちでうろたえているところに、二人の信頼を垣間見た気がした。
──確かに、こまねの能力は一目おける。怪異や霊障に遭遇し、精神を病んで服薬していたあの頃を思えば、彼女の異能ひとつでトラウマをごまかせる可能性さえある。そしてなにより、業務に従事して怪異に慣れれば……兄を死なせる
「ちなみに、もし入社を断るというようだったら、当初の報酬額である五十円は四十円に減額となってしまうよ。余りの十円は祝い金だからね。衣食住の社員保障も反故になる」
「……嬉々としてこまねが声をかけてきた理由が分かりましたよ。僕が断りきれない機会を得られたことが嬉しくてしょうがないんでしょう、貴方。嫌いになりそうです」
「あはは、そう言わないでほしいね。しかし、だ。入社さえしてくれれば、彩佳くんは業務上の大きな働き手となる。うちは人員不足だからね。入社後の保護は手厚くするよ」
「衣食住の保障はこまねがしますっ。家事雑事、全般こまねが請け負いますので」
二人の視線で板挟みになりながら、僕は小さく溜息を吐く。硝子灯の眩しさが瞳を射して、しかしそれは温かかった。「業務内容を除けば割の良い仕事ですが」と前置きをする。
「……分かりました、請け負いましょう。お互いに利のある取引ですからね」
「やった! やりましたね、堂主っ。これでお仕事が楽になりますよ! 一日の予定に二回も三回も出張を決めることが減りますよ! 一人加わるだけでどれほど助かることか……」
嬉しさのあまり跳ね上がってデスクに手を突きながら、こまねはこれ以上ないほどの笑顔で堂主と顔を合わせている。忙しなく動き続ける耳と尻尾から毛が抜けて、鼻がこそばゆくなった。しかしこんな人材状況で、今までどうやって仕事を回してきたのだろうか。
そんな僕のことなど堂主は気にせず、「さて」と満足気に立ち上がった。
「そうと決まれば、ここがもう彩佳くんの家だから好きに過ごしてほしい。邸宅暮らしだった華族には少々狭いだろうけれども、我慢してくれたまえよ。要望はなるべく聞こう」
ありがとうございます、と言うより早く、彼は隣ではしゃぎ続けている少女を無視して、笑顔のまま奥へと続く硝子戸を抜けていった。掴みどころのない青年という印象だ。
堂主がいなくなったのを皮切りにこまねも大人しくなると、あの屈託のない笑みは崩さないまま、ただ僕のほうを向き直って、ほんの少しだけ申し訳無さそうな声音で告げる。
「あの、綺月先生……。今更ですが、無理にお誘いして、ご迷惑じゃありませんでしたか?」
「業務内容はかなり想定外でしたが……まぁ、衣食住が確保できたので満足しています。それに、貴方の異能にも助けてもらえそうなので。しばらくは厄介になります」
「たっ、助けてもらえそう……ですかっ? 先生のご要望ならば、こまねはできる限り果たします! ご相談等は堂主よりもこまねに声をかけたほうが早いですよっ!」
押し倒すような勢いで詰め寄ってくる彼女に、僕は身体を反らしながら苦笑いを貼り付ける。喜んでいる……にしても、なんだろうか、この違和感は。最初に声を交わした時からずっと、こまねには形容しがたい違和感のようなモヤがある。それが何かは、分からない。
「……そういうことなら、頼らせてもらいますね」
──なんだかんだ、この丑三堂というものは、似た者同士が集まる場所らしい。
なんでもないように振る舞っている彼女にも、暗い一面があるのだろうか。