その日は、アレンがウィンデルの黒魔女を訪れて「仕事体験」する日だった。
修道院から長い道のりを歩いた少年が扉をノックすると、彼よりもずっと背の高い魔女はバラの香りを漂わせながら、頭をわしゃわしゃ撫でて迎えてくれる。母親のようでありながら憧れの女性の要素も併せ持つ魔性の存在は、年頃の子にとってはなんとも難しい相手でもあった。
「はーい、よく来たわね。待ってたわよ」
「わぁぁぁぁぁ」
「今日は森に行きましょう。道具は準備してあるから、外に出るわよ」
家の横には編みカゴが立てかけられて天日干しにされている。
アレンは早速それを背負った。道中でブレないよう、ラヴェンナは屈んでから彼の肩や腰回りの紐を調整してはギュッと縛る。近くに来ると良い匂いがした。
準備を進めていると、何やら楽しい気配を察知したのだろう、集落の向こうから褐色肌の女性がぼさぼさの白髪を揺らしながら走ってくる。ライラだ!
「よっす! お二人はこれから何を?」
「森に行くのよ。どんぐりとか、栗とかを拾おうと思って」
「はい。お手伝いです」
「お、んじゃああたしも着いていっていいか?」
「勿論よ。早く準備してきなさい」
「いよーし!」
同行の許可を貰えたライラはすぐさま来た道をすっ飛んで戻っていった。
それからしばらくも経たないうちに、アレンたちと同じようなカゴを背中に背負って帰ってくる。相変わらずのバイタリティだ。魔物学者たる者、これぐらいないとやっていけないのだろうか?
「準備できたぞ!」
「じゃあ行くわよ。アレン、あなた、森に入ったことは?」
「あんまり無いです」
「だったら貴重な経験ね。でも、必ず私かライラの傍に居なさいよ。一人で迷い込もうものなら、あとから探すのがとっても大変なんだから」
ラヴェンナの言葉に頷いたアレンは頼りがいある大人二人の後に続く。
先には黒々とした広い森があった。普段は遠目にしか見ない場所だが、今回はその中へ足を踏み入れる。まだ二十年も生きていない少年にとってそこは、何が起こるかも分からない未知の世界であった。
◆ ◆ ◆
魔女たちにとっては入り慣れた森も、あまり親しみの無い者からしたら異界への入口のようだ。人の通る場所こそ綺麗に整備されているものの、殆どは最低限刈り払いのみが行われただけで視界も足元も悪い。本当に誰も立ち入らない領域ともなれば木々の形は自由自在にうねり、進む道も差し込む光も全てを遮って暗い世界を作り出すのだった。
夏の暑さも遠くなった今は、地面に赤や黄色の葉が降り積もっては天然のカーペットを作っている。今日はこの近辺で作業するかと思いきや、大人二人はもっと良いスポットがあると言って奥へ進んでいく。
アレンは置いていかれないように、忘れられないように度々話しかけてみる。
「あの」
「どうしたの?」
「随分と行くんですね」
「そうよ。入ってすぐのところだと、みんながもう拾っちゃってるでしょ」
「誰もいないところまで行けばお宝はガッポリあるかもしれない……だからこそ戻ってこられなくなったり、危険な目に遭ったりする奴もいるんだけどな」
大人二人の背中。それは何かの拍子にどこかへ消えてしまいそうな気がした。アレンは必死に彼女たちへ着いていく。そうしているうちに、ラヴェンナが周りを見回しながらその足を止めた。
「このあたりが良いわね。見て、早速落ちているのを見つけたわ」
「じゃああたしはもう少し先の方に行ってくる。何かあったら叫んでくれ」
「森の地形は詳しいの?」
「そりゃもう。来て数日は、ずっとこの辺りで食い物を探していたからな」
ライラは慣れた様子で近くの木に足を引っかけては器用に登り、森全体を見通せる場所を探しに向かった。ラヴェンナは腰に手を当てるとアレンの方を向き、笑みと共に「さてどうしようか」などと視線を送る。
「あとは好きにやりなさい。本当に危なそうな時は私が一言言うから」
「ど、どうしたら」
「どうしてもいいわよ。ここは森の中で、私と貴方しかいないんだもの」
「……」
頭の上からにっこりと微笑まれたアレンは恐縮しながらも視線を逸らす。
そうして身を屈めると、足元の落ち葉をかき分けながら落ちていたどんぐりを一個ずつ拾い始めた。ラヴェンナが選んだ場所なだけあって、森の入り口よりも沢山の量を見つけることができた。
手のひらはすぐにいっぱいになって、背負ってきたカゴの出番がやって来る。ひょいと後ろ手に入れてみれば最初は網目の底に当たる音がしたが、木の実拾いに没頭していくと、途中からカチカチと実同士がぶつかる音へ変わっていく。
「ラヴェンナさん、この辺りに、栗がたくさんあります」
「良いわね、それも持って帰りましょう。外の“いが”は要らないから適当なところにまとめて捨てちゃって」
栗の実は刺さると痛いトゲに覆われている。アレンが木の枝で中身をどうにかしようとした時、ふと、横でラヴェンナが靴のつま先で踏みつけながら剥いていく様を目撃した。
両足を使っていがを押し広げ、こぼれ出たものを地面へ転がしてから拾う。
実に無駄のない、やりなれた足捌きだ!
(わ……)
ぐりぐり、ぐりぐり……思わずその姿に視線を奪われていたら、ラヴェンナが不思議そうな顔で見下ろしてくる。アレンは慌てて別の方を向き、見よう見まねで足元の栗を取り出そうと試みた。うまくいって、実がぽろんとこぼれ落ちた。
最初は雑多な茶色に見えていた森の地面も、目が慣れてくると微かな色の違いを判別できるようになってくる。少年は地面から伸びる黄色い塊を見つけると、傍で膝をついてから落ち葉をかき分ける。果たしてそこには、かぐわしい香りを放つかさの開いたキノコがあった。大きさも見事だ!
(やった、大物! 良い匂いもする……)
(でもこれって食べられるのかな。聞いてみなきゃ)
早速ラヴェンナに声を掛けようと顔を上げたその時。
遠くの方で……さっきまで居なかった茶色い塊のようなものが動いて見えた。
(え?)
現実離れした空気を放つそれは、のそり、のそりと四つ足で彷徨っている。
やがて、アレンの方に気付くと首を向けて立ち止まる。クマ……森の王だ!
(あっ)
(あ)
(ああ……)
(クマだーーーー!)
それがどれだけ危険な存在かは修道院で散々聞かされている。だからこそ頭の中が一瞬で真っ白になって、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
身を屈めたまま後ろへ下がっていたら、背中を自分よりも大きな身体に抱き留められた。肩が腕に包み込まれると、頭上から、普段よりもやけに低い黒魔女の声が指示の形で降りてくる。
「ラヴェンナ、さんっ……」
「あれと目を離さないで。大丈夫よ。ゆっくり下がって……」
足並みを揃え、相手を刺激しないように後退。肩を包み込む指先にほんのりと力が込められて肌を微かに押し込んだ。
やがてクマは踵を返すと森の奥へ歩き去っていく。巨体が遙か遠くで見えなくなったのを確認した後、アレンは気力が抜けたようにへたり込んだ。涙が零れそうになるのを堪えるので精一杯の彼は、今はラヴェンナに支えてもらわなければ座っていることもままならなかった。
「うう……」
「怖かったわね、でももう大丈夫よ。このあたりで切り上げましょうか」
「あっ、あの」
戻る流れになる前に、アレンは先程発見した黄色いキノコを指さした。
落ち葉を払いのけたお陰かラヴェンナはすぐに気付き、感心したように唸ってから少年の頭をわしゃわしゃ撫でる。乱暴だが、とても優しい手の感触だった。
「いいもの見つけたわね。それも持って帰りましょう」
「うわぁぁぁぁ」
「ああもう、泣かないの。一緒に行くわよ。そうだ、ライラも呼ばなくちゃ」
ラヴェンナが木々を見上げて名前を叫べば、遠くで動いていた彼女はすぐに枝を伝って帰ってきた。クマの情報を共有した後、既に一定以上の収穫があったことから早めに帰還する運びとなる。
アレンは、自分が無事である実感を未だ得られていないような表情だった。黒魔女の身体にぴったりと張り付き、年少の子供のように離れようとしない。
◆ ◆ ◆
それからは何事もなく、三人はウィンデルまで戻ってきた。
ロクサーヌの家に集まった四人は、カゴに溜め込んできた木の実を種類ごとに分けて数を整理していく。中でも、最後にアレンが知らせた黄色いキノコは良いサイズ感と香りでテーブルの真ん中に堂々と鎮座していた。
「しかし、
「これは彼のお手柄よ。でも丁度その時にクマと出くわしたわ。向こうも食べ物を探してたのでしょうね」
「まあ、クマがいたのですか……?」
「こわかったです……」
「まぁまぁ、生きて帰ってこられたならいいじゃないか」
椅子に座っていたアレンは未だ肩をすぼませている。それを解すようにライラが背中をどんと強く叩いて励ます。
「次があったら、もっと気をつけて地面を見てみるといい。足跡にフン、あとは食べ残し、動物がいたサインってのは色んなところに隠れてるからな」
「あのねぇライラ、そういうのが分かるのは貴女くらいでしょうに」
「いんやぁ、あたしだってまだまだだぞ。そうだ、この間、猟師の爺さんたちの手伝いで森に入ったんだが、あれは凄かった。長年の経験と勘って奴だ……」
机の上に並べられたどんぐりと栗はなかなかの量だ。これは一度水につけられてから殻が剥かれ、中のみを取り出して砕くことでようやく食用が叶う。しかし少年の苦労をすぐさま労うため、今は麻で編まれた小さな袋に大小様々な木の実が入れられていった。
ライラが昔語りに耽る間、ロクサーヌは暖炉の方でフライパンを傾けては何かを作っていた。すると程なくして、バターの良い香りと共にあの黄色いキノコのソテーが出された。
「わぁ!」
「アレン様が見つけた物ですよ。バターとオリーブオイル、あとは塩胡椒だけで調えました。どうぞお食べください」
「じゃ、じゃあ……」
アレンはフォークを使って一欠片を口に入れる。たちまち嬉しい驚きと共に目が大きくなり、恵みの味が頬をいっぱいに駆け抜けていく……
「美味しいです!」
「私もちょこっといただいちゃおうかしら。んっ――まあ、とても良いわね。自然の中で育った力強い味わいがあって……」
「モノによっちゃ、最近は人の手で育てたヤツも市場には出回ってるが……でも天然物にはまだまだ叶わないわな」
アレンはもう一口をしっかり味わいながら、ラヴェンナたち大人の会話に無言のまま混ざる。まだ十年そこらの人生、何を言っているか分からないことも結構あったが……周りより一足先に仲間として認めてもらえた、そんな不思議な感慨へ浸るには十分なものだった。