その日は夜明け前にささやかな雨が降り、ラヴェンナは、起きた時から肌寒さを覚えては布団を身体に巻き付けてあたたまるのを待っていた。
「……」
白くごわごわした肌着姿のまま、細長い人差し指を暖炉の横で束になった薪へ向けてはひょいと宙で横方向へ動かす。すると、一本だけが吸い込まれるように入って中でパチパチ音を立てて燃え始めた。これを何度か行った後、大きな欠伸をしてからベッドの上で芋虫のようにもぞもぞ動いて心地よい姿勢を探る。
「ふああぁあぁ……」
(……うん? 雨の味がするわね)
ふと心配になって窓の外を見るも、軒先から垂れた水が間隔を置いて滴るだけだった。どうやらもう既に晴れているようだ。雲の割れ目からは新鮮な朝の光が射し始めている。
別の窓から覗くと、反対側には綺麗に透き通った空が広がっていた。この分であれば、今日はこれからどんどん良い天気へ変わっていきそうだ。
(良かったわ……)
(ああ、でもまだ布団から出たくないかも。もうちょっとだけ)
(もうちょっとだけよ……)
部屋が十分に過ごしやすくなるまで、そう言い聞かせながらまた目を瞑る。
穏やかな笑顔でまどろみに入った黒魔女は、お隣のロクサーヌが起こしに来るまで怠惰な二度寝を楽しんだのであった。
「ラヴェンナ様、ラヴェンナ様。朝ご飯ができてますよ」
「うん?」
「今日は満月の日でしょう。そろそろ起きないと、準備が間に合いません」
「うん……」
それから、じゃがいものポタージュとパン、目玉焼きの朝食をいただいた後、ラヴェンナは家のクローゼットの扉を開けてはごちゃごちゃとした中身を引っ張り出して整理し始めた。
外からはニワトリの景気良い鳴き声が聞こえてくる。
普段の黒いローブと黒い三角帽子を被り、魔女らしい格好になった彼女は早速中から水晶玉を引っ張り出す。それをテーブルの上に並べ、今度は魔石の入った瓶に香炉を取り出した。それから……
(確かこの辺りに……あった)
紙に包まれていた、かつて遠い異国から取り寄せた香木の塊を取り出すとその一部を削る。灰で満たした香炉に炭を乗せ、火を灯してから上へ置く。
すると、たちまち甘みのある上品な香りが広がり始めて、魔女小屋の雰囲気もがらりと変わった。ラヴェンナは穏やかな笑みを自然と浮かべながら、用意した水晶玉や魔石の類い一つ一つを柔らかな布でカラ拭きし始める。
(今年は……カトリーナ相手に使ったくらいかしら?)
(弟子もいなくなってしばらく経つし、もっと使ってあげても良いのかもね)
(道具は使ってなんぼだし……)
窓辺の椅子に腰掛け、どこか異国的で神秘的な匂いの中で手を動かす。軒先からは早朝の雨水がぽたぽたと間を置いて滴り落ちる。
幻想の大魔女ラヴェンナは長い魔女人生を通じて沢山の魔道具を持っていた。その中には今は殆ど使っていないものも多いが、今日この日は出来る限り全ての道具を外に出し、丁寧に手入れすることを決めていたのだ……
座るのに疲れていたら今度は立ち上がって井戸へ向かい、地下から新鮮な水を汲みにいく。日が高いところまで昇ってきたせいか外は心地よいあたたかさで、縄を引いて滑車を回している時も頬が緩みっぱなしになってしまっていた。
(うーん……終わったらひと眠りしちゃおうかしら)
(今夜はちょっと特別だもの。今のうちに面倒なことは全部やって……)
気分良く水を用意したラヴェンナはそれを家の傍で取り置くと、それから突然思い出したように裏手の蔵へ向かう。扉を開けた後にラヴェンナは中へ入って、出てきた時には大きな浴槽と木の壁を魔法で浮かせながら従えていた。
そのまま庭のよいところを定め、浴槽を置いて露天風呂をセッティング。周囲に即席の目隠しも築き上げる。
(今日は魔法の調子も良いわね。たまにはこうやって楽をしないと)
ガーデンテーブルの方を見ると、そこには大きな平皿と丸い形をした鉄の蓋が見える。中を覗けば小さなサンドイッチが並んでいた。そのうちの一つを頂いてからラヴェンナは魔女小屋へ戻り、ローブ姿のままベッドへ転がり込む。
(……)
ふと思い当たって、棚に座っている「ミノタウロスくん」に指を伸ばしてからクイクイと手招きするように曲げれば、彼は棚から大ジャンプを決めてラヴェンナの胸元へ飛び込んできた。小さくも愛らしいぬいぐるみを腕に抱き、しばしの間を昼寝で過ごす。
◆ ◆ ◆
満月というものはどこに住む者たちにとっても特別感のあるもので、普段から大して信心深くない人々も、夜の空で煌々と光る黄金色の円を見上げる時は何か言葉にしがたい静かな感慨を覚えるものである。
一方ラヴェンナはと言うと、彼女は満月の夜にまつわる古くからの伝統を守り続ける魔女の一人だった。魔法に用いる道具を自然由来の魔力で満たす、これを月が綺麗に輝く夜に行うのが恒例となのだ。その中でも、秋は空が透き通っていて儀式もしやすく、月光を拝むにもうってつけの日だった。
だからこそラヴェンナは日が出ている内に道具の支度を済ませて、その時が来るまでうたたねで過ごすのである。
決して彼女がぐうたらな訳ではないのだ。おそらく……
「んあっ……」
ベッドの上で寝返りを打ったラヴェンナは、ふと、お腹の下敷きになっていたミノタウロスくんに気付くと彼を引っ張り出して救出。抱き直し、窓の外を確認する。ちょうど夕焼け空が広がっていた。
夜が近い。
ラヴェンナはいよいよ立ち上がり、身体を解してから露天風呂の下へ向かう。
(お風呂の水は湧かす直前に汲み上げたいものね)
(起きて早々は大変だけど……まあ、これに関してはサボれないわ)
井戸水を浴槽へ移しながら魔石の仕掛けも動かして湯を温める。あとは時間を待つだけとなっていると、ロクサーヌが少し早い夕食を知らせてくれた。
「ラヴェンナ様、食事の支度が調いました」
「ありがとう。今日は何?」
「秋の野草で作ったサラダにイノシシ肉のステーキ、付け合わせで根菜とキノコの炒めものがあります」
「最高ね。早速頂くわ」
空が暗くなってくる中、魔女二人はランタンを灯りに庭のテーブルへついた。ロクサーヌの出したものは森で獲れた天然物を惜しげも無く使った逸品揃いだ。手元の大皿には肉厚のステーキが香辛料の鋭さを纏いながら鎮座し、普段より野性的な雰囲気を醸し出していた。
「はぁ……」
思わず恍惚の息が漏れる。
一口運べば口の中は濃厚かつ旨い脂でいっぱいになった。その残った味わいで付け合わせの食感を楽しんだ後、みずみずしいサラダの清涼感と苦みで爽やかな口内へ戻る。きっとハーブも織り交ぜているのだろう、食事の最中も気持ちよくナイフとフォークを動かせてしまう。
自然由来の食材は、村や畑で育てたものに比べると尖った味をしていることが多いものの、ラヴェンナはその突出した個性を舌で愛でる。かつて森で暮らしていた彼女にとってこれは昔を懐かしむ味であり、彼女の根源を構成した原初の味だった。そしてそれを、最も月の力が強くなる日の晩餐で頂くのだ。
向かいでは白魔女のロクサーヌも目を閉じながら咀嚼し、肉と野草を噛みしめている。あまり感情を表へ出さない彼女だが、結ばれた口の端がごく僅かに上がっているのがラヴェンナにはよく分かる。
「いつもありがとうね。私に合わせてもらってばかりで」
「いえいえ、私にとっては馴染みのなかった文化ですので、その一端を担うことができて嬉しく思っていますよ」
「ふふ、冬になったら魚料理を期待しても良いかしら」
「はい、お任せ下さい」
沈んだ太陽とは反対の方角から、目に見えて金色に光る丸い月が昇り始めた。それがもたらす光は暗闇をぼんやりと照らし、道を歩くだけであれば灯りは要らないとさえ思わせてくれる。
ラヴェンナが食べ進めている間、ロクサーヌはふと立ち上がっては魔女小屋へ戻り、とある小物を両手に帰ってきた。そこにはいつぞやか彼女が買っていた、黄色くてまんまるとしたアヒルのおもちゃが収まっていた。
「ラヴェンナ様、もしよろしければこの子も」
「あら、いいわね。一緒に入りましょうか」
夜は更けていく……
やがて食事を終えた黒魔女は、手乗りサイズの眷属を従えながら用意していた露天風呂へ戻ってきた。既に湯は丁度良い温度に落ち着いている。木で造られた壁に囲まれた中、ランタンの薄くぼんやりした明るさを頼りにローブを脱いでは吊していく。
一糸纏わぬ姿となったラヴェンナは、そのまま湯面を足の先で割って温かみへと身体を沈める。横に置いていた灯りを落とせば、上から降りてくる銀色の光が周囲の様子を代わりに知らせてくれた。
ふっくらとしたもち肌に白みを帯びた艶が乗る。長い脚を交差させると、共に浮かばせていたものたちがユラユラ揺れながら漂っていく。
「ふう……」
煌々光る満月の下、若々しく美しい魔女が足を伸ばしながら、手腕を柔らかく擦って自らの身体を清めている。空より降り注ぐ光は浴槽の中を神秘で満たし、ラヴェンナと、彼女が用意していた魔道具たちに月の力を与えていく。
(面倒だけど、なんだかんだで毎年やっちゃってるわね)
(そうだ、ロクサーヌから借りたこれ……)
せっかくなので、アヒルのおもちゃのゼンマイ仕掛けを巻いて作動させる。
ピチャピチャピチャピチャ……懸命に泳ぐ姿がとってもキュート!
(うーん、良いわねぇ……)
穏やかな風に揺れる草木の音、どこか遠くから届いてくる鈴虫の鳴き声。
この時間が、黒魔女の秋には欠かすことのできない特別なルーチンの一つだ。