「……ぎゃあ……お……」
どこかで赤子が泣いている。
すぐ近くで聞こえる声が気になって目を開けた。
天井が目に入り、左右に目を向けてみる。豪奢ではないけどボロボロでもない家具らしきものが見えた。どこかの家らしい事はわかったが、赤子の姿はない。それどころか人の気配がない。
──私はなぜ、知らない部屋にいるのだろう。
こうなる前の事を思い出そうとしてみる。
確か、仕事が終わって家に帰ってきて、一息ついて。チャンネル登録をしている動画投稿者の動画をただただ眺めていた。それで終わりだ。
──思い出せないだけで、誰かの家に来たのかもしれない。でも、赤子がいるような家庭にわざわざ泊まるなんて、するだろうか
不思議に思いながらも、ひとまず私は起き上がろうと体を横に動かした。よく見れば、編みカゴのような物が壁のようになっている。壁といっても大した事はない。私が今寝転んでいるから壁のように感じるだけで、立ち上がれば気をつけないと躓く程度のものだ。
手をついて、まずは上半身から起き上がろうとした──が、目に入ったものに私はぴたりと止まった。そこには小さくふっくらと柔らかな手があったからだ。
そう、それはまるで赤ん坊のように。
そこでようやく、私は自分の体を見る。手だけじゃなく、体も小さくぽってりとしている。頬はふっくらと跳ね返してくる。
「ああーーーーー!」
私はこれでもかというくらいに、声を上げた。部屋中に響き渡ったと思う。部屋の中どころか、部屋の外にまで届いていそうだ。そして、思わず出たその声は、少し前まで聞こえていた赤子の声だった。
──私、赤ん坊になってる? 夢から覚めたと思ったけど、そうじゃなかった?
コツコツ。
不意に、急ぎ足で靴を鳴らす音が部屋の外から聞こえた。
誰かがこの部屋に向かってきている。さっきまで、人の気配を全然感じなかったからドキドキする。悪い人だったらいけないし、どこかに隠れたい。しかし、生まれたての赤ん坊であるこの体は、満足に逃げる事も出来なさそうだった。立ち上がろうとしても、上手く足に力が入らなくて
崩れてしまい、結局寝転んだ。
そうしている間にドアが開く音がした。危ない人じゃありませんように。
堂々と寝転びながら、最悪の事態だけは起こらぬ事を願っていると、こちらまでやってきた。私の目の前まで来て、私を見下ろすのは女性だ。あどけなさはないけれど、若く感じる。日本人の顔立ちでは無さそうだ。
女性はこちらを不安げに覗き込み、両腕を伸ばした。訪れる浮遊感。雲のようにぷかぷか浮かぶのとは訳が違う。しなやかな腕の感触と、力がかかっている感じ。体の後ろ側を支えられながら、ゆっくりと、彼女の腕の中へと収まった。
上下左右に揺らされるけど、ちょっとぎこちない。でも、なんだかあたたかい。ふわふわの毛布でそっと包まれているような、そんな気分になる。揺らされているからでも、優しく抱いてくれているからでもない。
感覚的な事じゃなくて。
なんとなく、この人が近くにいる事が安心した。
──私が声を上げたから来てくれた。きっと、この人が私の母親なのだろう
母の安心感に包まれていたが、まだ今の私の状態は謎のままだという事は変わってない。私の体は見た感じ赤子そのもの。だけど、私が覚えている自分の姿は社会人として働く姿だった。という事は、私はいつの間にか死んでしまって、転生したという事だろうか。事故に遭った記憶や、急病とかで苦しんだ覚えはないから違うとは言い切れない。
死後の世界があるとか、転生するとか、雲の上に行くとか、幽霊になるとか、世の中には死後に関する情報がたくさん溢れている。
私はというと、どれも強く信じている訳ではないが全部否定している訳でもない。だから、転生であるとしても、本当はそうだったんだ──くらい。
輪廻転生という前世の記憶を持って生まれる事もあるなんていうのも聞いた事がある。もしかしたら、私もそれなのかも。
しかし、転生というには気になる事がある。
家の中を見る。平凡な家具。壁もシンプルで、壁紙らしき物が貼られている感じではない。床にはカーペットらしき物が敷かれている。違和感がないようにも思える。
なんだろう。何がおかしいんだろう。
──あ……。電気を使う物がない? コンセントもない気がする
拭いきれない違和感の正体を探って、目だけであちらこちらと見てみて思ったのは電化製品がないという事だった。ランプは置いてあるけど、それも電気を使う訳ではなさそう。
「、……。?」
「あう、あー?」
母親の方から何か聞こえて見上げる。母親である女性は唇を開き、何か言っているみたいだった。返事をしてみたけど、何を言っているかはわからない。日本語でもなければ、英語でもなさそうだった。日本語じゃないからわからないにしても、この辺りに生まれたなら分かってもいいのになあ。
──それにしても、こんなにも中身は大人のままなんて変な感じだ。
これじゃあまるで、中身だけ違う世界にでも飛ばされたみたいだ。
ポロッと自分の中から出てきた言葉に、私は稲妻が走ったような衝撃を受けた。さすがにそんな事はないと思いながらも、あらゆる謎が納得がいく形に落ち着いてしまう。
──まさか、そんな。私は、異世界に転生した?