宵が煙る逢魔ヶ時の林は、神隠しにでも遭ったかのような異質さだった。鬱蒼とそびえる木々の枝葉が地面に闇を描いて、隙間から射し込む斜陽の茜は、血にも似て深い。
隣を歩く少女の顔すら見えにくいが、かろうじて浮かんでいる影には、二つに分かれた尻尾が揺らめいていた。歩くたびズレる眼鏡の位置を直す僕に、軽快な声色で彼女が告げる。
「綺月先生、少し足取り早めにお願いしますっ。このまま夜になってしまったら、私のアイデンティティである白毛の意味がなくなってしまうので。白毛は昼間こそ映えますから」
「……貴方、猫又のこまねといいましたよね。僕らが堂主から依頼されたのは、こんな林のなかに入って警察ごっこをすることではないでしょう。上司の依頼を無視ですか」
「いえっ。ですが、人間さんのお困りごとでしたら、道中でもこまねは断りにくいもので。とはいえ早く解決するに越したことはありませんから、先生の態度にかかっています」
「林に異変がないか、代わりに巡回してくれ──というのが? よそ行きのこの格好で?」
ウェーブの入った白髪をなびかせながら、少女は返答代わりに尻尾と耳を揺らす。臙脂に白の映える和洋折衷式のメイド服とやらは、街から女給がそのまま出てきたかのようだ。明らかに林に入る格好ではないし、僕とて袴まで締めた以上、土を踏むのは本意ではなかった。
「先生のお召しもお似合いですよっ。林に入るのは、流石にこまねも想定外でしたが……」
「とはいえ、あの村人の話を即諾したのは、──っ!?」
刹那、血の気が引くような悪寒に足を止める。ここに足を踏み入れた時の肌寒さでもなければ、春先のそれでもない。ただ何かがおかしくて、何かがいる。それを物語るように、僕の革靴が硬いものを蹴った。カランコロンと鳴る骨。柔らかな小動物の死骸たち。
──少し向こうで宵闇に揺らめく、人間の形に成りきれない、黒より暗い影。
それを認識すると同時に、心臓が締め付けられるほど痛んで早鐘を打ち始める。小刻みになっていく呼吸を無理やり止めながら、胸を押さえたいのすら我慢して平静を装った。
「……怪異。堂主とかいうあの青年、謀りましたね。貴方も共謀というわけですか」
「こまねは堂主に頼まれただけですので、文句は堂主にお申し付けください」
「まったく……。待遇の良い古書店の仕事かと思ったら、化生相手なんて話違いですよ」
「待遇は良いですよっ。だって先生、あの化生が“視える”んでしょう?」
彼女はこんな状況でも弾んだ調子を変えないまま、確かめるように訊いてくる。他人の手前で平生を気取っている僕とは大違いだ。そもそも、知ったうえでここに来ているのだから。
──兄を亡くした幼少期の出来事がフラッシュバックする。あれも逢魔ヶ時の林だった。宵に呑まれたとしか言えない、たった一瞬の神隠し。けれど僕は、闇に一瞬、怪異の姿を見た。だからきっと、視えなくてもいいものが、あの日を境に視えるようになったのだ。
「綺月先生、ぼーっとしていたら真っ先に襲われますよ──ほらっ」
「なっ……!」
反射的に後ずさった瞬間、どす黒い影から覗く単眼だけが間近で僕を見ていた。しかしそれも一瞬、やつは逃げ帰るように地面を辷っていくと、また距離を置いて静止する。咄嗟に止まっていた息を吐き直してから、自分が半透明の箱に守られていることに気がついた。
金縛りみたく身体がすくんで動かない。既視感のあるあの影から目が離せない。少しでも動こうものなら、すべてが瓦解してしまう──そんな支配に苛まれていたはずが、なぜだか馬鹿馬鹿しいほど嘘のように引いていって、この箱のなかこそが安穏だと、ふと思った。
「さて、先生も“視える”側であることが確認できましたし、これにて依頼は終了ですねっ。あとの処理は他の者がやってくれますので、こまねたちは帰りましょうか!」
「ちょっ──待ってください、この箱はいったい……」
「〈
フリルエプロンの付いた袴を軽やかにひるがえしながら、彼女は踵を返して、もと来た道を戻ろうとする。けれど途中で思い出したように振り返ると、影に向かって手を振った。
──それを合図に、落雷にも似た閃光と衝撃音が辺り一帯を吹き抜けていく。咄嗟に目蓋を閉じたのも束の間、次の瞬間にはその余韻すら失せていって、だんだんと耳に馴染む自然の音だけが残されていった。頬を撫でる生暖かい風に、少女の快活な笑い声が混じる。
「さぁ、それでは、丑三堂に戻りましょうか。堂主も待っていますからね!」
目蓋を開けば闇を遮る黒もなく、辺りはすっかり宵に染まっていた。